平行世界(パラレルワールド)で、もう一人の自分として人生をやり直そうと決めたのに
皆さんは、平行世界という言葉を聞いたことがあるでしょうか。平行世界とは、今私たちが居るこの世界と平行して存在する別世界のことです。
それぞれの世界は、別々に存在し、互いに干渉することはありません。ですから、私たちは、普段別世界の存在には、全く気付かずに過ごしているのです。
しかし、何かのきっかけで二つの世界が、たとえ一瞬でも交差してしまったら・・・。
会社を出た頃から降り始めた雨は、電車を降りたときには、本降りになっていた。朝の予報では、今日の天気は晴れ後曇り。午後の降水確率は10パーセントだった。
「こんなに降るなんて言ってなかったぞ」
テレビの天気予報を信じて、傘を持たずに家を出た照平は、駅舎から通りを眺め、恨めしそうに独りごちた。
しばらく、降りしきる雨を見つめて、どうしたものかと思案していた照平だったが、意を決して鞄を頭上にかざし、通りへ駆けだした。そして、そのまま駅前のなじみの居酒屋に駆け込んだ。
今帰ったらずぶぬれになってしまう。ここでしばらく雨宿りすれば、そのうち雨はやむか、小降りくらいにはなるだろう。そんな都合のいい理由を勝手につけて、妻への言い訳にしようと考えていた。
しかし、本当のところ理由など、どうでもよかった。会社の帰りにここで一杯ひっかけて帰るのが、照平のひそかな楽しみとなっていたのだ。
ここで一人、ゆったりと過ごすことが、彼のストレス解消にもなっていた。
照平は、店の一番奥のテーブル、いつもの場所に腰を落ち着けると、生ビールとつまみを注文した。
注文の品は、すぐに運ばれてきた。照平は、ジョッキを傾け、勢いよく喉にビールを流し込んだ。冷えたビールが喉を潤す感覚が、最高に心地よかった。
照平は、こうして日頃の憂さを忘れ、ゆったりとくつろいだ時を過ごしていると、自分は、とても恵まれた生活をしているような錯覚を起こすのだった。
しかし、現実は違っていた。会社や家庭は、彼にとって苦痛でしかなかった。彼が働いている森松建設は、業界では中堅の建設会社で、大手の建設会社から下請けの仕事を回してもらい、何とか経営が成り立っていた。
早瀬照平は、そこで営業の仕事をしていた。45歳を過ぎても平の営業マンで、同期に入社した仲間たちは皆、長という肩書きのつく立場に出世していた。営業部でも、同期の片山圭吾が部長で、後輩の岡田雅弘が課長となり、照平は彼らの下で働いていた。
もともと口べたで人付き合いが苦手な照平は、営業成績がいつも低迷していた。そのことで、岡田からたびたび小言を食らっていた。 そんな照平に、若手社員は、表向きは同情を装っていたが、陰では嘲笑していた。女性社員にいたっては、あからさまに疎ましげな態度を見せる者もあった。
今日も取引先の杉原ホームとの契約のことで、片山に厳しく叱責されたのだ。
午後、片山が血相を変えてオフィスに入ってきた。
「杉原が、市立図書館の工事を山中建設に発注するらしい」
「本当ですか!」
岡田が、大げさな声をあげた。
「杉原と自社とは、先代からの古いつきあいでしょう」
「私も、そう思って安心していた」
「まさか、山中なんかに横取りされるなんて」
「杉原の担当は誰だったかな?」
片山が、オフィスを見回した。
「私ですが・・・」
照平が、決まり悪そうに首をすくめ、わずかに右手を挙げた。皆の視線が、照平に集まった。
「お前か、早瀬!一体何をしてたんだ!」
片山の怒鳴り声が部屋中に響いた。
「杉原とは良好な関係を築いていたはずだ。それなのに、おめおめと山中に横取りされるなんて!」
岡田が、追い打ちをかけた。すべての責任は照平一人にあるというような言い方だった。
「いえ。私といたしましても、精一杯やれるだけのことは、やったつもりですが・・・」
「一生懸命やればいいってもんじゃあないんだよ。結果がでなくちゃ何にもならないんだ。どうしてこんな事態になったのか、はっきり説明しろ!」
照平の煮え切らない言い方が、片山の怒りに拍車をかけた。
「今年から山中の担当者が変わりまして・・・」
「それと、今回の件と、どんな関係があるんだ」
「山中の営業が若い女性になりまして。私もその営業と何度か顔を合わせたことがあるんですが、これが、なかなかの美人でして。杉原の河上営業部長と個人的に親しげに話しているのを見かけたこともありました」
「なるほど、河上部長が女にだらしないっていう噂は聞いていたが、色仕掛けにまんまとしてやられたわけだな。それでお前は、何の対策も講じることなく、手をこまねいているだけだったのか」
「そういうわけでは・・・」
「言い訳はもういい!まったくお前っていうやつは、使い物にならんな。杉原との関係が切れたら、我が社にとってどれだけの損失か分かっているのか」
片山は、半ばあきれたように言った。
「岡田君、すぐミーティングルームに来てくれ。早急にこの件について、我が社としての対策を検討しないと。ああ、それから杉原の新しい担当者も決めなくちゃいかんな。今後のこともあるから、人選は慎重にしないと・・・」
そう言うと片山は、さっさとオフィスから出ていった。岡田もあわてて後を追った。
手を止めて聞き耳を立てていた同僚たちは、何事もなかったかのように、自分の仕事を再開した。オフィスの中にいつもの穏やかな日常が戻ったようだった。
しかし、同僚たちの前で、上司からこれほどまでに叱責された照平の心中は穏やかでなかった。
家庭も照平の心が安らぐ場所ではなかった。
妻の恭子は、かつて照平と同じ森松建設の営業部で働いていた。当時の恭子は、営業部だけでなく、社内の全男子社員のあこがれの的だった。性格が明るくて、美人でスタイルが良くて、その上、仕事もてきぱきとこなす恭子は、まさに非の打ち所がない女性だった。
照平も内心では、恭子と付き合えたらどんなに幸せだろうと考えていた男の一人だった。しかし、自分には所詮高嶺の花とあきらめていた。
そんな照平に、恭子と接近するチャンスが訪れた。杉原ホームの担当を恭子と二人で任されたのだ。この時も、市の文化センター建設をめぐって、山中建設からの横やりが入っていたが、恭子のおかげで何とか契約を取り付けることができたのだった。
契約が取れた夜、お祝いをしようと、照平は初めて恭子を食事に誘った。その時二人でどんな話をしたか、照平は何一つ覚えていない。あこがれの恭子と二人きりで食事ができる喜びと緊張とで舞い上がっていたのだろう。ただ、ワインを飲んで赤く頬を染めた恭子の顔が、なんとも艶めかしかったことは、今でもはっきりと覚えている。
