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ひまわり

作者: 多々 池流

ひまわり

 

 俺は小学校のとき、それなりにモテた。ジャニーズ系だと、同じクラスの女子に言われるくらい、顔に多少なりとも自身があった。「四年二組のサトル君ってカッコイイよね」と自分の噂を耳にしたこともある。小学時代の俺は、学校の花形役として活躍していた。

しかし、特技はさほどなかった。足が速いわけでもないし、勉強ができたわけでもない、そんな俺ですら、よく告白された。同級生からも後輩からも先輩からもだ。俺は、自分が特別な存在なのだと、このときは確信していた。

 家族も外見は良かった。母親は、元ミスなんとかに選ばれたことがあり、今ではモデルの仕事をしている。歳は、三十五歳と後半だけど、親友が羨ましがるほど綺麗らしいようだ。冗談で「俺、サトルのかーちゃんと付き合ってもいいぜ」という、友達もいるくらいだった。内面を知らないって恐ろしいと思ったけど、俺の父親が内面を知らずに付き合ったとは、思えなかった。つまり、本性を知りつつも、母親と結婚したってことなんだろう。

 そんな親父は、普通のサラリーマンだ。何のとりえもないが、外見は、カッコイイ部類に入るくらいだった。そんな、家族の血を受けづいている俺は、この容姿に誇りを持っていた。苦手な分野ですら覆い隠すほどの容姿が備わっていることで、なんでも許されると思っていた。


 小学六年になると、俺は告白される側から告白する側になろうと思った。六年生にもなると、異性を気にする年頃になるものだし、あの頃は、本気で付き合うとか……ないようにも思えるけども、身近にカップルが誕生していた。そんな時期にモテる俺が、取り残されるのが嫌だった。だからといって適当な彼女を作る気持ちはなかった。俺の彼女は、この学校で一番いい女が成るべきだと思っていた。

勿論、歳が近いと釣り合わないのは自覚をしていた頃だった為、年上に志向が向く。狙う相手は、教員になりたての水島先生だった。

 彼女は、二年生のクラスを受け持っていたのだけど、その先生の可愛らしさや優しさ、少しおっちょこちょいな所を含めて、上級生の俺らにまで伝わっていた。つまり、全校生徒の中の男子の憧れの的になっている水島先生と、全校生徒の中の女子の憧れの的になっている俺のカップル。俺としては、申し分ないほどピッタリだと思っていた。


 俺は、自信満々で彼女を校門で待っていた。俺の友達も世紀の瞬間を目撃しようと集まっていた。この学校が始まって以来、初の美男と美女のカップル、明日には、女子生徒に広まり先生に迷惑が掛かるかもしれない、そのときは、俺が先生を守ろう、ひがむ女子を宥めよう、そんなことを考えて先生が出てくるのを待っていた。

しばらくすると、スケッチブックを抱えたクラブの男子生徒が、先生を囲んで出てきた。見るからに下級生だった。水島先生が顧問している美術部の帰りらしい。俺は、人目を気にせず先生に近づいた。

「水島先生! お話があります」

「あら、六年二組の 君よね」

俺の名前を知っている? そうりゃあ当たり前か、この学校で俺の名前を知らない女子も先生もいないのだ。

「そうです」

「なんの話かは、わからないんだけど、明日じゃ駄目かな?」

「時間は、かかりません」

「内海君、何かしら?」先生は、苗字で呼んできた。

 先生が俺を見つめている。友達も見ている。クラブの生徒も注目していた。

「俺と付き合ってもらえませんか? 因みに俺を呼ぶときは名前でいいですから」

 先生は苦笑いをした。その顔を見て俺は、公衆の面前で伝えたことを後悔した。先生は、年上だけども女性だった。こんなところでの告白は、恥ずかしかったのだろう……時と場所を弁えるべきだと、俺は男として失態をやらかしたことを悔やんだ。

「ひろみ先生。いいですよね?」俺は下の名前で呼び、再度聞いた。

「ちょっと待って……先生をからかって遊ぶのはやめてよね。内海君は、上級生でしょ? そういう遊びは、よくないわよ。しかも、下級生の目の前で……」

 遊び? しかもからかうなんて……

「冗談でこんなこといいませんよ」

「じゃあ、本気で受け取っていいのよね」

「もちろんです」これで、新生カップルの誕生だ。

 俺は先生の言葉を待った。先生は、勿体つけるように時間を置く。そして、終に口が開かれた。

「内海君の気持ちは嬉しいわ。でも……男女の関係は、もっと大人になってからするものよ、誰かを好きになったり、恋したりすることは、素晴らしいことだけど、これから、中学、高校と進むに連れて――」

 水島先生は、女性としてではなく、先生としての意見を色々と述べてきた。俺は言葉を返せず、その話を黙って聞くしかなかった。先生の話は、途中から聞こえなくなっていた。その代り、友達の微かに笑う声が耳にこびりついてきた。俺はフラレタついでに説教を浴びせられている。たちまち体は熱くなり、恥ずかしい思いが胸に沸きだった。友達、後輩の前での失態が、明日には学校中に広まるだろうと思い、悔しさも湧いた。しかし、それだけではなかった。女性にモテていた外見にも自信がなくなり、特別な存在だと思い続けていた感情が、薄らいでいった。


次の日、俺は人の目を気恥ずかしくて見れなくなった。そんな俺をくすくすと笑う声をよく耳にするようになった。昨日の出来事が既に、朝から広まっているらしい……俺は常に俯きながら、人と目を合わせないように心がけた。友達と話すことすら避けるようになった。恥ずかしい――その思いが常に体中を駆け巡っていた。


その日の晩、俺はTVを無我夢中で見続けた。フラレタ時のことを忘れるように、手当たりしだいチャンネル変えて面白い番組や好きな番組見続けた。スポーツとニュースは興味がなかったので見なかったが、流行のドラマやミュージック、お笑いにアニメはぶっ通し見続けた。それは、深夜にも及んだ。

母親は、子育てを放棄しているわけではなかったが、俺のすることには、口を挟まなかった。普通なら、深夜に起きている子供は、寝かしつけるものだと思うが、俺の母親は、俺を置いて、そそくさと布団に潜り込みにいった。


しばらく、この生活は続いた。噂が消えるまで続いた。その性なのか、目が悪くなり眼鏡をかけるようになった。格好を気にすればコンタクトでもいいのだが、フラレタ男が今更、外見を気にしても意味がないように思えた。常に俯きながら歩くメガネ男は、周りとは溶け込まず、暗い印象を与えるようで、友達から遊びに誘われることやクラスの人に声を掛けられることもなくなった。そんな、運動オンチで勉強すらできないガリ勉らしき俺は、孤独になった。



