4話
それから2週間たった。私は旦那さんと一度も遭遇していない。徒歩34秒なのに、結構すごいことだと思う。前までは、割と帰宅時間や出社時間が重なって、駅まで一緒に行ったりすることも多かったのだが。ちなみに連絡は拒否済み。家にかかってきた電話は、すべて私につなぐ前に切られている。母親には「喧嘩でもしたの?」と聞かれたが、私が何かを言う前に「結婚前の大ゲンカは必要よね」と妙に納得した表情でうなずいていた。父親との青春でも思い出しているのかもしれない。そろそろ真珠婚も迎えるというのに、一体いつまでラブラブでいる気なのだろう、私の両親は。
正直なところ、私は少し両親がうらやましかった。
一体どのくらい天文学的な数字なのだろう。好きな人と結婚できる可能性というのは。好きあっている人と、結婚できるというのは。私は旦那さんのことが好きだ。でも旦那さんはそうじゃない。結婚したって辛いだけなのだ。そもそも、旦那さんの方から「離婚」を切り出されてしまった。
ショウコのウソつき、と思う。
逢わなくたって、連絡もとらなくたって、辛いままじゃないか。だって、無理やりにでも忘れられない。
そうして今日も会社へ行こうと玄関のドアを開けた瞬間、徒歩34秒、走ったら13秒の斜め向かいの家をふと見てしまった。旦那さんのおうちだ。私が生まれたときから旦那さんの一家がそこには住んでいるのだが、10年前から旦那さんだけが住んでいる。貿易関係の仕事をしている旦那さんのご両親が、ふたりで外国に移住しているからだ。1年に数回帰ってくるし、私もそのたびに可愛がられてはいるのだが、普段、旦那さんは一軒家に一人暮らし。
……なんという好物件なのだろう。お買い得だ。私と「離婚」した今、旦那さんは完全なるフリー。きっとモテまくっているのだろうなぁ、と下世話な想像をしては、胸の痛みをこらえていた。
そんなとき、ガチャリと妙に大きな音がした気がした。身をすくませていると、そのドアからなんと旦那さん本人が現れる。少しだけ、目があった気がした。もちろん旦那さんの家なのだから旦那さんが現れるのは当たり前なのだが、妙に気まずくて、私は即座に目をそらすと、そちらとは反対方向に小走りで向かった。
駅が反対方向だということに気づくまで、私はずっと走り続けていた。
「おはよう」
「おはようございます」
「なんか疲れた顔してるね。大丈夫?」
「少し残業が多かったからかも」
少しだけいつもの時間とはずれたものの、遅刻することなく出社できたことにホッとしていると、エレベーターで営業部の彼に出会った。いつもどおりのさわやかさを今は少しだけ、気づかいに変えて私を覗き込んでくる。私にはその顔色の原因がわかってはいたのだけれど、本当の理由は言わなかった。最近は残業続きで参っていたのも、正直なところ、ある。
「あ、そうだ。連絡先、教えてくれない?俺、君のだけ知らなかったんだよ。ほら、今度夕飯誘うって言ってただろ?」
唐突にそう言われ、はい、と答えた。実はそんなことすっかり忘れていたのだけれど。
「じゃあ、後で社内メールにでも」
「あー、じゃなくて、そうだな、じゃあ昼一緒にどこかに食べに行こう。その時教えてよ」
「いいですよ。じゃあまた後で」
エレベーターが私の降りる階を告げていたので、私は男性社員と別れて自分のデスクへ向かった。そういえばこの前の飲み会は、誰がジャンケン大会に勝利したのだろう。その時はあとで聞いてみよう、と思っていたのだが、生憎お昼にそのことをすっかり失念しており、思いだしたのは帰りの電車の中だった。
今日もまた残業を終えて家に帰ってくると、玄関のドアノブに回覧板がかかっていた。時刻は11時過ぎ。父も母も気づかなかったのだろうか。いつもなら誰かが気づいているはずなのに、と何の気なしに回覧板を開くと、一番上に手書きの紙が挟まっていた。その筆跡はひどく見覚えのあるもので、そうでもなかったら私はもしかしたら見逃していたかもしれない。
それは、旦那さんの手書きの手紙だった。
奥さんへ
ごめんなさい。最初から呼び名を間違えてしまいましたが、消すのもどうかと思うのでこのままにしておきます。
この手紙を、君が無事読んでくれていることを祈ります。この手紙を君のご両親だけでなく近所中に読まれでもしたら、僕はこの家を売り払って引っ越さなくてはならないかもしれませんから。
さて、ここからが本題です。
僕は、君と過ごしてきたこの20数年、本当に幸せでした。たくさんの素敵な思い出をもらいました。そのことに、君にありがとうを伝えたかったのです。本来ならきちんと口で、顔を見て伝えるべきなのでしょうが、どうやらそれを君は望んでいないらしいですから、やむなくこういう形をとりました。申しわけありません。
だから奥さん。この手紙を読んでくれていることを祈ります。
たくさんの感謝をこめて。ありがとう。
手紙を読んだ私は、回覧板を抱えたまま、13秒の距離を走った。そして旦那さんの家のチャイムを鳴らす。夜中に迷惑だろうか、と押した後に後悔したのだが、すぐに玄関の電気がついて、旦那さんが現れた。
彼の視線が回覧版に留まり、少しだけ安心したように笑った。
「よかった、引っ越さなくて済みそうです」
「旦那さん、あの、私」
「ここではなんですから、上がってください」
さりげなくエスコートされて、私は夜遅くに、と恐縮しながらも旦那さんの家へと招き入れられたのだった。