それから時々、二人は仕事の帰りに食事をするようになった。恭子の個人的な悩み事の相談にのることもあった。そんな交際を続けるうちに、二人の関係は次第に深まっていった。
そして、二人は結婚した。恭子の予想外の選択に、他の女性社員は驚き、あこがれの女性を射止めた照平に、多くの男性社員が嫉妬したのは言うまでもない。
幸せな結婚生活が、ずっと続くはずだった。
結婚と同時に恭子は会社を辞め、家庭に入った。家に帰ると、優しく、美しい妻が迎えてくれる。恭子の笑顔と「おかえりなさい」の一言で、一日の疲れもいっぺんに吹き飛んでしまう、はずだった。
しかし、現実はそんなに甘くはなかった。照平が理想とした結婚生活は、ほんの一ヶ月たらずで終わりを告げた。
一日中、家で過ごすことになった恭子は、暇をもてあまし、自堕落な生活を送った。もともと家事が苦手な恭子は、掃除をしなくなり、家中ごみが散乱するようになった。
朝は、照平や子供たちが出かけた後から起きてきて、午前中はごろごろテレビのワイドショーを見て過ごしていた。
午後からは、気が向けば買い物に出かけることもあった。そんな時はたいてい、買い物袋を手に下げたまま、近所の奥様連中と長い間立ち話をしていた。そんな気ままな生活を何年か続けるうちに、恭子の体重はどんどん増えていった。それに比例するかのように、ふてぶてしさも増してきた。
今では、結婚前の面影はすっかり消えて、別人のようになっていた。最近では、残業して夜遅く家に帰って来ても、食事の用意さえしなくなった。
子どもは二人。高校二年生の娘奈美と、中学三年生の息子哲也がいた。
奈美は、髪の毛を茶色に染めて、高校へも行ったり、行かなかったり。学校帰りに悪い仲間と繁華街をうろつき、夜遅くまで遊び歩いていた。家に帰って来ないこともたびたびあった。そのことで、照平は恭子と言い争うこともあった。
「奈美は、こんな時間までどこに行ってるんだ」
「今日は友達の家に泊まるって言ってたわ」
「友達ってだれだ」
「さあ」
「聞いてないのか」
「聞いたって、あの子、言わないんですもの。あなただって分かってるでしょ」
「お前の育て方が間違っていたんだろう」と言おうとしたが、その言葉をぐっと飲み込んで、恭子に背を向けてすごすごと引き下がった。
弟の哲也は、高校受験をひかえているにもかかわらず、勉強はそっちのけで、毎晩バンドの仲間とギターの練習に明け暮れていた。
そんな日頃の憂さを一杯のビールで洗い流し、いつものように照平は居酒屋を後にした。 いつのまにか雨はやんでいた。ほろ酔い気分で、よたよたと夜風に吹かれながら家路に就いた。そのうち、辺りに霧がたちこめてきた。
「おや、今日はやけに霧が濃いな。この辺でこんなに霧がでることなんてないのに」と、考えながら歩くうちに、霧はさらに濃くなってきた。
前方の霧の中に自動車のヘッドライトのような光が浮かび上がった。光は、照平に向かってどんどん迫ってくる。
「うわあーーー」
衝突を意識して身を屈めた瞬間、まぶしい光が照平を飲み込んだ。周りの景色が歪んで、照平を中心に世界がぐるぐる回り始めた。照平は、気分が悪くなり気を失って倒れてしまった。
どれくらいの時間が経過したのだろうか。時計を見ると、居酒屋を出てから、あまり時間は経っていないようだ。体に痛みは感じない。幸いどこも怪我をしていなかった。立ち込めていた霧は、うそのように晴れていた。 さっきの出来事がなんだったのか、気になりながらも照平は家へと歩き出した。
玄関の前に立ったとき、
「うん?」
照平は、家の雰囲気がいつもと違っているような違和感を覚えて首を捻った。ズボンのポケットから取り出した鍵は、鍵穴にぴったりと収まった。そのまま回すと、カチッと音がして鍵が開いた。ドアを開けて「ただいま」と、ぼそっとつぶやいた。
いつもは何の反応もないのだが、今日に限って奥からパタパタとスリッパの音が近付いてきた。現れたのは、独身の頃のようにスリムな体型の恭子だった。
「お帰りなさい。遅くまでお仕事お疲れさま」
新婚当時にも聞くことのなかった、やさしい言葉に、照平は唖然として恭子を見つめた。
「ただいま」
ちょうどそのとき、哲也が帰ってきた。哲也は照平に「お帰り」と、言った。哲也が小学校低学年だったとき以来、久しぶりに聞く言葉だった。
「こんな遅くまで、どこへ行ってたんだ。また、バンドか」
恭子に問いかけた。
「何言ってるのあなた。塾じゃないの」
「えっ。塾・・・」
「哲也は、受験生なのよ」
勉強嫌いの息子が塾に行くなんて。照平は、ただ驚くばかりだった。
さらに、奈美はといえば、毎日、きちんと学校に通い、日暮れまでには家に帰ってくるという、当たり前といえば当たり前の高校生活を送っていた。まさに照平が、夢見た理想の家族の姿だった。
「一体全体、どういうことだ。恭子も奈美も哲也もみんなで、俺をかつごうとしているんだろうか」
自分の置かれた状況が理解できないまま、この夜、照平は悶々として眠れぬ一夜を過ごした。
変わったのは、家族だけではなかった。
「おはようございます」
照平は、いつものように、おざなりな挨拶をして、オフィスに入った。
机の上に鞄を置いたとき、
「部長、そこは、私のデスクです」と、誰かの声が聞こえた。
椅子を引いて座ろうとした照平の背中に向かって再び声が掛けられた。
「部長、早瀬部長」
呼ばれているのは、自分だと気が付いて振り返った。
「部長、そこは私の席ですよ」
後輩の田中が、決まり悪そうに作り笑いを浮かべていた。
「えっ」
「部長の席は、あちらですよ」
田中が手で示す方を見ると、「部長 早瀬」というネームプレートの文字が、目に飛び込んできた。
照平は訳が分からないまま、とにかく自分用であろう椅子に腰をおろした。
その日は、机の上に山のように積まれていた書類の束に一応目を通して、判を押すだけで終業時間になった。日中は仕事に追われて、この不可思議な出来事について考える暇がなかった。
仕事が終わり、照平はいつものように、駅前の居酒屋に立ち寄った。ビールを飲みながら、昨夜から自分に起こった奇妙な出来事について思いを巡らした。
家族にしても会社にしても、周りの環境全てが、照平の記憶とはすっかり変わっていた。平社員であった照平が部長に、部長だった片山は課長に、課長だった岡田は係長になり、二人とも照平の部下として働いていた。
とにかく、なぜだか理由は分からないが、照平は、それまでいた世界とは、別の世界に迷い込んだのではないか。そして、この世界にも早瀬照平がいた。それだけではない。家族や職場の同僚など照平の周りの人間すべてがいた。だが、姿形は同じでも立場や性格は異なっている。