                2



中学に入ったら、新しい環境を築き上げようと思ったが、近所の同級生も、同じ学校だった為、依然として、根暗な勉強ができないガリ勉を、装うことになった。

母親は、そんな昔とは違う容姿に、疑問は抱かず未だに、ご飯と風呂の支度をしてくれて、変わらない接し方を俺にしてくれた。

そんな、変わらない日常だったけど変化が見えた日がきた。ひょんなことから、クラスのある一部のグループから声を掛けられたのだ。話題はTVの話。俺は、この手の話題が得意だった。 

小学校のあの日から、面白いと思う番組は欠かさず見ていたし、流行のドラマやミュージック番組もチェックを怠らなかった。俺は、自信を持って話に乗っかり、話の中心になった。

俺が話しても、冷やかす言葉は返ってこなかった。ここは、小学校じゃない、昔の失態を知っている奴がいたとしても、気にするほどのことではなかったのだ。いつの間にか俺は、そのまま友達グループの輪に入り、授業の合間の休憩時間に話すようになった。

その日から俺は、嬉しさのあまり無我夢中で、その友達と話をした。久々に話す人との会話は、楽しくて、嬉しくて、面白かった。しかし、勉強やスポーツの話になると、俺は当然話には乗れず、話題が止まる。それでも何とか、この楽しい気分を逃さない為にも、知らない話にも相槌を打って、話題を遂れさせることのないようにしていた。

しかし、その方法は長く続かなかった。嘘がばれて、白けさせてしまったのだ。たったそれだけなのに、次の日からその友達は俺と話さなくなった。


俺の席は、校庭を見渡せる窓際だった。中学に入ってこの席に決まったときは、とても嬉しかった。人と目を合わさなくても、空を見ているだけで心が、晴れるような気がしたからだ。人よりも自然の景色は、俺を非難することもなく、常に俺を見つめてくれる。そんな風に思えた。俺は、授業以外、外を眺めることが多くなっていた。空だけではなく、校庭や遠くに見える山、それに木や建物に目をやるのが好きになっていたのだ。元の日常に戻ってしまった俺の生活に、またしても嫌な噂が耳に入ってきた。

授業と授業の合間の休憩時間、クラスが騒がしくなった。

「内海ってオタクぽいよな」

「そうそう。TVネタしかねえし」

「エロゲーとかやってそうだな」

「うわっキモ……」

 彼らは、聞こえてないようにこそこそしゃべっているようだったが、俺にはしっかり聞こえていた。教室がざわめく間の声は、若干普段より声を大きく出していることに気づいていないらしい。俺は、内心イラっとしたが無視することにした。この手のことに、言い争いになると俺が負けることは、目に見えていた。今の俺は、根暗なオタクというレッテルを貼られているから。


 俺が帰りの私宅をしていると、掃除当番の奴がふざけて遊んでいた。女子生徒が、注意するとそいつは、女子をからかう。怒った女子は彼を追い回し始めた。俺は彼が逃げる様子に呆れて、そそくさと教室を出ようとした。そのとき、背中を押されて前につんのめった。俺の横を彼が素通りしていった。追いかけていた彼女は、倒れている俺を飛び越えて全力で走って行った。運良く俺は、踏み潰されることもなく、手のひらに擦り傷ができた程度だったことに安堵して立ち上がる。ふと、周りの目線が気になり始めた。俺は目線を合わせないように俯きながら教室を出る。後ろから、くすくすと笑う声が聞こえた。

 俺が倒れたのがそんなに面白かったのか? 俺は、ため息こぼして平然と歩いて学校を出た。

歩く途中、ジュースの缶を見つけた。俺は、学校で晴らせなかった怒りを込めて缶を、思いっきり蹴飛ばした。缶は店のシャッターにぶつかり大きな音が響いた。それに、気づいた歩行者が俺をみる。目を細めて苦笑いをしていた。しかし、よく見ると彼らは、俺の背中に注目しているようだった。俺は、ガラス張りの店を見つけて、背中をガラス越しにみようとした。横をガラスに映した瞬間、背中に紙がついていた。俺は手を背中に伸ばして紙をはずす。

『恋愛シュミレーションにはまっています。』

俺は、そこに書かれた文字を見て、怒りよりも脱力感に駆られた。根暗でオタク、苛めの対象だと、はっきり決められたようなものを感じて、人と関わることを捨てようと思った。人と二度と顔を向き合わせないように、俺に近寄らなくなるようにしようと思った。

その夜、深夜番組を見ながらこれからのことを考えていた。明日から俺は、愛想笑いや、人との接触避けるようにしようと思った。向こうから、俺を背けるように顔を見合わせないようにすることを決め、人間関係を断ち切ることを決意した。


次の日、教室に入った俺は、突き飛ばした奴の顔面をいきなり殴ってやった。奴は、驚いてうろたえていた。彼の鼻からは、大量の血が流れていた。俺は再度、顔面に殴りかかる。元々気が強い方だったから、躊躇いはなかった。彼は、鼻を押さえて教室内を逃げ惑った。女子が悲鳴を上げて騒ぐ、男子は、煽ってくる奴、呆然と眺めている奴などいた。机が倒れて椅子を蹴り飛ばす、ある意味爽快だった。明日から、心を閉ざそうとしているのだから、今日ぐらいは暴れよう……俺は、水を得た魚のように教室内を飛び回った。


その後、俺は先生に取り押さえられて職員室に引っ張られることとなった。職員室に入ると、体育教師は、自分の机にどかっと座る。そして、ことの成り行きを俺に聞いてきた。 

俺は、無視した。しばらく、沈黙を置いて体育教師がペンで机をカツカツと叩いた。そして俺に、大人ならではの鋭い視線を向けてきた。俺は、口を接着剤で閉じたように、一切言葉を発しなかった。他の先生方が、俺を珍物を見るようにちらちらと目線を送っていた。また、嫌な視線を感じる。

「何をみているんですか?」冷めた口調で地面に向かって声を張り上げた。

感じていた視線が消えたような気がした。このあと、俺は先生の長い説教を聞く羽目になり、逃げ出そうとしたが、肩を捕まえられて「人の話を聞くときは、顔を上げなさい!」と怒られた。顔は見せない。会話をしない。人に関与しない。俺はこのことを心に刻んでこの日を終えた。


次の日、教室の扉の前でざわついていた室内の声を聞いた。俺は、顔を伏せて思いっきりドアを開けてやった。その音にびっくりしたクラスメイトは、一瞬、固まったようだ。 

ざわついていた声が聞こえない。静かな教室を歩き、自分の席に向かった。視線を強く感じた。しかし、俺に、近づこうとする奴はいなかった。話しかける奴もいなかった。もしかしたら「キレると危ない奴」や「無視のイジメ」の対象になったのかもしれない。

