5話
「ずっと前から、君に避けられているとは思っていたのですが、今朝のが決定打でしたね」
紅茶を私に差し出しながら、旦那さんは苦笑した。とはいっても、あまり表情は変わらない。
「でも君は優しいから、あんなふうに手紙を書けば来てくれると思ったんです。打算的でしょう?幻滅しましたか?」
私はかぶりを振った。
「私の方こそ、あんな態度をとってしまってごめんなさい」
「いえ」
そう言ったきり、私たちの会話は途切れた。私は私でこのあとどうしたらいいのか考えているし、彼もまた思案顔だった。
ふいに、私の脳裏で閃くものがあった。
無理やりにでも彼を忘れられないのは、この思いがまだ心でくすぶっているからじゃないだろうか。はっきりと彼に告げることをしなかった。だからではないだろうか。告白をして振られてしまえば、少し前向きになれるかもしれない。
昔から私は土壇場の行動力には定評があった。そんな勢いだけで、私は旦那さんに声をかけた。
「旦那さん」
「なんでしょう、奥さん」
「私があんな態度をとったのは、傷ついていたからです」
「はあ」
不思議そうな顔で小首を傾げる旦那さん。少し可愛い。反則ではないだろうか。
そうは思ったが、とにかく喋り出してしまった私の口は止まらなかった。脳の中では誰かが何かを一生懸命わあわあ言っていたのだが、私の口はどうやら脳とは別次元の生き物だったらしい。
気づいた時には、言ったあとだった。
「私、旦那さんのことが好きなんです」
目を丸くした旦那さんに構うことなく、私は一方的にまくし立てた。
「いや、気づいたのはこの前の夜だったんですけど、私、どうやらずっと前から旦那さんのことが好きだったみたいなんです。でも、私たち、離婚したでしょう?だから、早く忘れなくちゃ辛いなぁ、と思って、ずっとあなたのことを避けていたんです。そういうわけなんです」
そこまで言ってしまったら、なぜだかとてもすっきりした。ふう、と一息ついて、私は腰かけていたソファから立ち上がる。時刻はもう1時近くだった。両親がさすがに心配しているかもしれない。
「そろそろ帰りますね。遅くにごめんなさい。明日は土曜ですし、ゆっくり休んでくださいね。おやすみなさい」
「いや、あの」
「あ、ごめんなさい。一方的にまくし立てておいて何って感じですよね。今言ったことは忘れていただいて結構ですから。なんか私スッキリしちゃいました。これからは避けなくても良さそうですから、安心してください」
にっこり笑うと、旦那さんはなぜだか憮然としていた。何故だろう。今全てが解決したはずだったのに。
「……奥」
旦那さんがなにやら口を開いた時、私の携帯電話がブルブルと凄まじく振動した。私は結構着信に気づかないことが多い。それゆえのこの振動なのだが、それにまたびっくりさせられてしまうのも事実。今日もまた「ひっ」と短く悲鳴をあげてしまってから、携帯電話を鞄から取り出した。
着信の相手は、お昼に連絡先を交換したあの男性社員だった。夜遅くに何だろう。緊急の用件だろうかと思い、「ごめんなさい」と旦那さんに断る。廊下へ移動しようとしたが、旦那さんが座って、というような素振りをしたので、頭を下げながらソファに再び腰掛け小声で電話に出た。
「もしもし」
『夜中にごめんね。今大丈夫かな』
「少しでしたら。緊急ですか?」
『いや、そういうわけじゃなくて、ほら、食事なんだけど―』
そんなに離れていたわけではない旦那さんには、相手の声が多少なりとも聞こえてしまっているようだった。珍しいことに寄せられた眉間のしわを見て、私はやはり失礼だった、と席を立とうとする。なのに、私の腕はいつのまにか隣に座っていた旦那さんに引っ張られ、私は旦那さんの胸に倒れこむような形になってしまった。思わず悲鳴を上げる。遠くで、彼の声が聞こえた。
「きゃ……!?」
『どうかし』
「悪いですが、今取り込み中なんです。また後日にしていただけますか?」
「な……!」
衝撃に目を白黒させている間に、私が手にしていたはずの携帯電話はいつのまにか旦那さんが持っていて、しかもあろうことか彼に向かって話しかけていた。
「ちょ、ちょっと旦那さん!何してるんですか!」
「まぁ、後日、があればの話ですが」
声を荒げる私を完璧に無視して、旦那さんは淡々とした声で電話口に告げる。
「聞こえたでしょう?彼女は、僕の妻ですから」
私は、その彼のセリフに、一瞬心臓が止まったのだった。
それからものの数秒で通話は終了し、結局私の手元に携帯電話が返ってくることはなかった。今はテーブルの上に鎮座している。とてもじゃないけれどそれに手をのばして、「じゃあ」なんて言える雰囲気ではなかった。
旦那さんが、不機嫌だ。
それの理由が、私にはわからない。確かに旦那さんの存在を無視して電話に出てしまったことはマナー違反だが、ここまでそんなことで怒るほど旦那さんは短気で細かな人ではなかったはずだ。
勇気を振り絞って、私は隣でソファに座る彼に「あのう」と声をかけてみた。
「旦那さん……?」
「なんでしょう」
やっぱり不機嫌だ。ここまで不機嫌だったのはいつ以来だろう。もしかしたら、婚約生活史上初めてかもしれない。いや、今は婚約していないのだけれど。
「なんだか、怒ってます、でしょうか」
「そうですね。多少」
認めた。潔いな、旦那さん。と少し感動する。私はこういうとき「そんなことないよ」と言ってしまうタイプだ。
「……それはなぜなんでしょうか」
「そうですね、細かく言うのなら、さっきの彼に4割、君に1割、自分に5割、というところでしょうか」
「そう、ですか」
相変わらず、自分に厳しい人だな、と思う。何より自分に怒っているだなんて。それと同じくらい男性社員が怒りの割合を占めていることも気になるけれど。彼はそんなに旦那さんを怒らせるようなことをしただろうか?
「釈然としていないようですから、ご説明しましょう」
「ありがとうございます」
なんだか補習授業のようになってきたけれど、この際気にするものか。昔からそんなに要領がよかったわけではない私は、昔から要領も頭もよかった旦那さんに色々と勉強を教わっていた経緯がある。なんだかそんなことを思い出して、懐かしくなった。