2話
「珍しいわね、あなたがギリギリだなんて」
始業時刻5分前。いつも30分前にはいる私にしては確かに珍しいかもしれない。笑う先輩に挨拶をしながら、私はデスクにつく。
「なにかあったの?今朝」
「ええ、少し」
まさか未婚の私が「離婚してきました」なんて言えるはずもなく(あぁ、でも旦那さんなら言いそう)、私は曖昧に笑った。先輩も「大変だったみたいね」と曖昧に笑いながらPCに視線を戻した。
淡々と上司からまわされる仕事をこなし、やっとお昼休みになったころ、私は財布だけを持って同僚たちと社員食堂へ向かった。食堂はいつものように混んでいて、少し今日は遅かったか、と皆で困ったように視線をぐるりと巡らせていると、私たちに向かって手を振っている男性社員たちと目が合った。
「こっちおいでよ。席あるから」
「ありがとう」
口ぐちにお礼を言って、狭いそのスペースに腰かける。彼らは同期の社員で、今は営業部にいるはずだった。営業の人間はとにかく話すのが上手い。口べたな私は聞いてるだけで十分なのだが、そういえば旦那さんも口数は少ないのに、私とは会話は成り立っていたように思う。
「……聞いてた?」
「え、えっ?なに?」
私が思考をめぐらしている間に、話は違う方向へ飛んでいたみたいだった。目の前に座る男性社員が困ったような顔で私の顔を覗き込む。
「大丈夫?具合悪い?」
「ううん、なんでもない」
「……そう?それなら今日の夜の飲み会の話なんだけど」
いつのまにやら私は、出会いを求める餓えた同僚たちに巻き込まれ、営業部との飲み会に参加することになっていた。私は離婚した日にコンパに行くような女なのだ、と思うと少しおかしくなった。
5分前に席に戻り、財布を鞄にしまおうとしたとき、携帯電話が光っているのが見えた。メールあり、の表示だった。
『旦那さん』と携帯電話には書いてある。この表示もそういえば変えなきゃいけない、と思いながら急いでメールを開くと、簡潔な一文があった。
―今晩、食事でもいかがですか。
離婚記念日の食事だろうか。旦那さんは、あんな人なのに実は記念日大好きな人だった。誕生日もクリスマスもバレンタインも、楽しみにしてしまうような人。そこがまた可愛いと思うのだが、私は生憎とあまり記念日に興味がなかった。
なのに指は私の脳の介入を許す間もなく「はい」と返信していた。
すぐに返事が返ってくる。
―それでは、19時に駅で待ち合わせましょう。
楽しみにしています、とある文の横に、私の名前があった。奥さん、ではなかった。
私の名前、覚えてたのか、という奇妙な安堵とともに、寂しさが込み上げてきた。私は、自分のアドレス帳に、彼の名前を登録しなおす。そこで始業時間になった。旦那さんへは、返信できなかった。
私の狭い人脈の中で、飲み会の参加者の代わりを探し出すのは困難かと思われたのだが、そんなことはなかった。むしろ候補はあまりあるほどいて、誘うことができないという事態にまで陥った。結局女子トイレでは壮絶なるジャンケン大会が催されたのだが、途中で私は時間になってしまったので勝者を見届けることはできなかった。
「来ないの?」
会社の玄関で、昼間の男性社員と出会う。また、困ったような顔をしていた。営業の人は、ルックスがいいことで有名だ。困った顔なのにサマになる。
「ごめんなさい。急用で。大丈夫、代わりは探しておいたから」
血を血で洗うようなジャンケン大会のことは伏せて、「安心してね」と微笑む。困った顔は解消されなかった。
「それじゃ意味ないんだけどな」
「え?」
彼のつぶやきは、アフターシックスを迎えた会社員たちのざわめきにかき消された。私はちらりと時計を見て、遅刻寸前であることに気づく。旦那さんは神経質ではないが、ルーズな方でもない。できる限り時間より少し前には着いていたい。
「ごめんなさい、私そろそろ行かないと。お疲れ様です」
「お疲れ様。また今度食事でも行こうよ」
「ええ、ぜひ」
婚約者はいなくなったのだし、食事くらいは許されるだろう。そう思いながらも、無意識に私はずっと旦那さんのことを考えていた。
駅に着くと、スーツ姿の旦那さんが、壁にもたれるようにして待っていた。しまった、と思ったときには旦那さんとばっちり目が合っていて、私は彼に駆け寄った。
「ごめんなさい、遅くなりました」
「いいえ、時間どおりです……来てくれて、よかった」
ひどく安心したように彼が息をつくから、私はなんだかどぎまぎした。はいってメールしたのに、と思うが口には出さない。別にそれで問題はないから構わないのだ。
「それで、どうしますか?よければ私、夕飯作りますけど」
「僕から誘っておいてそれはないと思いませんか」
「そうでしょうか」
「そういうものです」
旦那さんにそんな甲斐性があったとは驚きだ。食べられれば何だっていいと思っているのかと思っていた。旦那さんは時計を確認して、「ちょうどいいですね」とひとりごちた。
「レストランを予約しています。君はイタリアン、好きでしたね?」
「はい」
「ならば行きましょう」
駅から歩いてすぐのその店は決して高級店ではないのだけれど、とても雰囲気のいい、おしゃれなレストランだった。イタリア語でいえばリストランテか。どうでもいいようなことを思いながら、私はウエイターさんと旦那さんの後に続く。
乾杯は、ワインでした。私も旦那さんも、お酒はとても強い方で、旦那さんはよく、酒豪と名高い私の父親を相手に晩酌をしていた。ワインを開けた時も、旦那さんはどこか嬉しそうだった。今日は旦那さんの表情が割とよく変わる。こんなこと、20数年間のうちで何回しかないことだろう。
「乾杯しましょうか」
「はい」
ソムリエさんに注いでもらって、私たちはワイングラスをかかげた。
「離婚記念日に乾杯しましょうか」
案の定、記念日大好き旦那さんはそんなことを言った。私はそれに「はい」とうなずく。「乾杯」のあとに旦那さんが私の名前を呼ぶから、私も旦那さんの名前を呼んだ。キン、とグラスから涼しげな音がした。
アルコールを摂取したのに私の胸はなぜかすっと冷めていき、ワインの味はあまり分からなかった。