どうでもいい……また、静かに教室がざわつき始めた。俺は、周りのことを無視して窓を眺めた。青空と太陽の光が、まぶしくて目を背けたくなったが、その景色を目に焼き付けてやった。新しい俺の誕生の日だった。


それから二年間、俺は一切人との交流をせずに三年生になった。本当は、怖い先輩が関わってくるのではないかと心配していたが、そんなことは一切なかった。部活も勉強も得に興味を示さなかった俺は、教室の窓から風景を楽しむ学園生活を送っていた。平和な毎日だった。孤独を十分に満喫できた。顔を下げて歩く癖が出来上がっていた。一日一日が、風のように大した思い出も残さないまま流れていた。


三年生にもなれば、高校受験が待っていた。俺は勿論、勉強には興味なく受験を望むことはしなかった。高校には行かず、ニート生活を満喫する気でいた。しかし、教師にそんなことを言えば、面倒なことに成りかねることは、十分に承知していた。

三年の後半で三者面談があった。うちの親は俺に興味のない母親だった。担任の教師は、俺らに案内して席についた。一例をして席に座る。担任は黒いファイルを捲り、俺に視線を向けていたが、俺は目線を合わせずに俯いていた。

「内海サトル君は、このあと、どうするつもり?」

 その質問に答える言葉は、用意していた。

「高校には行かず、フリーターになろうと思っています。父親は単身赴任で、家計は全て、母親が稼いでいます。僕は、その母親を助けたいから働こうと思っています。家庭の事情に、口を挟まないでほしいことを願います。母親には、聞かないで下さい、悲しくなりますから……」俺は、この言葉以外は、一切しゃべらないつもりだ。

 担任は、唖然としているようだ。担任の口からは、言葉は出ないようだった。母親は今どんな顔をしているのだろう、俺は、立ち上がり頭を下げて教室から出た。母親は、俺の後を続くかのように後ろを歩いていた。

「今晩のおかずは秋刀魚だからね」母親の声が後ろから聞こえた。



             3



それから、中学を無事に卒業をして、ニートの生活が始まった。そんな時でも母親は、相変わらずだった。やっぱり、俺のことには、興味がないらしく、母親の仕事と割り切って、規則正しく同じ時間に、食事と風呂の支度をしてくれていた。

俺の生活は、部屋にこもってTVを見るのが日課になっていた。始めの内は母親としていた食事だったが、会話の内容は減ってしまい、一切口をきかなくなった。それからはというもの、一人で食事をするようになった。

母親が寝静まった後に、一階に下りて自分でご飯をよそう、冷蔵庫から適当におかずを取り出して、部屋に運ぶ毎日が続いた。

ある日、いつも通り、深夜に一階に下りて、夜食の支度をしようとしていたとき、冷蔵庫の扉にマグネットで張り紙がしてあることに気づいた。

『深夜は太るから、今日までにしときなさい。

あと、鍋に味噌汁が入ってあるから暖めて食べなさい。

母より』

 俺は、冷蔵庫の扉を開けておかずを取り出した。そして、コンロに火をつけて味噌汁が入っている鍋に火にかけた。温まるまで少し時間が掛かると思い。ご飯とおかずを持って部屋に上がった。もう一度、一階に下りるときに机からペンを持って下りた。冷蔵庫に貼り付けている紙を裏返して書き込む。  

『サンキューわかった。

サトルより』

 俺は暖めた味噌汁を持って部屋に向かった。その夜の食事は、いつもよりも暖かいような気がした。


 それから数日が経って、早く寝るようになった。そのおかげなのか、起きる時間が老人くらい早起きをするようになり、散歩をするようになった。

 朝の散歩は、人通りが少なく気分が良かった。見たくない人間の顔は少なく、顔を少しだけ上げることもできた。朝の空気は、澄んでいるような感じがした。そんなことを思っていると、自然と近くの大きい公園に足が運んだ。

 ここの公園は緑が多く噴水がある他に、銀色の時計が置いてあった。ジャージを着てジョギングをしている人。プードルを二匹、散歩をしているおばさん。パシャパシャと写真を取っている男の人。絵を書いている白髪のおじいさんなど、自分自身に没頭している人が多かった。誰も俺のことを気にしている人はいなかった。俺は、檻の中から解放されたような感覚を感じた。

散歩を終えて、帰ろうと思ったとき、TVのことが気になった。今は、午前中で帰っても面白い番組がやっていない。公園の時計に目をやった。まもなく、七時をまわるところだった。昼のお茶の間番組まで、五時間もある。その時間を持て余すのは、もったいないと思い、俺はこのまま帰るべきなのか、もう少し散歩を楽しむべきかを考えた。そこで、公園で趣味を満喫していた人たちを思い出す。

長々と走ったり、歩いたりする運動は、疲れるから嫌だし、カメラを買うお金もないので写真も却下、動物は飼っていいないし、となれば絵画どうだろう……小学校の頃に買った絵の具が、押入れの中に眠っているかもしれない、画用紙やその他はなんとか買えるような気がした。俺は、一度帰宅してそれらの絵画グッツを集めることにした。


家に帰ったあと、俺は母親が仕事に出かけていることを知って、一階の押入れを漁った。すると、懐かしい絵の具と筆が見つかった。その横のダンボールには、俺が小学生時代のときに書いた絵が入っていた。

「懐かしいな~」

 なんともヘタクソな絵だった。何の絵が描いてあるのかわからないものまであった。俺は、時間を忘れて、それを一枚づつ眺めた。

 気づいたときには八時を過ぎていた。俺は、その他の必要なものを買い揃える為に、文房具屋に行くことにして、引き出してしまった押入れの荷物を片付けた。文房具屋は、九時に開店するので今から行けばちょうどいい時間だ。

 俺は自分の部屋に上がり、最近使用することもなかった財布を後ろポケットに突っ込んで家を出た。近所の文房具屋は、歩いて十五分のところにあるが、品揃えが悪く、知り合いに合う可能性もあるため、電車を使って大型の書店に行くことにした。駅に着くと電車は、まだ着ていなく椅子に腰掛けて電車を待つことにした。どんどん人が、ホームに集まってきた。その光景に気づいて、この時間は会社員や学生が多くなる時間帯だということを知った。俺は、咄嗟に顔を深く下げた。知り合いにでもあったら、声を掛けられるかもしれないという恐怖が体を蝕み始めた。胃の中が圧迫されたような感覚を感じて、吐き気を催す。ふと、視線が俺に集まる感じがした。

