1話
「奥さん。唐突ですが、離婚をしましょう」
「まだ結婚もしてないのに、ですか。旦那さん」
私たちが互いを「奥さん」「旦那さん」と呼ぶようになった経緯は、今さら定かではなかった。
私たちは幼いころからずっとお互いを結婚相手だと知っていたし、それを疑問に思ったことは、20数年生きてきた私の人生の中で、ただの一度もなかった。旦那さんにしてもこの間「君との結婚を疑問に思ったことは、僕の30数年の人生の中で、一度もありませんでした」と言っていたから、私はその言を信じることにする。こんなことを言うとまた「あんたたちは似た者同士ね」と母親にあきれ顔でため息をつかれるのだろうが、結婚を決めてきた張本人のセリフではないと思う。
とにかく私たちは多分ずっと前からお互いを「奥さん」「旦那さん」と呼び合っていた。まだ結婚する前だとしても。
さて、そんな私の旦那さん(予定)は、物静かな大人の男で、とても丁寧な物腰の人だ。私が旦那さんに敬語で話すのは彼が年上だからだが、彼のそれは癖である。
ファッションにはこだわりもないかわりにそれなりに見た目を気にするらしく、割と安価ながら質がよくスタイリッシュな服をなんでも着こなす。スタイルと顔がそこそこいいせいもあるのだろうけど、そういえば旦那さんはバレンタインに、義理チョコにまじって本気の本命を2、3個そうとは気付かず(気づいてたのかもしれないけど)もらってくるタイプだった。
かくいう私はバレンタインに誰かにチョコをあげたことなんてない。父親は甘いものが嫌いだったし。旦那さんにあげるなんて考えは、脳裏をよぎっても実行に移されることはなかった。彼は毎年たくさんのカカオにまみれてその日を過ごしている。
それから、旦那さんは優しくて、あまり表情を変えることのない人だ。私が泣こうが喚こうが、そんなに表情を変えることなくずっと隣に座ってハンカチを準備していてくれる。抱きしめたりしないところが旦那さんだ。彼は古風な人だから。そして私が落ち着いたと見るや、ハンカチをそっと手渡してどこかへ去っていく。だから多分、旦那さんは私が今までの人生で経験してきた何十回という青春の涙の理由を、知らない。
たまに見る彼の笑顔はとても可愛いのだけれど、それを旦那さん本人に言ったことはない。言ってみたらどうなるのか、と少し妄想したことはあったけれど、頭の中の彼はいつもの冷静な顔で「ありがとう奥さん」と言っていた。
旦那さんの好きなものは猫とジャズミュージックと、自分の仕事。それから苺ジャムののったヨーグルト。彼の朝ごはんは変わらないのだ。ちなみに私がその朝ごはんを食べているところを目撃したことはない。これは旦那さんのお母様のお話で知ったこと。彼と私が一夜を共にしたことはないのである。
そんな旦那さんがちょっとばかり唐突な発言をするのは、別段不思議な事じゃなかった。割と「ちょっとスイスに行ってきますね」とか宣言してそのまま音信不通になる、だなんてことはある方だし。
だからあの発言に対しても私は、割と冷静に突っ込みを入れてしまったわけなんだけれど。
「そうですね。離婚は成立しませんね。結婚していないんですから」
「まぁこんな呼び方しといてなんですけど、私たちまだ婚約者ですからね」
本当は旦那さん自身からプロポーズされていないから婚約者でもない。いや、告白もされていないから恋人でもない。当然か。私たちは唇を重ねるどころか抱きしめあうこともないんだから。これを恋人などと呼んだら世間の恋人から怒られる。
とまぁ私がその辺をうまく脳内で処理しているすきに、旦那さんは何事かの考えに至ったようだった。
「驚かないんですか、奥さん」
そうか。ここは驚くところか。当然だ。私が20数年間、旦那さんが30数年間疑わなかったと言っていたはずの結婚に、今ようやく疑問が呈されたのだから。私はここで驚くべきなのだ。しかし、なんて?
「どうしたんですか、いきなり?」
とりあえず驚きついでに疑問をぶつけてみた。すると旦那さんは「うーん」と少しだけ眉をしかめる。これは珍しい。旦那さんの思案顔だ。
「僕はね、常々君との関係がこれでいいものかと、思っていたのです」
「はい」
「だってそうでしょう?生まれた時からの許嫁だなんて、そんな時代錯誤なお話。今21世紀ですよ?」
「そうですね。昭和の悲恋みたいですもんね」
「ええ。だからね、考えていたんです。もしかして、君との関係を改めるべきなんじゃないかって」
それは、少しだけ、私にショックを与えた。
そうか、旦那さんそんなこと考えていたのか。私がなんの疑問も持たなかったこの結婚に、旦那さんは疑問を持っていたのだ。嘘まで付いていたのだ。あの真面目な人が。それだけ真剣に考えていたということなのだろう。
私たちの結婚は、親同士の道楽で始まった結婚だ。昭和の悲恋みたいにお互いの家に利益がもたらされたり、損害を与えたりするようなものじゃない。私たちが嫌だといえば、すぐにでもそんなことは関係者の脳裏から消えさることのできるようなものだった。
「だから、離婚ですか?」
「ええ。うまい言い方ができなくてそういう言い方になってしまいましたが、つまりはそういうことです」
なるほど。
つまり旦那さんは、端的に言うと婚約解消を申し入れているわけだ。
そう、か。
それは、もちろん受け入れるべきことだろう。私たちの間に、それを断る理由はない。
なのに。
なんで、少し、おなかの奥の方が、少しだけ、じくじくと痛むのだろう。
「もちろんです、旦那さん」
「そうですか、ありがとう、奥さん」
私が笑顔で了承すると、珍しく旦那さんは微笑んだ。あぁ、やっぱり可愛い。旦那さんの笑顔は、心が和む。だけど、この笑顔を見ることもなくなるのかと思うと少しさみしかった。私の20数年間の一部が、今、どこか遠くへ行ってしまうのか。
「あぁ、朝からすみませんでしたね。それでは、僕は仕事へ行きます。君も早くしないと遅刻しますよ」
そう旦那さんが私に告げて踵を返した時、私は時刻が家を出る時間になっていたことを知った。なんで朝早くから旦那さんは家に来たんだ。恨めしく思いながら、私は準備もそこそこに駅に向かって走り出した。
旦那さんの姿はもうなかった。