壱・白粉
白粉:おしろい。女性が顔や首筋などに塗布して肌を色白に見せるために使用する化粧品。
「What is your hobby? Ms,Kurokawa」
目の前の、少し背が高く、スラッとした体躯の女性教師に質問された皐月は、立ち上がって少し考えてから、「It is a hobby that I make sweets.」
と、答えた。
「ok. What is it that you prize? Ms,kazahana」
「It is the nonno a "Variegated Water Iris" which I prize. 」
皐月と同様に、希望も立って質問に答える。
一年英語担当の高妻は少し考えてから、「風花さん、その……『ノンノ』とはなんでしょうか?」
と、聞き返した。英語の授業なのだから、英語で聞き返すものである。
しかし、高妻はその単語に覚えがなかった。だから、日本語で聞くことしかできなかったのだ。
「すみません、英語に直します。『It is the flower a "Variegated Water Iris" which I prize.』」
と、希望は訂正した。『Variegated Water Iris』とは、黄菖蒲の英名である。
「ok,ok! It would be a beautiful flower」
高妻は小さく肩を竦めると、黒板に視線を向ける。
希望は小さく息を吐くと席に座りなおした。
「ノンノねぇ……、なんかどっかで聞いた覚えが」
廊下側の席に座っている信乃が、希望を一瞥しながら考える。「なんだっけかな?」
「Ms. Myoukou, please pay attention in class.」
高妻に英語で注意され、信乃は教室の正面を見やった。
――と、英語の授業を続けていくと、チャイムが聞こえてきた。
「That's it for today's lesson is. The next class so the quiz, please leave preparation.」
高妻がそう告げると、意味がわかった生徒たちがブーイングを起こす。
「大丈夫よ。そんなに難しい問題を出すわけじゃないから」
そう言うと、高妻は教室を後にした。
「皐月、お昼どうする?」
皐月の机にやってきた信乃がそう尋ねる。
基本的に福嗣高校はお弁当制なのだが、決まった場所で食べなくても良いようになっており、教室で食べる生徒や中庭などで食べる生徒、食堂で食べる生徒と、教室内での生徒の数は疎らになっていた。
「そうだね……」
皐月は少し考えてから、「信乃、たしかタマネギ大丈夫だったよね?」
「大丈夫だけど? てか、どうかしたの?」
「実はさ、今日お母さんがお父さんと久しぶりにデートだから昨日からいないのよ」
「瑠璃さんは?」
「瑠璃さんは瑠璃さんで、爺様と三泊四日の旅行中。今日には帰ってくるんだけどね」
皐月は、頬杖を付いて、小さくため息を吐く。
「んっ? それじゃぁ、今日のお弁当誰が作ったの?」
そう聞かれ、皐月は信乃から視線を逸した。
「――毘羯羅」
「いや、いくらなんでも十二神将に炊事を頼まなくても」
信乃は、あきれた表情で言う。
「正直に言いなさい。あんたが嘘吐いたり、邪なことがあるときは、いっつも視線合わせないでしょ?」
そう言われ、皐月はぐぅっと唸る。
「自分で作った」
「まぁ、それくらいなら恥ずかしくないでしょ? で、要するに作りすぎたってこと?」
皐月は、その問いかけを答えるかのように、小さく頷く。
「了解。まぁ部活もあるし、多いに越したことはないわよ」
信乃はそう言うと、信乃は皐月の手を取った。
「ほら、早く行かないといい場所とられるわよ」
二人が、教室から出た時である。
「先生のネイル綺麗」
自分たちと同じ学年の女子生徒数人が、高妻を囲んでいるのが目に入った。
「ふふふ、ありがとう」
高妻はまんざらでもない顔でお礼を言う。
「いいなぁ、私もやってみたい」
女子生徒の一人が愚痴をこぼした。「大丈夫よ、ネイルアートはだいたいつけ爪だからね。学校がない日につければいいじゃない?」
「あ、その手があった」
高妻と女子生徒たちの会話を聞きながら、信乃は横目で高妻の爪を一瞥した。
青の下地に細かい砂が散りばめられており、ふたつほど大きな星が付けられている。
「信乃、どうかしたの?」
「いや、なんでもない」
信乃はそう言うと、階段を下りていく。皐月もそれを追うように下って行った。
「さてと、いただきます」
中庭に着き、日陰になったベンチに座った皐月はお弁当を開いた。
その隣に座った信乃は、皐月の弁当の中を一瞥する。
「タマネギのみじん切りを混ぜた卵焼き。刻んだタマネギと牛肉の和え物。特に変わったところはないし、そんなに量使ってないじゃない? だいたいタマネギひとつ分?」
「うん。ただ自分で作ったから。瑠璃さんほど上手じゃないよ」
皐月は、不安な表情で言った。
