課長と部下とその後輩(前編)
「奥さんと旦那さん」本編の、旦那さんサイドを第三者から。
別に、課長のことをそんなに気にしたことなんてあまりなかった。
でも、ヤツが。俺の後輩のアイツが、ふいに言ったから。
「課長って、付き合ってる人とかいるんですかねー?」
そういや俺は、あの人のことを何も知らないな、と思っただけなのだ。別に、胸がきゅっと締め付けられるような痛みを覚える理由はないはずだ。うん。
今まで生きてきたなかで、これほどまでに「ミステリアス」という単語の似合う男はいないと思う。
俺の課の課長。
俺の4つ上。電車で通勤している。独身。それくらいのことしか知らない。
顔はそこそこで、身長もそれなりで、物腰は丁寧で、すっごく穏やか。表情はあまり動くことはないが、無愛想というわけでもない。そして仕事が出来る。後輩の指導とかもうまいし、上司ともその性格ゆえなのかぶつかることはほとんどない。あまり人と深く付き合うことがないが、それにしても職場の仲間としてこれほど好条件な人も珍しいだろう。
そこまで分析して、俺は後輩を見下ろした。俺も身長だけはある方なのだが、その上コイツはものすごく小柄なので、かなりの身長差が出来ることになる。コイツが俺と話すとき、一生懸命ぐい、と背伸びする姿はなんだか見ていると微笑んでしまいそうになる。そんな自分の頬をひっぱたきたい衝動を押さえつけながら、後輩へと疑問をぶつけた。
「なんでそんなこといきなり聞くんだ?」
俺の問いに、後輩は「なんとなくですよー」と笑った。照れたように見えたのは、気のせい、か?
「だって、課長ってプライベートが謎じゃないですか。でも女の子から人気有るし、どうなんだろーって思っただけです。ほんとそれだけなんですよ?」
「ふーん」
なんとなくそうとしか言えなかった。態度が悪いかとも思ったが、彼女はあまり気にしていないようだ。少し安心する。
「女から人気あるんだ?」
「知らないんですか?すっごく人気ですよ。バレンタインとか、みんな牽制しまくり。課長も笑顔で受け取ってくれるし、本気のコとか結構いるんです」
「そんなヤツ本当にいるんだな」
男の俺から見てもモテそうだとは思ったが、そこまでとは。うらやましいを通り越してなんだかちょっと可哀想になってきたぞ課長。モテすぎて辛い、なんて俺は思ったことはないけれど、本人としては真剣な悩みなんじゃないだろうか。
そこで、昼休みが終わった。俺も後輩もおしゃべりをやめて、デスクへと向かう。
課長はすでに仕事を始めていた。
その日から、何の気なしに俺は課長の観察を始めた。
別に、アイツが課長のことを熱心に見てる気がするから、とかそんなんじゃない。何の気なしに、なのだ。いいところは貪欲に見て覚えようという俺の向上心がなせる業だ。
翌日の朝、課長はなんだかやけに考え込んでいる様子だった。表情に明らかな変化があるわけではないが、それでもいつもより若干眉間にシワが寄っている気がする。
そんなことを考えながら午前中の業務を終え、昼休み。食堂に向かう途中、エレベータ内で課長と、事務の女の子が会話しているのが聞こえてしまった。
「今日ですか」
「はい。両親の結婚記念日なんです」
「それはおめでとうございます」
「今日は家族で食事に行くんですよ。記念日なので」
たったそれだけの会話だった。特になにもひっかかるところはなかったはずだ。しかし課長は、よりいっそう眉間のシワを深めたかと思うと、数秒後、いそいそと携帯電話を取り出しポチポチ打ち始めた。
そこで食堂に着いたので課長の様子は分からなくなったのだが、昼休みが終わり自分のデスクへ戻りつつ課長を見ると、さっきまでの思案顔は消えうせ、代わりにどこか嬉しそうな顔でパソコンに向かっていたのだった。
そしてその日は、遅くまで仕事をしている課長には珍しく、定時でオフィスを出た。しきりに携帯電話を気にしながら、少しばかりの早足で。
次の月曜日、課長にはたいした変化は見られなかった。
その翌日、課長の顔色は少しよくなかった。
そのまた翌日、課長は憔悴しているように見えた。
「なんか、課長、具合悪そうじゃありません?」
「……ああ」
後輩が心配、と呟く。また原因不明の胸の痛みが俺を襲う。その痛みには気づかないフリをして、俺は課長を見た。デスクのパソコンに向かって手を動かす課長。もしかしたら今までの俺ならこれまでとの違いに気づかなかったかもしれない。多分、ずっと観察してたからわかったのだろう。
仕事の悩み-というわけじゃなさそうだ。それなら、プライベートの悩みか?
プライベート。課長とあまりにミスマッチなその言葉に、なんだかおかしくなった。でもやはり課長の疲れ、困惑し、そして悲しげな瞳を見ていると、なんだかこっちまで悲しくなってくる。
課長のそんな様子は、それから毎日続いた。
一週間後の木曜日、残業途中でトイレに立ったとき、あいつが廊下の向こうから走ってくるのが見えた。
「おい、何走って……」
声をかけようとして、言葉を切る。
アイツは俺の横を走り去っていった。
アイツは、泣いていた。