ドラマに例えるなら役者も配役も同じなのに、まったく違うストーリーが展開されているようなものだ。しかも照平自身もこのドラマの出演者の一人なのだ。
あまりに突拍子もなく、普通なら信じられないことだが、それ以外に自分が体験したこの現実に対する納得のいく説明が思い浮かばなかった。こう考えると昨夜からの出来事の辻褄が合うように思えた。
それなら、もともとこの世界にいた照平は、どこに行ったのだろうか。突然現れて、鉢合わせしたらどうしよう。自分が偽者だと分かったら大騒ぎになるだろう。という心配もあった。幸いこの心配は、杞憂に終わった。
照平は、昼休みに社員食堂で昼食をとることが多くなった。以前は、外回りの仕事が多く社員食堂を利用したことはあまりなかった。いつも公園などでパンとパックのコーヒーか牛乳ですませていた。
照平がランチを食べていると、隣のテーブルの女子社員達の会話が聞こえてきた。同じ営業部の坂本香織と内村涼子だった。
「最近、早瀬部長、当たりがマイルドになったと思わない」
「そうそう、前は、いっつも苦虫をかみつぶしたような顔をして、どこか冷たい感じがして、近寄り難かったわね」
「まあ、そこが渋いって他の部の女性社員の中には、ひそかなファンもいたみたいだけど。今の部長、なんだか別人みたいよね」
「丸くなったっていうのかなあ」
「そういえばさあ、よく課長をどなってたわね」
「課長の話なんか聞く耳もたないって感じで、ストレス発散みたいだったわね」
「部長と課長は、同期でライバルだったんでしょ」
「らしいわよ。若い頃は、敵対心むき出しで、二人ともよくやりあってたそうよ」
「最近部長が、課長や係長の意見を聞いてるところをよく見かけるわね」
「どうしちゃったんだろう」
「何か、弱みを握られたりして・・・」
「弱みって?」
「不倫とかさあ」
「うちの社員と?」
「まっさかあ」
「はははははっ」
自分の事が、女子トークのネタにされ、あげくの果てに笑われたので、あまりいい気がしない照平だった。こんな場所で周りに聞かれなるのもお構いなしに、大声で他人のプライベートな情報を話のネタにする女子社員の感覚が理解できなかった。
食事のとき他人の噂を話のネタにする社員(特に女子社員)は多かった。これは照平にとって都合がよかった。照平は、この世界の照平や片山、岡田など自分と関わりのある人間が、どんな人柄なのか知りたくて、社員食堂で噂話に耳を傾けた。
照平が集めた情報によると、この世界の照平は部下には威張り散らし、上司には媚びへつらう、いわゆる理想の上司とは正反対の部下から嫌われる上司だったようだ。
それから数ヶ月、照平の新しい世界での日常が、何事もなく過ぎていった。初めのうちは、あまりにも変わりすぎた周りの状況や自分の立場に、ただただうろたえるばかりの照平だった。仕事に関しては、片山や岡田など部下の助言を頼りに慎重に職務をこなしていた。
近頃では、この世界の暮らしにも馴染んできた。万年平社員だった照平でも、部長の職務をそつなく遂行することができるようになった。能力のある人間が、それにふさわしい地位に就くのではなく、その地位に就くことで、自然とそれなりの能力は備わってくるものだ。
また、地位と名誉をつかんだ人間は、往々にしてうぬぼれが強くなり、支配欲が出てくるものだ。照平も御多分に漏れず、次第に自分の権力を振りかざして、部下達に不遜な態度をとるようになっていった。
この世界の住み心地に満足していた照平は、いつまでもここで暮らしていきたいと思うようになった。
机の上の書類に目を通すのが、照平の午前の日課となった。椅子に座り、書類に手を伸ばしかけたとき、片山が声を掛けてきた。
「おはようございます、部長。今日の会議の資料に目を通していただけましたか」
「会議?」
そういえば、毎月、幹部会議なんてものがあったなと思い出した。
「今日の会議で、市立図書館工事受注プロジェクトについて、進捗状況を説明することになっています。このプロジェクトは、我が社の社運を賭した大事業ですから、重役の方々の注目度も大きいので慎重にお願いします」
「分かった」
少し考えてから、照平が言った。
「説明は君からお願いするよ」
「えっ。この件につきましては、今まで部長ご自身が説明されていましたが・・・」
「うっ、うん。そうだったね」
前の世界で、照平は取引先から仕事を回してもらうように交渉する、いわば御用聞きの役回りだった。だから、この世界の照平が、このプロジェクトについてどう関わって、どんなことをしていたか、全く分からなかった。ここでは部長の座に納まってはいるが、もともと要領が悪く、人前で発言することの苦手な照平には、荷が重すぎる。照平は、なんとかごまかそうと思った。
「いや、私もそうしたいんだが最近忙しくて、疲れがたまってるんだろうか、体調がすぐれなくてね。実のところ資料に目を通す暇もなかったんだ。このプロジェクトにいろいろ尽力してくれている君から話してもらう方が、重役の方々にも分かりやすいんじゃないかな」
「はい、私でよければ。そうさせていただきますが」
「じゃあ、よろしく頼んだよ」
幹部会議は退屈だった。幹部への叱咤激励から始まった社長の話が長々と続いた。やっと終わったと思ったら、各部署からの月並みな月例報告があり、片山のプレゼンの番になった。
「今回の市立図書館建設には、我が社が独自に入札に参加し、受注獲得を目指しています」
「大丈夫かね。杉原の後ろ盾なしに、我が社だけでやれるのか」
専務の井口が発言した。
「心配は、ごもっともですが、我が社はこれまでに、この規模の工事を何度も手がけ、実績を重ねてきました。今回の工事でしたら我が社だけで十分行うことが可能であると判断しました。この機会に我が社の技術力の高さを世に知らしめ、大いに躍進するチャンスであると考えます。必ず成功させる所存です」
この後も、設計や工法、予算など細かい説明が続いたが、照平にはちんぷんかんぷんだった。
会議の後、照平と片山がエレベーターを待っていると、常務の宮内がやってきた。ちょうど到着したエレベーターに三人で乗りこんむと、宮内が話しかけてきた。
「早瀬君、今回のプロジェクト、順調に進んでいるようだね」
「はい、おかげをもちまして」
「例の件も、うまく進んでいるんだろうね」
「例の件?と言われますと」
「早瀬君も、人が悪いな。そこまで、警戒するとは、見上げたものだ。だが、ここには我々以外他に誰もいないんだから、安心していいぞ」
「???」
腑に落ちないという表情の照平に気付いたのか、自分の手柄を自慢したかったのか、片山が口をはさんだ。