俺は、椅子から立って駅のトイレに向かった。駅のトイレに入ると、ハンカチで手を拭っている年配の人とすれ違った。小を行うところには、サラリーマン風のオッサンが二人いた。俺は、さっと個室にこもり鍵を閉めた。顔を上げると古びた換気扇が鈍い音を鳴らしていた。しばらく、汚い壁にもたれ掛かっていると気分が少しだけ和らいだ気がした。水道の水が流れる音を聞いて、サラリーマンが出たことを確認すると、俺もトイレから出た。人込みは避けないといけないことを知り、駅から出て帰宅することにした。

常に俯きながら人の足や地面を眺めて歩いていた。時折、白のはしごのような絵を視界に入れて、横断歩道を知り、顔を上げて信号を見た。たまに、隣の人が立ち止まっていることに気づいて、顔を上げなくても済むこともあった。

家に着くと部屋にこもりTVをつける。未だにニュースしかやっておらず、TVを消した。時計を見ると九時を回っていた。

「はぁ~まだ、時間が余っている……どうしよう」

 俺は、仕方がなく近所の文房具屋に足を運ぶことにした。つば付キャップをかぶり、外に出る。俯きながら歩いていると、視界が狭まっていることに慣れず、時折、前から来る歩行者とぶつかりそうになった。そうして、近所の文房具屋についた。俺は、即座に画用紙とその他を買うと、足早に帰宅した。

 家に辿り着いたときには、九時半を過ぎていた。急がねばと思い、鞄にそれぞれを詰め込んで、公園に向かった。


 俺はベンチに腰掛けて、鞄から鉛筆と画用紙を取り出した。そして、不慣れな手つきで映写をしていく。勿論、旨く書けるわけでもなく、どのように書くかもわからないので、下手な絵が出来上がった。

「そりゃそうか……絵を描くための知識がないもんな~」

 俺はベンチにもたれかかり、顔を上げた。青々とした空に雲が浮かんでいた。小学校のときに告白した、絵画クラブの水島先生を思い出した。あの頃は、異性の注目の的だった俺は、TV以外に興味はなく、何の知識も得ないままこの歳まで成長してきた。しかし、今更悔やんでも仕方がない、折角、買ってきた道具を放置するのも気が引ける。

 俺は、道具を鞄に詰め込んで、絵画を書いていた白髪のおじさんを探しに、来たときの場所に戻ることにした。

 白髪のおじいさんは、未だにその場所から離れずに筆を滑らしていた。俺は、おじさんに恐る恐る近づき声をかける。おじさんは、こちらを振り向いたので咄嗟に顔を下げた。

「なにかね?」

「絵を描くためにはどうしたらいいのか教えてほしいのです」

「は? 君はどこに向かってしゃべっているのかね?」

 俺は、地面を向いている。そのことに対して言っているのだ。だけども、顔を上げることはできなかった。もう何年も前から見についたこの癖は、直すことができなかった。俺は、申し訳がないと思いながらも、顔を下げて頼み続ける。

「すいません。俺は、人の顔が見れない病なのです。昔からシャイで、人の顔をみると、血が頭に昇り、鼻血を出してしまうのです」

 俺は平然と嘘をつき、再度頼み込んだ。おじさんの顔は、さぞ、いぶかしげな顔をしているに違いないと思った。

「まあ~それならいいが、具体的にどんなことを聞きたいのかね?」

「……なんていえばいいのかわからないんですけど、絵を描いたことがないので」

「全くの素人だということじゃな?」

「そうです。なにとぞ、教えてください師匠」

「かっかっか……面白い男じゃの~師匠ときたか、変な青年と出会ったものじゃ」

 それから、俺はそのおじいさんに教えてもらいながら、絵を書き進めた。昼の十二時をまわった頃、俺は、師匠に明日のこと尋ねることにした。

「俺は、そろそろ帰るのですが、明日もこの場所に来るんですか?」目を合さずに聞く。

「んにゃ、この風景を描くのは今日までじゃ」

「じゃあ、明日はどこに?」

「明日からは、家族に連れられて病院じゃよ」

 俺は驚いた。聞いちゃいけないことだったのかもしれない、俺は瞬時に謝った。

「すいません。そんなことも知らずに聞いて」

「いいのじゃよ。最初で最後の弟子じゃし」

 俺は噴出して笑った。師匠の笑い声も聞こえた。十二時から始まる番組のことは、忘れることにした。今日は、特別な日だと思うことにして夕方まで師匠と絵を描いた。


 

             4



絵を描き始めてから二年が経った。今では基礎知識が身につき、ある程度の道具も買い揃えていた。今日も公園に来て、風景画を書き進めている。風景は、季節によって色々な色で着飾っていた。

春頃は、淡い色が多く柔らかいイメージだった。そして、夏になると色が濃くなり、暑い夏に対抗すような力強い雰囲気があった。秋は、よく言われるように紅葉の季節であり、多彩な色が織り成して、綺麗な絵が描けた。冬は、寒いので始めの頃は描かなかったが、木の寂しげな雰囲気と雪の白を乗せた枝に、可憐な思いを感じてなんとなく描いてみたくなり、結局、一年中、絵画に没頭していたのだ。

今では俺の部屋は、俺が書いた風景画で敷き詰めあっていた。勿論、プロには劣るが、自分では良く描けていると思う。始めの頃に描いていた風景画と見比べると一目瞭然で、自分の成長が窺えた。

そんな成長を遂げている俺だけど、未だに、人と顔を見合わせることが苦痛に感じている。それと引き換えに風景は、常に目線を向き合わせても、俺を不愉快にさせることはなく、逆に安心感を与えてくれていた。多分、そんな景色だからこそ、しっかりと見ることができるのであろう。

昼をまわって、俺は食事がてら休憩することにした。途中まで描いた噴水の絵と、イーゼルを残して、その噴水のふちに鞄を持って移動する。

来るときに、自分でにぎったおにぎりを、鞄をから取り出して食べ始めた。中心の梅干し辺りまで食べていると、俺の絵を眺める女性が現れた。その女性は、白いワンピースに、可愛らしさを持っていた。どこかで見たことがあるような……

そして、辺りをキョロキョロと見渡し、不審な動きをしている。別に盗まれて困るものでもなかったので、無視しておにぎりを食べた。そして、遂にキョロキョロとしていた彼女の意識が、こちらに向いたようだ。俺は咄嗟に顔を下げて顔を会わせないようにした。 

足音で、徐々に近づいて来るのが分かる。彼女の視線が、強く感じ始めた。彼女が止まった。頭を下げているので、視界に彼女の足元が見える。白いワンピースにサンダルが見えた。その足は、蹴ったら折れるのではないか思うほど細かった。

