7話
「君のことを愛しています」
耳元で囁かれたその言葉は、私の耳をすっと通り抜けて行った。言われた意味がよくわからない。「え?」と聞き返すと、旦那さんは困った顔で笑っていた。
「しっかりしてください。いいですか、ちゃんと聞いていてくださいね。僕は君のことを愛しています。好きなんてとっくに通り越している。君が僕を好きだと思ってくれる以前から、ずっと君のことを愛おしいと思っていました。即物的なことを言えば、君を欲しいとも思っていました。僕のものにしたい、君と永遠に一緒にいたい、とも」
驚きすぎて、声が出なかった。それどころか、すべての感情を表現することができなくて、私はひどく間抜けな顔をしていたように思う。
「それなら、なんで離婚、だなんて」
ようやく出た言葉はそれだった。
旦那さんは、きつく抱きしめていた私の身体を少しだけ離し、お互いの顔の見える距離でまた手を止めた。
「だから、なんですよ。このままでいけば、僕たちは結婚するでしょう。君は恋愛感情抜きに、それを当然だと思っていたようですし。それが、僕には我慢できなかった。僕は君のことを好きでしょうがないのに、奥さんに愛してもらえない結婚生活なんて、僕にとっては絶望だったんです。だから、心を僕のものにしてから、君という存在を法的に手に入れようと思った」
「それは」
「婚約を破棄して、恋人、ひいては友人、幼馴染という関係からやり直そうと思ったんです。当然何度もデートを重ねて、君が僕に恋をしてくれたら、プロポーズするつもりでした」
「だから改めるって言ったんですか」
「そう。本当は、ちゃんとこのことを伝えるつもりだったんです。でも、この前の夜、君は泣いてしまったでしょう?タイミングを逃したのもそうですが……何より、もし君にその意思がなかったら、と思って躊躇してしまったんです。結局、また次があると自分に言い訳して、先送りにしてしまった。その日から、君には見事に避けられてしまったわけですが」
ふふ、と旦那さんは自分を戒めるような難しい顔で笑った。私はそんな旦那さんの頬に手をやりながら、自分の気持ちを伝えようと必死だった。
「私は、あの日に気づいたんです。旦那さんのことが好きだって。でも私たちはお別れしたんだから、こんなの迷惑だって、遅すぎる、って」
涙が、こぼれていた。旦那さんはあの時と同じように無言でハンカチを取り出すと、しかし今回はぐっと自分の胸に私を押しつけた。ハンカチが床に落ちる。私の腕は、旦那さんのことを抱きしめていた。
「好きです。旦那さん。私、あなたのこと大好きなんです」
「僕もですよ、奥さん。誰よりも君を愛しています」
その日、私たちは明け方までずっとソファで抱きしめあっていた。今まで生きてきた20数年で、一番幸せな時間だった。そう旦那さんに伝えたら、「僕も生きてきた30数年で一番幸せな時間ですよ」と笑いながら言ってくれた。
週末で、本当によかったと思う。そうじゃなくては、なんとも味気ない別れを迎えるところだった。私は顔を洗いながら、そんなことを考えていた。母に電話したら、心配するじゃない、とは少し怒られたものの、仲直りしたのね、とも安心した声で言われた。そのあと愉快そうに親とも思えないようなセリフを言われたので、私は電話を切ってやった。なんてことを言うんだ。そもそも、私たちは「まだ」だ。
「大きな声を出して、どうかしましたか」
「なんでもないです」
「そうですか。それならいいんですが。あぁ、これ、僕のですがよかったらどうぞ」
「ありがとうございます」
差し出されたパジャマを手に取る。今から家に帰るのもあれだし、今夜は一睡もしていないのだし、これからお昼頃まで眠ろうということになったのだ。この唐突さというか、不思議さというか、が旦那さんらしいところだと思う。
「では、着替えてきてくださいね」
「はい」
「……僕の両親が使っていた部屋ですから、ベッドは二つあります。安心してください」
「そっ、そんなこと不安に思っていたりしません!」
「そうですか、残念です」
愉快そうに口元を歪められ、私は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。旦那さんはこんな人だったろうか。
「もう遠慮する必要はありませんからね。このくらいいいでしょう?」
「構いません!」
「いっそのこと、僕のベッドで二人で寝ましょうか?」
「いいですよ!」
売り言葉に買い言葉、という言葉を思い出したのは、笑いをこらえるという世にも珍しい旦那さんの表情を見た時だった。
「ねぇ、奥さん」
「なんですか」
「これからは、たくさん、気持ちを伝えあいましょうね。二度とこんなことがないように」
「……そう、ですね」
私は今、旦那さんのぬくもりに包まれてベッドの中にいる。
本当に、夢にも思わなかった状況だ。眠ったら覚める夢のようで、少しだけ怖い。
「愛しています」
「私もです」
それでも、この囁きはきっと現実だ。私はそう信じている。
そこで、ふと疑問に思ったことがあったので、小さく口に出してみた。
「……あの、旦那さん。私これから旦那さんのことなんて呼べばいいでしょうか」
「今まで通りでいいんじゃないでしょうか」
旦那さんは、くす、と小さく笑う。抱きしめられていた私は、またそれを見逃した。
今度は、リクエストしてみよう、そう思いながら、目を閉じる。
「どうせ、すぐに本物の夫婦になるんですから」
「それもそうですね」
「おやすみなさい、奥さん」
「おやすみなさい、旦那さん」
・・・おわり
ここまで読んでくださり、誠にありがとうございました。
これがはじめての連載小説でした。
感想もいただいて、うれしい言葉をかけてくださって、本当に幸せです。
これからも精進していきたいと思います。
「奥さんと旦那さん」につきましてはこれで完結となりますが、
番外編や後日談も出来たら書きたいと思いますので、
そのときにはまたお付き合いいただけたら幸いです。
ありがとうございました。
アレナ拝