「その件なら、わたくしが。万事つつがなく進行中ですので、ご安心ください」
「おお、そうか。君たちに任せておけば、間違いはないだろう。頑張ってくれたまえ」
宮内は照平の肩を、ぽんぽんとたたいた。
宮内と片山が何のことを言っているのか、全く理解できなかったが、照平は分かったようなふりをしてその場を取り繕った。
ちょうどエレベーターのドアが開いた。エレベーターを降りかけた宮内が振り返って言った。
「早瀬君、奥さんとは、うまくいってるかね」
「ええ、まあ」
「結構、結構。夫婦円満は、なによりだ。男が仕事を頑張れるのも、奥さんの支えがあってこそ。せいぜい大事にすることだ」
大仰にそう言うと、宮内はエレベーターから出ていった。
どうして急に自分たち夫婦のことを話題にしたのか、照平は宮内の意図をはかりかねた。
それから、数日が経った。
照平が、トイレに入ると、すぐ後から女が入ってきた。確かに男性用トイレに入ったはずだ。と、照平は慌ててトイレの中を見回した。間違いなく男性用だ。
女は佐藤美咲だった。ここは、男性用だと言いかけた照平に、ぴったりと体を寄せてきた美咲が、耳元でささやいた。
「最近、ご無沙汰ね。メールしても返事くれないし。どうしたの?」
突然のことで、美咲が言っていることの意味がよく分からなかった。
「メール?」
最近、知らないアドレスからメールが送られてくるので、迷惑メールだと思って開かずに削除していた。それが、美咲からのメールだったのだろう。
「ああ、メールね。携帯の調子がおかしくって、うまく受信できないんだ」
「うそっ。奥さんのことが怖いんでしょ。私たちのこと気付かれたらって」
「そんなことないよ」
「まあいいわ。今日、来てくれるでしょ。待ってるわ」
それだけ言うと、戸惑っている照平を残して、美咲はさっさとトイレから出て行ってしまった。
照平は、オフィスで美咲の視線を感じていた。目が合うことも何度かあった。そのときの彼女の眼差しが妙になまめかしかったことも思い出した。
オフィスに戻ると、美咲は何事もなかったようにパソコンに向かい、データの入力作業をしていた。照平は机上のノートパソコンを立ち上げ、社内ランで佐藤美咲の住所を調べた。アパートで一人暮らしをしている。美咲とこの世界の照平は特別な関係にあるらしい。照平は、美咲の住所をメモした。
終業時間になり、ほとんどの社員が帰り支度を始めた。美咲も机の資料を片付け、バッグを持って席を立った。
「お先に失礼します」
照平に向けた言葉の後で、美咲の唇が動いた。
「あ・と・で」
美咲は口の動きで照平にサインを送ると、軽くウインクしてオフィスを退出した。先に帰って照平を迎える準備をするつもりだろうか。
頃合いを見計らって、照平も会社を出た。向かった先は、もちろん美咲のアパートである。照平にとって、妻とは別の、しかも若い女性との密会など初めての経験だ。期待と不安、それにわずかな罪悪感とで、若い頃に戻ったように胸が高鳴るのを感じた。
美咲のアパートのドアの前に立った照平は、チャイムを押そうかどうか逡巡した。自分が美咲にどう接したらよいか。彼女と関係があったこの世界の照平とは別人であることが、ばれないように用心しなければならない。
意を決してチャイムを押すと、すぐにドアが開いた。同時に、いきなり美咲が抱きついてきて、玄関の中に引き込まれた。照平は、よろけながらも何とか体勢を立て直して、美咲を抱きとめた。
「ちょっ、ちょっと。危ないよ」
「遅かったじゃない。夕食の準備して待ってたのよ」
アパートの場所を探すのに手間取ったとは言えない照平は、
「今日中に片付けないといけない仕事が残っていたから、すこし遅くなったんだ」と、言い訳をした。
キッチンのテーブルには食器が並べられ、食事の用意がととのっていた。照平の到着にタイミングを合わせたかのように、ガスコンロにかけられた土鍋が、ぐつぐつと煮え立っていた。
「今日、泊まっていけるんでしょ」
「いやっ。今日は帰らないと」
「あなた、いつもそうね。やっぱり奥さんのこと、怖いのね」
「そんなことは、ないさ」
「どうだか?強がり言って。奥さんのおかげで出世できたんですものね。奥さんに頭が上がらないのも当然よね」
「奥さんのおかげで出世?どういうことだ」
「今更、とぼけなくてもいいわよ。いつか酔ったとき、あなたそう言ってこぼしてたじゃない。それに、社内でもみんな噂してるわよ。早瀬部長は、常務のおさがりをあずかって出世したんだって」
「常務のおさがり?」
「まあいいわ、おなかすいちゃった。鍋が焦げ付かないうちに食べましょ」
美咲は鍋をつつきながら、いろいろ照平に話しかけたが、会話は全くはずまなかった。
美咲にとっては、二人に共通の話題でも、照平の記憶にはないので、適当に相槌を打っていた。照平からは、めったなことも言えないので、自然と口数も減って、気まずい雰囲気になった。
「近頃、あなた変わったわね」
「どこが?」
「どこって、はっきり言えないけど、どこか違うのよね」
「そんなことないよ。ぼくが違う人間にでもなったって言いたいのかい」
「そうじゃないけど・・・。会社でも、わたしのこと、全く眼中にないっていう感じだったし。他に女ができたんじゃないの。経理の恵理香なんかあやしいわね」
「そんなわけないよ。ただ最近、図書館のプロジェクトで忙しすぎて、君のことを考えてる暇がなかったんだ。なにしろ我が社の社運が掛かっているからね」
「まあ!暇なときしか、わたしのこと考えてくれないの」
美咲が少しむくれて言った。
「少し疲れたようだ。今日は、これで失礼するよ。帰って栄養ドリンクでも飲んで寝た方がよさそうだ」
これ以上ここにいて、美咲に正体を気付かれては困る。照平は美咲の部屋から逃げるように退散した。
前の世界で関わったことのない人間とは、どう接していいか分からない。ぼろが出ないように気を付けなければならないと照平は思った。
家庭では、幸せを絵に描いたような生活が続いた。そんな幸せな日々が、ずっと続くように思えたときだった。気付かない所でほころびは、徐々に広がっていたのだ。
書類を読むことに疲れて、何気なく机の引き出しを探っていたとき、照平はそれを見付けた。書類の一番下に、隠すようにしまわれていた茶封筒。表には、「調査報告書 早瀬照平様」と書かれていた。
「なんの調査だ?」
中には数十枚の写真の束と報告書が入っていた。写真を手に取って一枚ずつめくっていった。昼間の繁華街を寄り添って歩く恭子と宮内常務。二人が、ホテルに入っていく様子や出てくる様子が、連続で撮影されたものもあった。間違いなく浮気の動かぬ証拠だ。妻の不倫を疑ったこの世界の照平が、探偵を雇って調べさせていたらしい。
