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この美しいものを守りたいだけ  作者: 氷室玲司


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第7話 闇の中の対峙

 子供たちが満腹で瞼を重くし、焚き火の赤い光にまどろみ始めた頃だった。

 静かな地下室に、突然の轟音が響いた。


 ――教会の扉が乱暴に開け放たれる。


 空気が張り裂け、安らぎの残滓は一瞬で吹き飛んだ。

 ナターリヤが驚愕に目を見開き、縋るようにトールへ視線を向ける。


 彼は短く首を振り、制するように手を挙げた。

 そして素早く立ち上がり、地下室から音もなく飛び出す。


 闇に包まれた教会の広間。

 そこに、数人の影が立っていた。荒んだ笑いと、金属のきしむ音。

 トールは一歩前に進み、低く告げた。


「退けないのか? こちらは一時しのぎにいるだけだ。

 そちらが刺激しないなら、近日中に立ち去る」


 返答代わりに浴びせられるのは、罵声だった。

 侵入者たちが口汚くわめき散らし、床に唾を吐く。


 その中から、長身の男が一歩前に出た。

 片手に長剣を提げ、薄笑いを浮かべる。


 ジェローム。


「それは最初に言うべきだったんじゃねぇか?」

 嘲るように首を傾げる。

「うちの者を叩きのめして……そりゃ通らない。うん、通らないなぁ」


 剣先を軽く揺らし、まるで礼儀の真似事のように一礼する。

 だがその笑みには侮蔑と血の色しかなかった。


「経緯は知らねぇ。ただ、アンタ……腕に自信がありそうだ」

 舌なめずりしながら、歪んだ笑みを深める。

「この街は俺の庭。強えやつはもう要らねえんだ」


 剣を構え、暗闇に響く金属音。

 その瞬間、戦場の気配が教会を支配した。


 トールは冷ややかに相手を見据える。

 平常心を崩さず、しかし胸中で呟く。


(……ここでは命が軽い。本当の“命のやり取り”は、これが初めてだ)


 地下に残した子供たちの寝息が、遠くで微かに聞こえた。

 それを背に、トールは静かに構えを取った。


 軍服の中で、鍛え抜かれた筋肉が音もなく膨れ上がる。

 肩から背、脚の腱までが張り詰め、獣のような気配を発した。


 トールの目が細まる。

 相手の呼吸、指先の震え、剣先のわずかな揺れ――そのすべてを観察する。


(……この長身の男のみ。あとは取るに足りない)


 腰へ伸ばした手が、静かにV3ナイフを抜き取る。

 艶消しの刃が焚き火の光を吸い、音もなく構えへ収まった。


 脚を肩幅に広げ、重心を低く落とす。

 片膝を柔らかく曲げ、前傾姿勢をとった。

 全身の筋肉が次の瞬間に爆ぜる準備を整えたまま、微動だにしない。


 沈黙の中、トールとジェロームの間に緊張が張り詰める。

 剣とナイフ。

 生死を分かつ刃が、暗闇の中で初めて相対した。


 先に吠えたのは手下たちだった。

「やっちまえ!」

 罵声とともに三人が一斉に飛びかかる。


 トールは一歩も退かなかった。

 腰を沈めたまま、鋭い踏み込み。

 最初の一人の手首を掴み、捻り上げ、骨が砕ける音とともに刃を床へ落とさせる。

 その動きを連鎖のようにつなぎ、二人目の腹へ肘を打ち込み、呼吸を奪う。

 三人目の動きが止まった刹那、V3ナイフの刃先が首筋へわずかに触れ――男は恐怖で崩れ落ちた。


 わずか数呼吸の間。

 血を流すこともなく、三人の戦意は完全に潰えていた。


 ジェロームの目が細まり、笑みがわずかに固まる。

(……なんだ、この男は……動きが読めねぇ)