「あの絵、貴方が描いたの?」

どうやら、俺に聞いているようだ。

「そうですけど」

「いい絵ね」

「ありがとうございます」

「貴方がおじいちゃんの弟子ね」

「弟子?」

「おじいちゃんも2年前、この公園で、良く絵を描いていたの」

あぁそういうことか………彼女は、俺が2年前に絵を教えてくれた白髪のおじいさんの孫だということか。だから、あのおじいちゃんの面影を感じて、みたことがあると思ったのだろう。俺の心に、懐かしさが湧いた。

「師匠は、元気にしてますか?」

彼女の返事が返って来なかった。そして、しばらく時間を置いて、足元から、俺に背を

向けたことを、知って少しだけ顔を上げた。首元まで見ると、やっぱり華奢な体をしていた。白い肌に、白いワンピースという姿に、なんともいえない哀愁を感じ、今の季節は春だというのに、冬のイメージが重なった。

 彼女は、後ろに手を組んで三歩ほどゆっくり歩いた。

「おじいちゃんは、この公園で、最後の絵を描いていたときに、変な青年と出会ったことを、話してくれたの。その青年は、人の顔がみれない病だとおじいちゃんに説明したみたい、変な病気よね?」

「その話の青年は、俺のことだよ」彼女は頷いた。

「おじいちゃんは、その青年と目を合わせることはなかったけど、絵を教えてほしいと頼まれたときは、真剣なまなざしを感じたんだって。しかもいきなり、弟子でもないのに師匠と呼ばれたらしいの」

俺は、あのとき咄嗟に出た言葉に気恥ずかしさを感じた。

「おじいちゃんは、楽しそうにこの話を話していたわ。今も病院のベッドの上でその話を、するの。私が、その青年と会ってみたいと言ったら、今でもこの公園で描いているだろうといっていたのよ」

「それで、会いに来てくれたんだね。その青年の第一印象は?」

「若いと思った」

「若い? そんなことないよないと思うよ、俺は、十七歳だし君とあまり変わらないと思うけど……」

「そんなことないわよ。十以上離れているから」

俺は驚いた。彼女を見たとき、二十代前半だと思っていたから……

「そんなことより、第一印象はそれだけ?」

「それだけよ。カッコイイとか可愛いとか、無垢な少年とか言ってほしいの?」

 彼女は、微笑みながらからかっているようだ。

「別にそんなこと……」俺は、少しムッとした。

「そんなことより、病気の話はほんと?」

 嘘といえば嘘だが、人の顔がみれないことは本当のことだ。中学を卒業してから、しばらく外に出歩いていなかったが、人の集まる場所に出向いたときに、その兆候が現れた。視線を感じると心臓が圧迫されるような感覚が襲い、人と顔を見合わせることを体が拒否反応を示す。それから、この公園で絵を描いているときは、常に景色へ目をやり。外を歩くときは、常に俯いて歩くように心がけている。全くもってややこしい話だ。

「本当だよ。人の顔をみちゃいけない病だよ」

「その病気って治るの?」彼女は、興味ありげに聞いているようだ。

「わからない」

 彼女は、少しだけ時間を空けて「そう」と一言だけ呟いた。そして「明日もいる?」と聞いてきたので「毎日いるよ」と答えた。

「じゃあ、私帰るね。お話が出来て楽しかったわ」

 俺は、顔を合わせず「俺も話せて楽しかった。またね」と言った。

「なんか、顔を見ずに別れるって寂しいね……」そう言った彼女は、「なみかわ」という名前を残して去っていく。そんな彼女の後ろ姿を見送り「そのうち、馴れるよ」と呟いた。


 



              5



週に二、三回、彼女は、この公園に来ていた。そして、俺の病気を考慮して、必ず後ろから声を掛けてくる。彼女なりの優しさのようだ。

しかし、俺からすれば、不意をついて呼ばれる為に心臓に悪い。でも、彼女はそんな俺を良く見て笑う。人をからかう子供染みた行動と、微かに記憶している彼女の可愛らしい顔が、なんとなく自然と好きになっていた。

彼女はたまに、景色に馴染むときがある。公園の噴水を眺める姿とか、公園で遊ぶ子供と戯れるときなど、うまく説明できないけど、絵になる存在だった。そんな、彼女を含めて風景を描いたこともある。でも彼女は、どれが自分なのかわからなく、いつも、後ろから聞いてきた。俺は、風景画の右端を指差して「これ」と説明する。すると彼女は、「もう、これじゃあ、私だってわからないじゃない」と言って頬を膨らませている……勿論、顔を見ていないから俺の妄想だが、当たっているような気がした。


木が夏の緑から、色鮮やかに紅葉を色成す秋頃、俺は、いつものように公園にイーゼルを立てて風景を描いていた。すると、決まったような時間に、後ろから声がかかる。彼女だ。俺が、その返事を無視すると「そういった態度を見せるなら……いきなり、前に現れてやるわよ」と鋭い言葉を述べてきた。勿論、冗談なやり取りだが、彼女ならやりかねないと思い、素直に「可愛い並河さん、すいません」と謝った。すると彼女は「テヘッ」と声を発し、俺は苦笑いを浮かべた。


ある日、そんな暇人のような彼女の生活が気になり、聞くことにした。

「こうやって、たまに会いに来てくれるのは嬉しいけど、結婚とか仕事とかしてないの?」

「いきなり大胆な質問をしてくれるね~ちみは」

 大胆なのかはよくわからないけど、いきなりは当たっている。でも……ちみという言葉を使う二十代後半の女性を想像した。ある意味、萌え語なのかもしれないと、俺は、自問自答した。

 彼女は、後ろでガサゴソと音をたて始めた。一体何をやっているのだろうと思っていると、後ろから俺の顔の前に、小さな紙を差し出してきた。

「フリーライター。なみかわ こうみ?」どうやら、名刺らしい。

「え? ……まあいいわ。ちなみに既婚者なのかは、若い男の想像に任せます」

 そう言って彼女は、俺の後ろでくすくす笑っていた。若い男をたぶらかすなって……と思い、なんとなくフリーを意識してしまった自分に、顔が火照る。それから、彼女は答えを出さないまま俺が描いていた、もみじの木まで走っていった。彼女は、自分より遥かに高い木を眺めて立ち止まっている。「私を描け」ってことなんだろうか?