恭子は、表向きは照平の良き妻を演じながらも、その実照平を裏切っていたのだ。照平は、この世界に来て、独身時代と変わらぬスリムな体型を維持している恭子に欲情をそそられ、何度か誘ってみたが、いつも疲れていると、けんもほろろに断られたことを思い出した。前の世界と同様に夫婦の関係はなかった。この世界の照平たち夫婦の関係も、すでに破綻していたのだ。
「これは!」
思わず声を発してしまった。写真をめくる手を止め、体裁を取り繕うように辺りを見回し、写真を封筒に収めた。それから、急いで封筒を鞄に押し込んだ。
「うん?」
引き出しの一番下に銀行の封筒があった。現金でも入っているのかと中を見ると貸金庫のカードと鍵が入っていた。
「貸金庫の鍵?へそくりでも隠しているのかな。今度暇があったら確かめてみよう」
そう言って照平は、封筒を引き出しの奥に戻した。
後日、照平が調べたところによると、恭子は、もともと宮内常務の愛人だったことが分かった。常務の奥さんは森松建設の元専務の娘で、宮内が常務にまで昇進したのも、奥さんのおかげだから、宮内は奥さんに頭が上がらないのだ。
恭子との不倫関係を疑いだした奥さんの追及を逃れるために、宮内は急遽照平と恭子の結婚をまとめたようだ。
以前美咲が言った「常務のおさがり」という言葉も納得がいった。ここの照平は、なかなかの野心家のようだから、出世という餌につられて結婚を承諾したのだろう。
照平と結婚してからも恭子と宮内常務の関係が続いていたことになる。この件については、照平は今まで通り、知らぬ振りをしておくことにした。
街はクリスマスの飾りに彩られ、あちこちからクリスマスソングが聞こえてくる。気分は嫌でも盛り上がる。そんな心が浮き立つクリスマス・イブの日。
営業部の忘年会の後、照平がほろ酔い気分で駅裏の歓楽街を歩いているときだった。若い女と中年の男がホテルに入っていくのを見た。後ろ姿だったが、確かに奈美に間違いなかった。援助交際という言葉が、照平の頭に浮かんだ。
「奈美のやつ。今夜は、友達とパーティーをして遅くなるから、そのまま友達の家に泊まると言っていたはずだ。まさか、まじめなはずのこっちの奈美が援交で小遣い稼ぎをしていたなんて」
照平は、どう対処したらいいか分からず、なんともやるかたない思いがした。
年が明けた。すがすがしい元旦を一家団らんで楽しく迎える。という訳にはいかなかった。哲也は、難関私立高校受験に向けて、年末から塾の特別講習に通っている。奈美は、昨夜から友達と初詣に出かけたまま帰ってこない。恭子は、風邪をひいて熱があると言って起きてこない。しかたなく、照平はコンビニで買ったおせちをつまみながら、一人でテレビを見ていた。どのチャンネルも似たような、正月のバラエティー番組を放送していた。
そのとき、電話のベルが鳴った。
「もしもし、早瀬です。えっ、なんですって!分かりました。すぐにそちらに伺います。誠に申し訳ありません」
照平は、受話器を置くと、すぐに外出した。寝ている恭子には声を掛けずに出てきた。行き先は、駅前の交番だ。哲也が本屋で万引きをしたということで、交番に呼び出されたのだ。
照平は、警官と本屋の主人に何度も頭をさげて謝った。代金を弁済し二度とこのようなことはしないと本人に約束させ、保護者がしっかり監督するということで、本屋の主人には被害届けを取り下げてもらった。
警察にも今回は初犯だったことと、本屋の主人と示談が成立したことで不問に付してもらった。照平は、この件について、学校には知らせないように重ね重ねお願いした。それから、哲也を連れて交番を出た。
父としてここは、何かもっともらしい言葉でも掛けたいところだった。だが、照平には適当な言葉が思い浮かばなかった。気まずい雰囲気のまま、二人は無言で家まで歩いた。
照平が玄関の鍵を開けて、ドアの取っ手に手をかけようとしたとき、後ろから哲也が声を掛けた。照平が振り返ると、
「父さん、ごめん・・・」
哲也が、ためらいがちに言った。
「母さんには、このこと黙っててもらいたいんだけど・・・。心配かけたくないから」
哲也のすがるような視線を感じた。照平は、しばらく考えてから答えた。
「ああ、分かった。男と男の約束だ」
昔、青春ドラマか何かで見た台詞のようで、自分でも少し臭いと思ったが、勢いで言った。
それを聞くと安心したように、哲也は玄関ドアを開け、二階の自室に駆け上がっていった。
傍目には幸せそうに見える家族でも、他人には分からない問題を何かしら抱えているのだと照平は思った。
その後、哲也は事件のことを払拭するかのように、これまで以上にがむしゃらに勉強に励んだ。
正月休みが終わり、普段の生活が戻ってきた。会社帰りに美咲の部屋に立ち寄ることが増えていた。そして美咲との関係も徐々に深まっていった。
「ねえ、いつ奥さんと別れて一緒になってくれるの」
「何を言い出すかと思えば、突然なんだよ」
「突然じゃないわよ。あなた前に言ったじゃない。奥さんと別れて私と正式に結婚するって」
「そんなこと言ったかな」
「言ったわよ。ごまかさないで」
照平には本当に覚えがなかった。おそらく、ここの照平が言ったのだろう。調子のいいことを言って美咲をいいようにあしらっていたにちがいない。迷惑なやつだと照平は思った。
「あなたはいつもそう言ってごまかすのよね。あなたが煮え切らないから・・・」
美咲の顔に笑みが浮かんだ。
その夜遅く照平が家に帰ると、家の中は、誰もいないかのように真っ暗で静まりかえっていた。
ダイニングの明かりをつけると、恭子が食卓の椅子に座っていた。
「おっ、いたのか」
誰もいないと思っていたので驚いた。
「明りもつけずに、どうしたんだ。晩飯は食ってきたから」
「どうせ女のところで食べてきたんでしょ」
「なっ、何を言うんだ。残業だよ。残業」
図星を指され、照平は明らかにうろたえていた。
恭子が、食卓の上に写真を投げだした。
「今日届いたの」
照平が写真を手に取った。照平と美咲のツーショット写真。二人とも旅館の浴衣を着ている。明らかに不倫旅行の証拠写真だ。ここの照平が出張を装い旅行に出かけたのだろう。
「その娘、会社の娘でしょ。以前から女がいるんだろうって薄々感づいてたけど、まさか、会社の娘に手を出していたなんて」
と、便せんを食卓にたたきつけた。
その手紙には、照平の恭子に対する愛情はすでになくなっている。照平は自分を愛している。離婚して自分と結婚することを望んでいる。だから、恭子には、照平と離婚してほしいと書かれていた。送り主は美咲だ。