 彼は剣を軽く構え直し、口元に余裕の笑みを張りつけた。

 だが額にはじっとりと汗が滲んでいる。

 理屈ではない。本能が警報を鳴らしていた。


 ――勝てない。


 女子供を顔色ひとつ変えずに殺せる自分。

 だが、この男はそれ以上に冷静に、そして必然のように、武器を持つ相手を無力化していく。

 当たり前のことに、ジェロームはようやく気づかされた。


(……俺みてえな半端者じゃねぇ…本物だ、コイツは)


 笑みを保ちながら、ジェロームの背を冷たい汗が流れ落ちていた。


「もう一度だけ言う。……引け」

 低く、しかし確固とした声が闇に響いた。

「これ以上は――俺も理性の鎖を外すことになる」


 呼吸ひとつ乱れぬ姿勢で、トールは立っていた。

 筋肉は爆ぜる寸前の膨張を保ち、しかし吠え立てることはない。

 そこにあるのは冷静と、完璧に制御された殺意。


 吠えたける狂犬ではない。

 感情を抑え込み、狙ったものを必ず仕留める――純然たる「殺人兵器」。


 その瞳に射抜かれたとき、ジェロームは悟った。

 自分が映っている。

 逃げ場を与えられぬまま、確実にロックオンされた“獲物”として。


(……とんでもねぇ化け物に、喧嘩を売っちまったな)


 背筋を伝う汗を振り払い、ジェロームは歯を食いしばる。

 それでも瞳に宿る光を消さなかった。

(だが……こっちも伊達に“スラム街最強”を名乗ってるわけじゃねぇ!)


 ジリジリと間合いを広げ、後退する。

 剣を構え、刃を前に突き出しながら、呼吸を整える。

 剣の間合い――明らかに、あのナイフよりも自分に有利な距離。


 ジェロームの笑みがわずかに戻る。

 狂気と恐怖、そのどちらにも呑まれぬための仮面だった。


 トールの身体が震えることはなかった。だが、胸の奥ではささやかな動揺が波打っている。鋭い判断と本能の天秤が、ごく短い時間に何度も揺れた。


(これ以上奴らを追い詰めて、要らぬ恨みを買う必要はない……)

(だが、こういう類の連中は弱みを見せれば際限なくつけ上がる。やるなら徹底的に、だが──)


 二つの道が視界に並ぶ。退くこと、あるいは打ち倒すこと。どちらを選んでも、背後の寝床では子供たちが夢に沈み、ナターリヤが頼りなげに待っている現実がつきまとう。保護者としての合理。戦士としての本能。どちらも正しいが、両立はできない。


(まだこの世界に来て二日だ。元の世界の常識を完全に捨てきれるはずがない)

(だが──向こうがこちらの都合を聞いてくれるようには見えん)


 記憶の端に、訓練施設での夜がちらつく。誰かを見捨てた痛み。誰かの無駄死にを許したくないという、あの夜の誓い。決断は感情ではなく、責任の重さから降りてくる。


 トールはゆっくりと息を吐き、顎の下で短く喉を鳴らした。決断は、行動の前にある。迷いは消えないまま、だが行動は遅らせられない。


 彼は刃の柄を軽く握り直した。刃先を隠すことなく、しかし過剰な挑発はしない──それが今できる最も合理的な均衡だった。守るべき者を傷つけさせないために、まずは相手の出方を一度だけ試す。だが、その試しは一線を越えれば、徹底させるつもりである。


 背後の子供たちの寝息が、遠い針のように彼の鼓膜を打つ。トールはその音を頼りに、静かに踏み込む準備を整えた。


 ジェロームは剣を構えたまま、じりじりと後退る。

 刃を振るうよりも、まずは相手を知りたい――そんな衝動が勝っていた。


「……なあ」

 笑みを崩さぬまま、声だけが低く響く。

「ガキどもの身内でもねぇアンタが、なんでそこまでムキになるんだ?」


 問いは嘲りに聞こえたかもしれない。だが、その眼差しには別の色があった。

 純粋な好奇。自分より遥かに上の存在に出会ったときの、抗いがたい欲求。


「何の得にもならねぇ。俺らを敵に回すほどの理由があるのか?」


 トールは即答しない。

 静かな視線の奥で、答えを選ぶよりも状況を測っていた。


 ジェロームはさらに踏み込む。

「アンタなら別に好き勝手にやっても許される力がある。……なんでこんなことにこだわる必要があるんだ?」


 戦闘狂であり、冷酷な男であるジェローム。

 だが、いま目の前に立つのは“狂犬”ではなく、“自分を遥かに凌駕する兵器”。

 それに初めて相対したとき、彼の中に生まれたのは、戦う欲よりも知りたい欲だった。


(……こいつは、何者だ? 何を背負って、ここまで冷静でいられる……?)


