眩惑
愛しています。
この言葉は、禁断の言葉。
チカの部屋は、ひどく甘い匂いがする。その匂いは別に嫌いじゃない。ただ、甘すぎる。
相変わらず俺は、重くて高い扉の前に立っていて、ベッドの上で漫画を読んでいるチカを見張っている。確かあの漫画は毎日読んでいるもののはず。よくも飽きずに読んでいられるな。
まあ、しょうがないのか。チカはもうすぐ隣国の王子のもとへ嫁いでいく。少々、いや大分おてんばなこの姫君は外出を一切禁じられた。
嫁入り前に問題を起こすなんて、この国の恥だとか王様が言っていたな。
さすがに飽きたのか、チカは読んでいた漫画を投げ捨てた。そして俺を手招きする。これも毎日行われている事。
「飽きた」
ただ一言そう告げると、チカはベッドから出てソファに座った。そして空いている隣を手でぽんぽんとたたく。隣に座れってことだろう。少し戸惑っていると、早くしなさいと目でせかされ、仕方なく腰をかける。
チカは嬉しそうに笑った。何がそんなに嬉しいのか。理解が出来ないが、いつの間にか俺もほほが緩んでいた。
「毎日毎日、暇そうっすね」
「そりゃ、外に出れないだから当たり前じゃんか」
これじゃ病気になるっての、ぼそりと呟きながらテーブルの上にあるクッキーに手をつける。
「その言葉遣いは感心しませんよ」
「うっさい、お父様みたいな事言わないで。ヨザは私の護衛なんだから、口答えしないで」
「はいはい」
「はいは一回!」
わがままな俺の姫君は、口を尖らせながらもまだクッキーを食べている。このクッキーは確か街で買ってきたもの。俺が任務に出てたときに、チカがせがんできてしょうがなく買ってきてやった物だ。
まだ食べてなかったのか、一瞬そう思うが、おいしそうにクッキーを頬張るチカを見て、文句を言う気も失せてしまう。
嫁ぐといってもまだ子供。嫁ぐと決まったときのチカは、それはもう大荒れだった。泣き喚いて、城中を破壊して、それは大変だった。そのとき任務からちょうど帰ってきた俺も、敵が侵入したのかと思ったぐらいだ。
王様に呼ばれ、部屋まで急いだ俺はさらに驚いた。部屋からはいつもの甘い匂いはせず、カーテンもベッドも原形をとどめていなかった。
何とか鎮めたものの、それを見た王様がこうして外出を禁じたのだ。いつあの時のようになるか分からない、確かに賢明な判断だろう。しかし、これでは俺がもたない。
二十四時間チカと一緒、これが耐えれるだろうか。女装だってするが、これでも男。想い人の一人や二人いる。それが、よりによって―――
「ねえ、ヨザ」
服のすそを引っ張ってきて、初めてボーっとしていたことに気付く。どうしたのと、心配そうに聞くチカに、俺は首を横に振った。
「ねえ」
「何すか?」
「お嫁なんかにいきたくない」
「……それはそれは問題発言を」
「本当のことだし」
何かをねだるような目で俺を見つめるチカ。そんな目で見ないでくれ。切実な願いは届かない。
チカは俺に抱きついてきた。ぎゅっと効果音が付きそうなほど、しっかりと体に手を回している。
「離れてください」
「いやだ」
「こんな所、王様に見られたらどうするんすか。外出禁止どころか、ずっと部屋に一人きりですよ」
それでも離れようとしないチカ。顔は見えない、が、きっと泣きそうな顔をしているに違いない。俺は密かにため息をついた。
このわがままな姫君は俺に何をしてほしいんだ。俺は何も出来やしない。貴女の結婚を取り消す事も、貴女を連れ出す事も、何も出来ない。
力が強くて何になる。戦いに勝って何になる。任務を遂行して何になる。あなたが望むことは何もしてやれないんだ。
依然抱きついているチカを、俺はゆっくりと引き剥がす。チカは泣きそうな顔をしていなく、泣いてもいない、ただ俺を見つめた。
目をそらせない。その漆黒の瞳に、引き込まれる。
ダメだダメだダメだ。脳が拒否反応を起こす。今まで必死に耐えてきた想いを、今吐き出して何になる。
でも、そらせない。逃げられない、その瞳から。
気付いたとき、チカは俺の腕の中にいた。してはいけない事なんて分かっているさ。このまだ幼げな女の子は、姫様で俺が護るお方、そして近々隣国に嫁いでいく大切な国の宝。
知ってた上での覚悟。理性なんて、もうどこかに吹き飛んでる。
「ヨザ」
「チカ」
知っているとも。今、目の前でウエディングドレスを身にまとっているチカが俺のものになるわけがないんだ。全部分かった上での行動だったんだ。
あの日、俺は禁断の言葉をついに言えなかった。
怖かったんだ。あの言葉を言う事によって、チカの幸せを壊してしまうのが。
チカの隣にいる王子、人のよさそうな青年だ。きっとチカを何不自由なく幸せにしてくれるだろう。この青年は、俺とは違う。
きっともう、あの甘い匂いを充満させた部屋に入る事はないだろう。
護衛の仕事はもうやらない。クビになったわけじゃない。俺が、チカのそばにいる権利なんてない。いや、権利なんてものはもともと俺にはないんだ。
本当は、そばにいると抑えきれなくなるから。他は全部言い訳。
「ああ、くそ。いい天気だな…」
皮肉なくらい綺麗な青空が、俺たちを包み込んでいた。