「勘違いしない方がいいわよ。こんな若い娘が、何の取り柄もない中年男のあなたなんかを本気で好きになるわけないんだから。部長の肩書きに惚れただけよ。女の気を引こうと、その気もないくせに口からでまかせを言ったんでしょうけどね。私と別れるってことは、宮内との関係も切れるってこと。そうなるとあなたの今の地位もどうなることかしら」
照平は、恭子の言うことは、もっともだと思った。
「お前だって、常務との関係を続けていたんだろう。俺を裏切っていたんだな」
売り言葉に買い言葉、照平もつい言い返してしまった。
「あら、ずいぶんなこと言ってくれるわね。もともと、私が宮内と付き合っていたの、あなただって知ってたでしょ。子どもができて、私達の関係が宮内の奥さんにばれそうになったから、しかたなしにあなたと結婚したんじゃないの。まあ、子どもは流産しちゃったけど。あなたもそれを承知で、私と結婚したんじゃない。その分、宮内には随分目をかけてもらってるでしょ。あなたが、ここまで出世できたのだって宮内のおかげじゃないの」
「俺への愛情はなかったのか」
「誰があんたなんかに」
恭子が吐き捨てるように言った。
「俺たちの今までの夫婦生活は何だったんだ」
「私にとって苦痛でしかなかったわ」
「だからって、片山とも関係をもつなんて」
照平は、鞄から写真を取り出し、恭子の鼻先に突きつけた。宮内と密会した日とは別の日に撮られたものであろう。恭子が片山とホテルから出てくる姿が映っていた。
「あら、気付かれてたのね。おおかた探偵でも雇って私を尾行させたんでしょう。この際だから、はっきり言わせてもらいますけど、あんたなんかより、片山さんの方がよっぽど素敵だったわ」
「なにっ!」
照平は自分の人生と人格のすべてを否定されたような気になり、無性に腹が立った。普段は温厚な性格の照平だが、いまだかつて感じたことのない激しい怒りの感情が照平を支配した。思わず恭子の頬を平手打ちしてしまった。
「きゃーっ」
左の頬を押さえながら、恭子がうらめしそうに睨んだ。
「すっ、すまない。つい・・・」
照平は自身の行為が信じられないといった様子で、両手を見つめていた。
「やっと本性を現したわね。この何ヶ月か、人が変わったみたいだったから、おかしいと思ってたのよ。でも、猫をかぶるのもここまでのようね。宮内からの忠告も長続きはしなかったわけだわ」
「忠告?何の話だ?そう言えば・・・」
照平は以前、宮内から恭子とうまくいっているかと聞かれ、唐突な質問に不審を抱いたことを思い出した。恭子が宮内に頼んで言わせたものだったようだ。
「お前が何を言いたいのかよく分からないけど、手を出したことはあやまるよ。ごめん、怪我はなかったかい」
照平は、頭をさげた。
「いつもそう。暴力をふるったあと、そうやって優しく振る舞うのよね。あんたの猿芝居にはうんざり。今まで我慢してきたけど、もう限界よ」
恭子は、シャツのボタンを外し、胸をはだけた。白い肌に何個かくっきりと青い痣があった。
「どうしたんだ、その痣」
「何とぼてけてるの。全部あんたにつけられた痕よ」
「えっ、俺が!そっ、それは・・・」
それは自分じゃないと言いかけたが、言っても無駄だと思い直してやめた。
「もう終わりにしましょ」
「どういうことだよ」
「離婚よ」
「離婚!何もそこまで」
「離婚までは考えていなかったっていうの。お互い愛情なんてなかったってはっきりしたのよ。これから先、夫婦を続けたって意味ないじゃない」
「意味ないなんて。そんなこと・・・」
予期せぬ恭子の言葉に照平は困惑した。
「奈美と哲也のことは、どうするんだ」
「奈美も哲也も、もう子どもじゃないんだから、分かってくれるはず。二人とも私が面倒をみるから、あんたは、あんたで好きにすれば。若い愛人さんと一緒になるもよし」
「勝手なことを言うなよ。二人とも何かと難しい年頃だ。特に哲也には男親が必要なときもあるだろう。奈美にしたって、離婚をきっかけに道を踏み外さないともかぎらないし」
「大丈夫、奈美と哲也なら。私一人で立派に育てていけるわ」
「そんなことは・・・」
照平の脳裏に援助交際をしている奈美と万引きをした哲也の姿が浮かんだが、そのことは恭子には話せなかった。
「待ってくれ。考え直してくれないか。俺はお前と別れたくはない。二度と手を挙げたりしない。誓うよ」
「今まで何度、その台詞を聞いたかしら」
「今度は絶対だ」
照平には自信があった。なにしろ恭子に暴力をふるっていたのは別の照平なのだから。
「それに、美咲とはきっぱり別れる」
「この女が、別れ話に素直に応じるかしら」
恭子が、不倫旅行の写真を照平に投げつけた。
「お願いだ。お前と夫婦として、家族としてやり直したいんだ」
照平は土下座して謝った。他には何の取り柄もない照平だったが、謝ることにかけては他人に負けない自信があった。この時、照平はこの世界の早瀬照平として生きていく決意を固めた。
「驚いたわ。プライドの高いあんたがそこまでするなんて。分かった。最後のチャンスをあげる。でも後はないわよ」
「肝に銘じて忘れないよ。それから、お前も片山と別れてくれ」
「どうかしら。片山さんがすんなり別れてくれるかしら?考えとくわ」
このときすでに、片山と恭子との関係は終わっていた。片山にとって恭子は遊びの対象でしかなく、片山は別の女性と付き合っていたのだった。そんなことは、照平には知る由もなかった。事なかれ主義の照平は、この後も片山の前では何事もなかったかのように平静を装った。
翌日、照平はメールで美咲を呼び出した。
「話がある。仕事が終わってから屋上で会おう」
早めに仕事を片付けた照平が、屋上で待っていると、美咲がやって来た。
「話って何?奥さんと別れる決心がついたの?」
「しらばっくれるな。こんな手紙をよこしといて」
照平は封筒を美咲に見せた。
「ああ、それ。いつまでもあなたが煮え切らないから」
美咲があっけらかんと言った。
「だからって、こんな・・・。まあいい。君とは終わりだ。これで、俺と別れてくれ」
照平は、上着の内ポケットから封筒を取り出し、美咲に渡した。
「百万ある。少ないけどとっといてくれ」
「手切れ金?随分安く見られたものね。これっぽっちのお金で、はいさようならって?」
「俺の才覚じゃ、それだけしか用意できないんだ」
「一千万、て言いたいところだけど、いいわ別れてあげる」
「えっ?」
「なに驚いてるのよ」
「だって、君が意外にあっさりと承諾してくれるから。もっとごねられるかと思ってた」
「ごねたってしようがないでしょ。自分が惨めになるだけだわ。どうせあなたは、奥さんと別れる気なんかない。そんなこと始めから分かっていたわ。そんな男との関係をいつまでもだらだらと続けるわけにはいかないし。だから、あなたの気持ちを確かめたくって手紙を送ったのよ。これで、きっぱりと別れる決心がついたわ」