 ジェロームの額にじわりと汗が浮く。

 それでも笑みを崩さず、剣を軽く揺らしながら、目だけでトールを値踏みしていた。


「……何のためとか、考える必要があるのか?」

 トールは唇をほとんど動かさずに答えた。声は低く、しかし揺らぎはない。


「逆に聞こう。お前は何のために人を殺そうとする?」


 ジェロームは一瞬だけ黙し、そして喉の奥で笑った。

「ハハッ……そういうことか。結局、お互い言葉じゃわかり合えねぇってことだな」


「そのようだ」


 会話はそこで途切れた。

 ジェロームは剣を下ろさず、じりじりと右へ回り込む。

 五メートルほどの距離を保ち、円を描くように動く。

 トールの視線がそれを追い、互いの呼吸だけが教会の広間に響いた。


 短いやり取り。だが十分だった。

 言葉では交わらない。理屈では埋まらない。

 ならば残された手段は一つ――刃だ。


 トールとジェローム、二人の胸中に同じ認識が生まれていた。

 “この相手とは、剣とナイフでしか理解できない”と。



 張り詰めた空気の中、地下室の奥から――カサリ、と小さな音が響いた。

 ネズミか、あるいは風に押された瓦礫か。取るに足らない気配。

 だが、その一瞬が導火線となった。


 トールとジェローム、二人の視線が同時に動き、次の瞬間には距離を詰めていた。

 剣とナイフがぶつかり合い、暗闇に鋭い火花を散らす。


 ジェロームの剣が大きく振られ、トールは寸でのところでV3で受け止める。金属の擦れる音が暗闇に鋭く響き、二人の距離が瞬時に詰まった。互いの呼吸が荒くなる。互いの目が刃の先に吸い寄せられる。


 刃の交わりは短かった。だが、その刹那に両者は互いの“本物”を確かめ合った。ジェロームの顔に、久々に血の匂いを前にした興奮が滲む。一方、トールの瞳は冷たく、揺るがぬ決意そのものだった。


刹那の交錯の後、ジェロームは大きく跳び退き、剣を肩に担ぐようにして下げた。

 背筋を見せない距離を保ちながら、敵意だけをわずかに緩める。

 これ以上動けば即座に斬られる――そう理解していたからだ。


 静寂が戻り、彼はようやく口を開く。


「……わかったよ。強ぇ奴の理屈が、この街じゃ優先する。アンタの顔を立てて、一週間は手を出さねえ。その間にガキどもを連れて、どこへでも行け」


 剣を地に突き立て、挑発でも降伏でもない仕草を見せながら、口元だけが歪む。

「但し……」


「但し?」トールが低く返す。


「次は、本気で殺り合おうや。強ぇ奴は二人も要らねえ、だろ?」


教会の闇がその短い約束を飲み込み、静寂が戻る。トールはじっと相手を見据え、ゆっくりと頷いた。言葉は少ない。だがその頷きに、子供たちを守る覚悟と、次に来る刃の意味が含まれていた。


 ジェロームは満足げに笑い、部下たちを促して後退る。背を向けながらも何かを誓うように呟いた——鍛え直す、と。狩りを楽しむような足取りで、彼らは夜の路地へと消えていく。


 静けさが戻った地下室で、遠く子供たちの寝息が聞こえる。トールは刃を収め、ナターリヤの方へと静かに歩み寄った。目に見えない一週間の時間が、巣の中で重く、しかし希望を繋ぐ余地を残していた。



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