 不意に、微かに冷たい風が流れた。帽子を被ってないので前髪が、目にかかる。前髪を掻き揚げると、俺が描いていたもみじの木が、彼女に色鮮やかなもみじの葉を降り注いでいた。彼女は、それを受け流すように浴びている。

 彼女は、やっぱり絵になる女性だ。俺の筆が進んだ。


彼女の誕生日は、十一月十一日だった。これは、俺が聞いたわけでもなく、彼女が十月ぐらいに自分から名乗った。そして、今日この日は、十一月十一日で、俺は、いつもの絵画グッツとプレゼントを抱えて、公園に向かった。さすがに寒いこともあって、上下のスエットにウインドブレーカーを重ね着して、更にダウンも上から羽織った。

 こんな、寒い季節でも彼女は、決まった日にちょくちょく会いに着てくれていた。そして、今日も会いに来るだろうと予測した。なんせ、自分から誕生日を告げてきたくらいだ。

 悔しい話だが、俺は、彼女と会うのが楽しみになっていた。否定したいことだけど、十以上離れた彼女を好きになったのかもしれない、そんなことを思っていると、小学校時代を思い出した。トラウマとなった出来事。告白をして失態になってしまった事件。勿論、水島先生のことは恨んじゃいない、水島先生は、先生なりの言葉で断っただけだ。

やっぱり、彼女に惚れてはいけないと自分の気持ちを改めて、プレゼントをかかえ直した。このプレゼントは、たまたま上手く描けたから渡すのだ。他のプレゼントを用意するほど、気前がいいわけじゃなく、手元にあったたまたまのいい作品を、あげるだけだ。

 俺は、いつものようにイーゼルを設置して、道具を取り出す。まだ、雪が降り注いでないので、プレゼントはイーゼルに立て掛けて置いた。さっそく、筆を滑らせる。

冬の絵は、寒さで手が悴むため進みが悪いが、描き上げた時の達成感は、他の作品よりも自己満足する作品が出来上がる。その快感を味わいたくて俺は、春夏秋冬絵画に没頭している。

葉が枯れて木の枝がむき出しになっていた。そのおかげで、疎らな枝の形がはっきりと見える。太陽に向かってまっすぐ伸びている枝や、他の枝に接触しないように細々と伸びている枝。隣の枝と握手を交わそうとする枝。他の枝に邪魔されて、伸びる方向を間違えた枝。綺麗な曲線を描く枝もあった。

そうやって、木の端々まで注意深く見て、画用紙に映写する。茶色の絵の具は、こういうことも考えて予備を備えているから、ふんだんに使ってやった。そうやって、集中して筆を滑らしていると、木の葉を踏まえて近づいてくる人物が後ろから聞き取れた。

「私のプレゼント、用意してくれたかしら?」

「いきなり、その台詞はないんじゃないの?」筆を滑らしながら言った。

「遠まわしな言い方が好きじゃないのよ」俺は、好きという単語にドキッとした。彼女は、平然としているに違いない。俺も平然を装った。

「勿論、あるよ」俺は、ため息をついて俺は筆を止めた。

イーゼルに立て掛けてあった。プレゼントに手を伸ばし、後ろ背に差し出す。手からプレゼントが離れた。彼女が受け取ったらしい。「彼女が見ていい?」と聞いてきたので「いいよ」と言った。パラっと聞こえた。そして、少し沈黙が続く。

「ありがとう」彼女の声は、なぜか涙ぐんでいた。 

 俺が渡した絵は、秋頃にもみじの葉を浴びた彼女の絵だった。あのときの風景は、一瞬だったけど、脳裏に焼きついていたため、帰ってからスケッチブックに書き込んだのだ。

「私の姿が、多少大きくなっている……嬉しい」

 この絵の主体は彼女だった。勿論、彼女が言ったように大きいわけじゃないけど、今までの絵に比べれば、多少大きいかもしれない。しかし、泣くほどのことじゃないと、俺は思う。

「喜んでくれてよかったよ。因みにパステルで即効仕上げた絵だから、擦らないでね。定着液使ってないし」俺はそう言って筆を進めた。

「うん。がくに入れて大事にする。部屋に飾るね」

そう言って彼女は、鼻を啜った。寒さの為ではないようだ。俺は、そんな彼女が可愛らしいと思った。今年で三十路を迎えた彼女を……



                 6



 クリスマスを迎えて久しぶりに母親と静かなパーティーが行われた。相変わらずやる気がなさそうな雰囲気を前面に出しているが、豪華な夕食を振舞ってくれた。骨付きチキンや、普段は出てこないようなサラダなど、俺が知る限りでは、今までで一番頑張った料理だと思う。公園ニートの俺に、ここまで気を使わなくてもいいと思うが、母親の意識は、別にあった。

「あんた最近、明るくなったね。私とも話してるし」母親はそう言って、お茶を啜った。

 母親は、俺が唯一顔を見合わせれる人間になっていた。俺に興味がない素振りが、俺の病気に関与してないからかもしれないと俺は思う。

「そうか? 自分では変化しているとは、思えないけど」チキンの肉が歯に挟まった。

「まあいいわ。冷蔵庫にワンホールのケーキが入っているから、何日かに分けて食べなさい。私は、明日早いから風呂に入って寝るから」そう言って席を立つ。

「食べないの?」歯に挟まった肉が取れた。

「この体系を、崩したくないのよ」

 母親は、バスタオルを持って脱衣所に言ってしまった。俺は、なくならない料理を眺めながら、ちびちびと箸をつけた。

 半分以上残した料理に手を合わせて席を立ちあがる。俺は、ケーキを食べるべく冷蔵庫を開けた。中段にケーキの箱が置いてあった。取り出すと思った以上にでかい。俺はケーキをキッチンに運び六等分にした。そのうちの一つを皿に乗せると、それでも少しはみ出ていた。

「……でかい」

 俺はケーキとフォークを持って二階の自分の部屋に上がった。TVをつけると、月九のドラマがやっていた。この季節のドラマなので、必ずといっていいほど、クリスマスの男女を主体としたドラマだった。並河さんは、このドラマを楽しみにしていた。イケメン俳優と話題の女優が夢の競演するドラマ。視聴率を掻っ攫うような内容である。

しかも『イブの二人』という陳腐なタイトルでもある。


ドラマとは違い現実の今日は、雪が吹雪いており、外でのデートは過酷な物語になりえる季節だった。実際、公園に少しだけ足を運んだが、人が全くって言っていいほどいなかった。

彼女は今日、家族とクリスマスイブを過ごすと言っていた。多分、今は炬燵で横になりながら、みかんを剥いているか、ケーキを口に運んで、このドラマに密着しているに違いない。女性が好きそうなことだろう。

一方、俺という人間は、クリスマスイブの男女の物語をうらやましく思うときもあるが、そこまで執着したことがないのが本音だ。小学校を卒業後、友達や彼女といった人たちがいなかったために、クリスマスを特別な日とは思えなかったのが原因だろう。

人は「それって寂しいよ……」というかもしれないが、俺にとってそこまで考えたことが無いと言えた。


十二月二十五日の朝、俺はいつもの通り道具を抱えて公園に向かった。勿論、プレゼントはなく、目的はあくまでも雪に埋もれている風景を描くことだった。いつものように、準備をしていると、いつもより早い時間帯に、彼女が声をかけてきた。