「別に多くはないでしょ? それにわたしタマネギ好きだしね」
「犬なのに?」
首をかしげながら、皐月は尋ねた。
「あのね? わたし小学校のキャンプの時、普通の、玉ねぎが入ったカレー食べてたわよ?」
信乃は、そうじゃなくても犬じゃないんだからと付け加える。
犬にネギを食べさせると貧血などの症状を起こし、命に関わる。
「ほら、毒見してやるからひとつやりなさい」
信乃は皐月の弁当を摘みながら、時々片手に持ったサンドイッチを頬張っていく。
「うん。だいぶ甘いけど食べれなくはない」
「そろそろ落ち着いてくれないと、私の分が……」
「ああ、ごめんごめん。そんじゃぁ、わたしの半分食べていいよ」
信乃は、バスケットに入れられたサンドイッチを手渡す。
「信乃も結構多いよね?」
「大丈夫よ。どうせ部活でカロリー消化されるんだし。てか、わたしはあんたの体の方が不思議でならないわよ。どうして太らないわけ?」
突然そう聞かれ、皐月は戸惑った。そもそもそんなことを気にしたことがない。
年相応の成長に伴って、体重が重たくなるのは仕方ないのだが、信乃が気にしているのはそこではなかった。
「だいぶ前だけど、合格祝いにケーキバイキング行ったでしょ?」
信乃もその時一緒に行ったのだが、少し気にしてそんなにケーキを取っていない。
にも関わらず、皐月は1ホールはあるくらいの量を食べている。
「それで、どうして太らないのよ」
「つまり、信乃は太ったってこと?」
サラッと聞かれたくないことを訊かれたので、信乃は少し躊躇う。
「身体検査の前までにいつもの体重に戻せたけど、五キロくらい増えた」
信乃はサンドイッチを一気に頬張った。
――そういう食べ方がダメなんじゃないかなぁ。
皐月はゆっくりとご飯を頬張っていく。自分で作ったので美味しいかどうかはわからない。
食い方を間違えなければ、皐月は特に太る体質でもないと、瑠璃からそう教えてもらった。
なので、食べるときはゆっくりと、噛み締めるようにしているのである。
「ごちそうさま」
二人が昼食を食い終え、片付けているちょうどその時、工事の音が響き渡ってきた。
「えっと、どこ工事してたんだっけ?」
信乃がそう尋ねる。少し遅れて皐月は反応した。
「え? なんて言ったの?」
「どこ工事してたんだっけ?」
少し大きな声で聞きなおす。「たしかプールのところだったと思う。この前大雨があって、更衣室のところに雨漏りが見つかったって」
皐月は大声で答える。工事の音で信乃の声がかき消されて聞こえなかったというのもあるが、もうひとつ気になることがあった。
「ちょっと気になるし、見に行ってみる?」
「見に行くって、ちょっと信乃?」
皐月の声も届かず、信乃は工事の音がする方へと掛けていく。
それを見て呆れた表情を浮かべながらも、皐月もあとを追った。
――今日、私生理で部活は見学するって、顧問の峡先生に云ってるんだけどなぁ。
「ああ、そこ直したら次は」
嗄れた声を張り上げながら、現場監督の枚方が作業員に言い渡す。
五十を疾うに過ぎているであろうこの男は、白髪交じりのオールバックで、ロマンスグレーを醸し出している。若い頃は、さぞもてていたであろう。
「了解っす」
作業員たちが返事を返す。ドリルやらの音でうるさいので、大声で返事が飛び交っていた。
「枚方さん」
高妻がそう枚方に挨拶する。「これは高妻さん。工事は今日終わりそうですよ」
「そうですか、去年あたり水泳部の子たちからも言われていたんですけど、急だったので予算出なかったんですよ」
「しかし、この学校もだいぶ歴史がありますからな。昔からある場所もガタが来ている」
「生徒たちからはトイレを直して欲しいとか要望が来てましたよ」
二人がなんとも楽しそうに話しているものだから、作業員たちは声がかけにくかった。
「親方、次どうします?」
「そんなの、自分たちで考えろ」
枚方が大声で言い返す。作業員たちはあきれた表情を浮かべる。
「ありゃぁ、あの先生に惚れ込んでるぜ」
「ってもさぁ、親方奥さんいるだろ?」
「まぁ、どうせ報われねぇよ。だって親と娘くらい離れてるんだ」
作業員たちは、仕事を自分たちに任せっ放しで、高妻と会話をしている枚方を快く見なかった。
「あれ? 高妻先生?」
信乃の声が聞こえ、高妻はそちらを見やった。
「あら、Ms,Myoukou&Ms,Kurokawa.どうかしたの?」
「先生、授業中じゃないんだから、普通に呼んでくださいよ」
信乃が高妻と話をしていると、「おや、この子たちは先生の生徒さんかい?」
「はい。今年入ったばかりの子たちです」
高妻が枚方に皐月と信乃を紹介する。
「そうかい。おれはここの現場監督だ」
枚方に挨拶され、皐月と信乃もそれに習う。
「二人とも、作業の邪魔になるから、教室に戻ってなさい」
高妻は、皐月と信乃を現場から離していく。
「それでは、枚方さん」
「――ああ」
二人の妙な間の空きに、信乃はどうも普通じゃないなと思った。