後日、美咲は総務部へ異動となった。年度末の異動の時期だったので不審に思う社員はいなかったが、照平は、この異動になぜか違和感を覚えた。
ゴールデンウィークが目前に迫った四月下旬、会社を揺るがす騒動が起こった。
その日、照平が出社すると、そこかしこで額を寄せてひそひそ話をしている社員を見かけた。営業部のオフィスでもいつもののどかな始業前のひとときと違って、オフィス全体に張りつめた空気が漂い、ただならぬ雰囲気を醸し出していた。
「今朝は、社内の様子がいつもと違うようだけど、どうしたんだ?」
照平が尋ねると、岡田がいぶかしげな顔を向けた。
「どうしたもこうしたもありませんよ。部長、ご存じないんですか」
「何のことだ」
「今日発売の週刊誌です」
岡田が机の上に週刊誌を置いた。開かれたページを一瞥した照平の目に「市立図書館建設をめぐる贈収賄疑惑!」と太字の見出しが飛び込んできた。
記事の内容は、O県O市の市立図書館新築工事に関わって、M建設が市役所建築部部長のY氏に金銭を渡したというものだった。
イニシャルで書いているが、関係者が読めばM建設が森松建設、Y氏が部長の山崎であることは容易に想像できる。
「どこから情報がもれたんだ?」
照平は、森松建設が図書館建設工事の契約を取り付けるために、建築部長に裏工作していることは知っていた。
きっかけは机の引き出しに入っていた貸金庫の鍵だった。この世界の照平が何を預けているのか気になった照平は、得意先回りのついでに銀行に立ち寄った。
金庫の中には、ボイスレコーダーが入っていた。期待していた現金ではなかったのでがっかりした。だが、貸金庫に保管するくらいだから、よほど大切な物に違いない。何が録音されているのだろうと、照平はイヤホンを耳に入れ、再生ボタンを押した。
ボイスレコーダーには、建築部長への買収計画を密談している宮内常務と照平、岡田の三人の会話が録音されていた。
「是か非でも図書館工事の契約を取るんだ。そのためには、山崎部長を抱き込んで入札価格聞き出すんだ。どんな手を使っても構わん」
「違法な手段でも・・・」
「そうだ。金でも色仕掛けでも、何でも構わん。こちらで十分な金も用意しよう」
この世界の照平が、しばらく黙っていると、代わりに片山が答えた。
「お任せください。ご期待に添えるよう全身全霊を傾けます」
「片山君、頼もしいな。だが、くれぐれもこの件は内密に進めてくれ」
「分かっております」
照平は事の重大さに恐ろしくなって、停止ボタンを押した。それから、ボイスレコーダーを貸金庫に戻すと、そそくさと銀行を後にしたのだった。
午前10時頃には、本社ビルの前は、詰めかけた報道関係者でごった返していた。営業部でも取引先や顧客から、ひっきりなしに掛かってくる電話の応対で全員てんてこまいだった。取締役たちは善後策を講じるため、緊急に会議を開いた。
図書館工事受注プロジェクトの責任者として、照平は取締役会に招集され、事情説明を求められた。
「片山君は、どこだ」
顧客への釈明の電話が終わり、受話器を置いた岡田に照平が尋ねた。
「片山課長は、昨日から体調がすぐれないとのことで休暇を取られています」
どおりで、昨日から片山を見かけないはずだ、と今更納得した。
図書館工事受注プロジェクトの全てを片山に任せっきりにしていた照平には、取締役会で説明のしようがなかった。が、片山がいないのでは仕方ない。照平は覚悟を決めて取締役会に臨んだ。
「早瀬君、今回の件は、どういう事なのか説明してくれ」
井口専務が、傲然と言った。
「その件につきましては、部下の片山に一任しておりましたもので、わたくしといたしましては何とも・・・」
照平は、しどろもどろだった。
「こんな重要な案件を部下に丸投げして、知りませんでしたはないだろう。部下に責任を転嫁して済むとでも思っているのか!上司としてどう責任を取るつもりだ」
宮内常務が激怒して叫んだ。
「で、本当に贈賄はあったのかね」
という社長の問いに、
「はあ、ど、どうでしょうか?」
この世界の照平ならいざ知らず、別の世界から来た照平には曖昧な答えしか返せなかった。
裏工作が行われたのは間違いないだろう。だが、交渉の詳しい経緯については、照平には分からなかった。だから、まるで要領を得ない返答に終始した。業を煮やした取締役連中は、明日片山を呼んで直接話をきくということで、照平を解放した。
この日は一日中平常業務などできる状況ではなかった。慌ただしい一日が終わり、照平は疲労困憊して帰宅した。
次の日も片山は会社に姿を見せなかった。
「片山君は、今日も欠勤か。誰か片山君から連絡を受けた者はいるか」
「二日前に連絡があって、それっきりです」
岡田が答えた。
「岡田君、片山君に連絡を取ってくれないか。いや、私が電話しよう」
そう言って、照平は片山の携帯に電話を掛けた。
「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためかかりません」という音声が流れた。
「だめだ。つながらない」
肝心の片山がいなくては、取締役会で事情を説明するのは無理だ。昨日同様話にならない。照平は岡田を片山のマンションまで迎えに行かせた。
約一時間後、岡田が一人で帰ってきた。岡田の報告によると、呼び鈴を何度も鳴らし、ドアをノックして呼び掛けても応答がなかった。新聞受けに三日分の新聞が溜まっていたので、三日前から不在だったらしいということだった。
結局その日、照平が取締役会に呼び出されることはなかった。
夜、帰宅した照平は恭子に尋ねた。
「片山が行方不明なんだ。君、片山がどこにいるか知らないか」
「どうして私がそんなこと。知るわけないじゃない」
「お前と片山は付き合っていたんだし」
「私と片山さんとは、お互いの生活には干渉しないようにしようって決めてたのよ。だから会うのはいつもホテル。しかも昼間だけね。片山さんの部屋に行ったことなんて一度もないわ」
「片山のやつ、得意先回りだなんて言って、昼間っからお前と会ってたわけか」
その後、八方手をつくして捜したが、片山の行方はようとして分からなかった。
週刊誌に記事が掲載されてから四日後のことだった。明日にも森松建設に警察の強制捜査が入るという噂が流れた。そうなると、自分も取り調べを受けることになるだろうと、照平は気が気ではなかった。
勤務終了後、宮内常務に会社の屋上に呼び出された。
宮内は、眼下の街並みを眺めながら、屋上の手すり際に立っていた。