「おはよ~今日は一段と冷えたね」

「そうだね。昨日は、吹雪いていたから気温がぐっと下がったみたいだよ」

「でも、空気が澄んでいるようで気分がいいわ」深呼吸しているようだ。

 今日は、一段と晴れていた。降り積もった雪の地面は、太陽に反射して眩しいほどだった。もし、虫眼鏡があったら紙を燃やせるかもしれないと思うほどに、太陽が朝っぱらから、ギラギラしている。そんな眩む目の前に、A3サイズの茶封筒を差し出された。

「なにこれ?」

「今日は何の日?」

「……クリスマス」

「でしょ」

「クリスマスプレゼント?」

「そうよ」

「でも、お返しがない」

「誕生日にもらった」

「なるほど」

「頑張ったんだから」

「……? 開けていい?」

「駄目って言ったら?」

「うっとうしい」

「じゃあ開けて」

 俺は封筒を開けた。そして、紙を取り出す。紙には、雪の積もった公園の風景が描かれていた。しかも、その風景を描いている後ろ姿の男と、その横に立っている女性が顔を見合わせている油絵だった。

「これって……俺と君?」

「もちろんよ」

「どうやって?」

「想像よ」自慢げな声だった。

「……すごい」呟いた。

「だから言ったでしょ。頑張ったんだから」

「本当にすごいよ」本音だ。

「泣きたくなった?」

「泣きはしない」嘘だ。

「感動はした?」

「感動はした」本音だ。

「改めて私に言う台詞は?」

「ありがとう。嬉しいよ」心から出た。

「どういたしまして」やさしい言葉だった。


 それから、俺と彼女は、昨日のドラマの話題で盛り上がった。勿論、絵を描く手は休めてないけど、いつもと違った感情で絵を描いた。そのせいなのか、冬にしては明るい色合いを使っていた。見たそのままを描くわけではなく、イメージで描くことを学んだのかもしれない。この日に描いた絵は、春色が強かった。

 俺の気持ちは、そんな感じに変わったような気がしたが、彼女の絵のようには行かず、未だに、彼女の顔を見ることは出来なかった。しかし、体質は変わってないが、心は向き合えているような感じがするクリスマスの日だった。




               7



大晦日のカウントダウンTVを見て、新年が明けた。公園で彼女に「新年明けましておめでとう」と挨拶すると、彼女も「新年明けましておめでとう! 今年もよろしくね」と返事を返してくれた。季節は冬から春に変わり、それとは別に、俺達の関係は未だに変わらずにいた。週に二、三回、早朝の公園で出会い、くだらない話をして別れる。そんな、日々が続いていた。俺の病気も継続中だった。

春になると夏はすぐに訪れるという例えは嘘ではなく、すぐに気温が上がった。彼女と出会ってもうすぐ一年になる。

俺は、いつものように公園に足を運んだ。この季節といえば桜だが、この公園には桜がなかった。俺から言わせれば、その方がラッキーだった。花見の酔っ払いたちで賑わうようなところで、絵を描くのは多分無理だろうから。だからこそ、三年も飽きることなく、この公園に通い詰めたようなものだ。俺は、久しぶりに噴水を描こうと思い、準備を始めた。

 意識してなかったといえば嘘になる。彼女がいつ現れてくれるのか、期待感が毎日のように押し寄せていた。勿論、来ないときの方が多いのだけど、意識せずにはいられなかった。昼が過ぎ、食事をする。しかし、彼女は現れなかった。

「今日はもう、来ないな」俺は、粗方描いた絵をしまうと、帰宅の準備を始めた。

 彼女はそれから、二週間現れなかった。寂しい思いがあったけど、彼女の気持ちが向かないことに関して、何も言うことができない。自分の元から去った彼女を、追いかけていったところで、どうにもならないことは知っていた。

 

 それから三日が過ぎた。いつものように絵を描いていると、後ろから懐かしい声で呼ばれた。俺の気持ちは、嬉しさを沸き立たせて叫びたくなるような思いが噴出しそうになった。しかし、その彼女の声には元気がなかった。

「何かあった?」

 彼女は黙っていた。俺は、後ろを確認したいばかりに俯きながら振り返った。彼女の足元が見えた。その足からして間違えなく彼女だった。彼女は今、どんな顔をしているのか気になる。しかし、体は常に拒否を続けていた。もう一度、声をかけた。彼女は、小さく呟いた。聞き取れなかったので、もう一度声をかけた。

「おじいちゃんが……」

 彼女は最後の語尾を濁し、俺の頭を掴むと胸に抱き寄せた。俺は彼女の胸の谷間に顔を埋めた喜びよりも、彼女の寂しい気持ちに比例した。


 どれくらい抱きしめられていたのだろうか、俺は何もできずに身を任せることしかできなかった。師匠はこの世を去った。それを知った孫は、どうすることもできずに見守るしかなかった。今の俺と同じ状況だ。気持ちが重なり合い、人との繋がりが一層深くなる。

 表面では、語ることのできない関係、それは、時として辛いときにしか交わらないのだ。


「ありがとう、少しだけ気分が紛れたわ」彼女はいつもの強気な口調に戻っていた。

「もごもご……」俺は、未だに顔を塞がれている。「離してほしいんだけど」と言いたい。

「あっ御免。でも、多少なりともある胸にハマッたんだから、いいわよね」

 良いわけがない、窒息死してしまう。俺は、胸元から脱出した。空気が肺に吸い込まれ、大きく空気を吐き出した。すると、地面を眺めて俯いている俺の頭に、何かが乗った。いや、彼女によって乗せられた。俺は彼女に背を向けながら乗せられたものを手に取る。

 頭に乗せられたものは、雑誌だった。よく見ると紙の端が折られているところがある。

「気が向いたら応募してみない?」

 俺は何のことかわからず、そのページを開いてみる。

「ひまわりをテーマにした作品コンクール?」

「そう。私が手を貸しているイベントよ」

「それに俺が出品ってこと?」

「前から思っていたけど、サトルは才能あると思うの。仕事もしないで絵を描くぐらいなら、いっそうのこと、絵を描くだけの人生を歩んでみたら? 人と関わることは、私を通せば済むことだし、暇つぶしだと思って」彼女の声は明るかった。

「暇つぶしがてらなら、別にいいけど……この辺にひまわりなんて咲いている所なんてある? ちなみに、人がいるところは無理だよ。電車も無理だし」

 彼女は沈黙していた。どうやら考えているらしい。

「それなら私に任してよ」

 