「早瀬君、こんな所に呼び出して、すまなかったね。まあ、見たまえ、ここからの夜景のすばらしいこと」
夜の街は、色とりどりの明かりであふれていた。
「取締役会では、うまくとぼけ通したね。片山君に責任をなすり付けるとは、君もたいしたものだ」
「本当に私には身に覚えがないことでして」
「おいおい、もう下手な芝居は、おしまいにしたらどうだ。ついでに人生もな」
「えっ・・・」
宮内は、夜景を見つめたまま話し続けた。
「片山君の方が君よりよほど利口だ。というより悪賢いというのが正しいかな。彼には、裏金として二億もの金を渡したんだ。しかし、山崎部長に渡したのは、五千万だった。ちゃっかりと一億五千万を着服した。会社としては、表だって彼を告発することはできない。なにしろ、この件に関して会社は一切関与していないんだからな。小賢しいやつだ。もしかしたら、週刊誌に情報をリークしたのは片山かもしれんな。混乱に乗じて今頃は、海外に高飛びしているかもな。
片山がいない以上、この件は、功を焦った君の独断で行ったということで決着する」
「そんな!わたし一人に責任を押しつけて、自分たちは、知らん顔をするんですか」
「誰かが責任をとらなくてはいけない。それは、部長として君の果たすべき役割だよ」
「そんなことは、させない!私達は、宮内常務、あんたの命令で動いただけだ。全部あんたの差し金だと暴露してやる」
「それは、無理だ。死人に口なしって言うじゃないか。君は罪を悔いて、ここで自殺するんだ。君のパソコンに遺書も残しておいたから安心して死んでくれ。おい」
宮内の呼びかけに応じて、やくざ風の男が二人現れた。
「なっ、なんだあんたたちは」
「長年この仕事を続けていると、いろいろ交友関係が広がってね。金次第で危ない仕事を引き受けてくれる裏社会の人間とも繋がりができるのさ」
男たちは照平をフェンスに押しつけた。
「やめろ!」
体を持ち上げ屋上から落とそうとする。照平は、手すりを握って抵抗した。
「放せ!俺が死んだら証拠の品が警察に届く手はずになってるんだ」
「証拠の品。もしかしてこれのことを言っているのかな?だったら残念だったな」
宮内は上着のポケットからボイスレコーダーを取り出し、照平の目の前に差し出した。
「なんで、お前がそれを」
「まさか、あの時の会話を隠し録りしていたとは。全く油断も隙も無いな。それにしても、君も隅に置けないね。あんな若くてきれいな娘を愛人にしていたんだから。だが、切り札を託す相手を間違えたようだね。あの娘は、正しい選択をしたよ。なにしろ君よりも私を選んだんだから」
その日の記憶が照平の脳裏によみがえった。
あれは、美咲と別れる少し前のこと。美咲との蜜月関係がこのままずっと続くと、勝手に思い込んでいた頃だった。
「もし、おれに何かあったら、銀行の貸金庫に預けた物を警察とかマスコミとか、しかるべき所に届けてくれ」
そう言って、貸金庫の利用カードと鍵を美咲に渡した。
「何かって、何よ。縁起でもない。金庫の中に何が入ってるの」
「とんでもない物が入ってるのさ。世間をあっと言わせるほどのね」
「まさか、わたしまで危ない目にあったりしないでしょうね」
「君には関係のないことだから安心していいよ。だけど、余計な詮索はしないほうが身のためだ」
もともと小心者の照平は、贈賄の決定的な証拠を握っていることで、心穏やかではいられなかった。自分一人で抱え込むより、美咲と秘密を共有することで、少しでも心の負担が和らぐのではないかと考えたのだ。
気持ちが高ぶっていたせいか、少し芝居じみた話し方をしただけで、このときの照平は、危険が及ぶ可能性など、全く考えていなかった。
本当に命にかかわる事態になるとは、予想すらしていなかった。しかも、美咲に裏切られるなど・・・。
「美咲が、おまえに乗り換えたってことか・・・。どうりであっさりと別れ話を受け入れたわけだ」
「そういうことだ。つくづく女運のないやつだ」
男が二人がかりで照平の脚を持ち上げた。照平は、手すりをぎゅっと握りしめた。
「まっ、待ってくれ、おれじゃないんだ!おれは早瀬照平じゃないんだ」
「何をバカなことを。お前が、早瀬照平じゃないなら、お前は誰だって言うんだ」
「おれは、早瀬照平だ。だがこの世界の早瀬照平じゃない」
「訳の分からんことを。気でもふれたか。たわ言は、あの世で言え」
「違う!違うんだ!」
照平は激しく抵抗したが、二人の屈強な男に抱えられていては、どうすることもできない。照平の体は、フェンスの外側へ担ぎ出された。
照平の必死の抵抗も限界に達した。ついに、手すりをつかんだ両手が引き離された。
「おれじゃないんだー」
叫び声を残し、照平は頭から真っ逆さまに落ちていった。
そのとき、ほんの一瞬だったが、照平は地上にきらめく光を見た。
「元の世界に帰れるんだ」
混乱した意識の中で照平は、そう思った。
照平は落ちていった。地上の光に向かって・・・。
目的を遂げた宮内と男達は、その場からさっさと立ち去った。
会社の自室に戻った宮内は、ソファーにゆったりと座り、巻きたばこをくゆらせながら電話を掛けた。
「無事終わったよ」
「ああ、そう」
「それだけか。20年近く一緒に暮らした男が死んだんだぞ。憐憫の情なんてものはわかないのか」
「そんなもの。もともとあんな男に愛情なんてなかったから。20年、長かったわ。あの男の暴力に耐えてきたのよ。すべては、この日のため。それより退職金は出るの」
「それはないな。なにしろ会社に多大な迷惑をかけて懲戒解雇になるんだから。まあ、わずかだが香典くらいは包ませてもらうよ。保険金をしこたまいただけるんだろう。欲をかかずにそれで我慢しとけよ」
「あんな男でも最期には役に立ってくれたわ」
「まったく、おまえって女は。恐ろしいね」
「ところで、あなたの方は、どうなの。会社、大丈夫なの」
「世間の批判をかわすために、社長、副社長、それと専務には、退陣していただくことになるだろう。人事を刷新して、新体制で会社の信頼回復を図らなければならない。新しい舵取り役は私にまわってきそうだよ」
「あなただって狡知にたけた男だわ。転んでもただでは起きないんだから」
一方、照平がいた元の世界、もう一つの平行世界では。
「いってきます」
玄関から奥に向かって呼びかけても、何の返事も返ってこない。いつものことで気にはならない。ドアに鍵をかけて鞄をさげ、駅に向かって歩く照平。
天気予報では、今日の天気は晴れ。降水確率は、0パーセント。予報どおり、朝からさわやかに晴れわたっていた。照平の表情も今朝の天気のように晴れやかだった。
「この世界も、満更でもないな」
照平は思わず笑みを浮かべた。