その日の夜、俺は部屋にこもってTVをつけずに、再度雑誌を捲った。その雑誌は、美術館を特集している雑誌だった。最初のページからくまなく読んで行く。日本の美術館などの特集から、絵についてなど書かれていた。そして、呼んでいくとイベントなどの日程が、書かれている。俺が投稿するイベントは、夏に向けてのイベントらしく、ひまわりをテーマにした作品を求めているようだ。しかし、彼女にも言ったがこの近辺で、ひまわりが咲いているところは、学校ぐらいなもので、俺は足を運びたくないのだ。

彼女はどうする気なのだろう。「任せて」といって帰っていった彼女に、何らかの策があるのだろう、俺はそんなことを思いつつページを捲った。

「ん? ……え? ――なっ! うそおおお!」

 俺は、そのページよって頭が破裂するんじゃないかと思うほど混乱した。



                 8



次の日、俺は眠れず脳が麻痺した状態で、公園に来ていた。ふわふわとした頭の中は、昨日の衝撃的な事実の影響を受けて、何も考えられなくなっていた。そして、ぼーと地面を見つめていると、ふいに、目隠しされた。俺は、得に抵抗するわけでもなく、黙っていた。すると彼女は「面白くないわね」と呟き「行くわよ」と言った。

 俺はこの方法を取ったとしても電車には乗れないのだ。多くの人の視線を感じると、吐き気をもよおすことは、昔に経験積みだった。しかし、どうやらそうじゃないようだ。車のスライドドアが開く音が聞こえた。多分ワゴンだろう、彼女の手に引っ張られながら席に着く、そして、閉める音が聞こえた。

 今度は、右斜めから、カチャという音が聞こえた。風が車内に入り込む。そしてまた、ドアがバタンと閉まった。エンジン音が聞こえ、車内が揺れ始めた。


ドライブ中、彼女は俺に色々話しかけているようだったが、返答が曖昧にしかできなかった。彼女はいつもの調子で、平然と話し続けている。ある意味、わざとらしさを感じた。

しばらくすると、車がゆっくりと走り始めたようだ。車体が走り出したときよりも数倍揺れている。そして、止まった。右斜め前のドアが開閉して、スライドドアが開けられる。土の匂いが嗅覚を刺激した。俺は、ゆっくりと車から降りて、この風景を想像した。

「目隠しとっていいわよ」後ろから彼女の声が聞こえた。

 俺は目隠しをはずした。

「改めて、こんにちは」彼女が俺の前に立っていた。

 俺は固まった。目の前に立っている彼女から目線がはずせなかった。体が上手く反応してくれない。俺は、どうしていいのか判らず口つぐんだ。そんな俺に彼女は微笑んだ。

彼女のその顔は、思っていた以上に可愛らしかった。俺が見てきた風景よりも断然、綺麗な景色と言えた。そして、この日までに出来上がった関係なのだろうか、決して、俺を批判しない瞳が目の前にあった。俺は、ある意味新しい病気が掛かったような気がした。――彼女から目が離せないからだ。

「そんなに見つめないでよ。照れるじゃない」

 そんな無頓着な彼女の台詞に、俺は我に帰った。


 それから、俺は今までの病気を吹き飛ばすように彼女に向かって捲くし立てた。勿論、嫌って怒って憤怒しているわけじゃない。ただ、今の気持ちを全て吐き出したかったのだ。

「まあまあ落ち着いて。さっそくひまわりの絵を描きましょ」

 そう言った彼女に頭がうな垂れた。

「描くのはいいけど、条件がある」

「条件?」彼女は首を傾げた。……むかつくが絵になる。



数日が過ぎ、彼女が俺の部屋に遊びに来た。母親は初めて声を上げて驚いてくれた。俺は、母親が心臓を停止させるのではないかと心配したが、そんなことはなかった。彼女は、母親に一例して家に上がった。二階の俺の部屋に上がる途中、母親の視線が背中に突き刺さった。

俺が彼女を部屋に招きいれると彼女は、壁紙を見渡していた。俺は、彼女の後ろを指して教えてあげた。彼女は、扉に張ってある自分が描いた絵を、自慢げに語り始めた。俺は、話が長くなると思い、ため息混じりに、彼女の脇に抱えた袋を取り上げる。すると彼女は、子供のように騒いだ。

俺はうな垂れながら彼女を宥める。彼女は子猫のようにおとなしく床に座り、三十路なのにも関わらず可愛らしさをみせてくれた。

彼女が持ってきたものは、新刊の美術館雑誌だった。今日は、出品した作品が雑誌に公開される日なわけで、二人で見るために彼女が買ってきた。

俺の作品は、事前に特別賞を取ったことを知らされていた。つまり、ついに俺の作品がこの雑誌に載っているのである。緊張した手つきで、一枚一枚丁寧ゆっくりとページを捲る。そしてついに、ひまわりのタイトルを見つけた。

俺は、おもいきってページを捲った。

「おお! 俺の作品だ」

「私がレンタカーを借りてきて正解だったでしょ」

「なんの話だ?」

「ひまわり畑のこと」

彼女は、まだ俺の作品を見ていなかった。担当者が見ていないということは、どういうことなんだろうと疑問に思うが、俺と一緒に見たいという、彼女の意思らしい。

因みにこの絵は、イメージを描いたのではなく、正真正銘、見たままの描いた作品で、ひまわりを主体とした作品だった。そして、彼女にお披露目した。

俺の渾身を込めた作品は、ひまわりのような笑みを見せる宏美先生の人物画だった。

 彼女が俺に抱きつく、俺は笑って、なすがままに身を委ねた。



                10



改めて話を戻すと、並河宏美は、旧姓水島宏美だった。彼女は、美術大学の頃に付き合っていた彼氏と俺が中学に通い始めた頃に結婚したらしい。つまり、俺が告白したときは、既に彼氏がいたということだった。

それから、宏美のおじいさん(俺の師匠)の体調不良から、家庭のいざこざがあったらしい。おじいちゃん子だった宏美は、おじいさんのお見舞いに週に二、三通っていた。因みに、彼女の家から病院までの通り道に、俺が通っていた公園がある。

つまり、始めはお見舞いついでに、俺と会っていたってことのようだ。そんなことも知らずに俺は期待感を抱いて「もしかして……」と思っていた自分が恥ずかしく、今は思う。

――勿論、俺の推測なのだが、多分正解。

「やっぱり告白しなくて良かった」俺は彼女を見つめた。

 すると彼女は、俺を見てキョトンとしていた。そして、微笑みながら俺を見つめる。

「そんなことないわよ」

 秋が、間近だっていうのに夏のように暑かった。

そして、前回の雑誌に書かれていた思い出の一ページには……

『ひまわりコーナー

製作者・水島 宏美』

 彼女は、おじいちゃんが死んだ後に離婚したのだった。

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