第6話 獲物を討つ
森の奥に差し込む夕陽の赤が、影を長く伸ばしていた。
その陰の中で、徹は気配を研ぎ澄ませる。
枝葉の隙間、わずかに揺れる草。
そこに――いた。
大きな影。二百キロ近い体躯。
鹿だ。
徹は息を止め、既に仕掛けておいたくくり罠の位置を確認した。
獣道を横切るその脚が、狙い通り罠の輪へ踏み込む。
瞬間、草むらが跳ね、縄が脚を絡め取った。
鹿は驚愕の咆哮を上げ、暴れる。木々を揺らす力に、罠の支点が軋んだ。
「――今だ」
徹は背後から飛び出した。
全体重を預けて鹿の背へ取りつく。だが次の瞬間、獣の筋肉が炸裂した。
振り飛ばされ、地面に叩きつけられる。肺から空気が抜ける。
それでも徹の手はナイフを離してはいなかった。
立ち上がりざまに踏み込み、暴れる首元へ刃を突き立てる。
トールの手にあるのは、俗に言う「ナイフ」以上のものだった。名はV3コンバットナイフ──軍の携行刃として彼自身が選び抜き、幾度も手入れしてきた相棒である。刃身は短めだが肉厚で、先端へ行くほど僅かに角度を立てた断面を持つ。見る者に与える第一印象は「厚み」と「密度」であり、それは刃が叩きつけられたときに力を受け止め、そして返すことを示唆していた。
素材は古い世界で訓練時に馴染んだCPM-3V。鋼の組成は堅牢さを最優先に設計されており、刃先の保持力と芯の靭性を両立する。薄く研がれた切っ先は肉薄の切断を可能にしつつ、芯はまるで鎧のようにたわまず応力を受け止める。剣や粗雑な刃で叩き斬られても刃が折れず、逆にその衝撃を受け止めて相手を断ち切る——その剛性と復元力が、この刃の本質だった。
握りは単純だが緻密な設計だ。握り手はラバーと層積の合成材で巻かれ、汗で滑らないよう凹凸が刻まれている。柄の芯はフルタングで、手の動きは刃先へ直結する。重量配分は柄寄りにコントロールされ、柄を握った瞬間に「斬る」「刺す」「押さえる」すべての動作が滑らかに一連で繋がる。ポケットやベストのどの位置からでも瞬時に抜け、振るえば剣に対しても拮抗する剛性を示す。
表面仕上げは艶消しのブラックパティーナ処理が施され、光を反射せず、血も目立たない。刃の刻印には小さな刻字──製造ロットとトールの持ち主を示す一文字──があり、それは彼がこの刃を「自分のもの」として認めている証でもある。
機能が先にあり、装飾は後回しだ。V3は戦場のために作られた道具であって芸術品ではない。しかしその無骨さのなかに宿る精密さが、実戦での信頼を生んでいた。刃先を頸動脈に届かせた瞬間、V3は紙のように肉を切り裂かず、どこか重く、しかし確実に血管を断ち切った。刃は跳ね返りを見せず、むしろ動力を吸い込むように獲物の力を終わらせる。そうして鹿は痙攣を繰り返し、静かに沈んだ。
トールはナイフの血を雑巾で拭い、柄を確かめる。刃は変わらず冷たく、その重さが彼の掌に伝えるのは、道具への信頼と、奪った命に対する責任だけだった。
「……いただくぞ」
これは勝利ではない。
生き残るための奪取だ。
徹はそう言い聞かせ、静かに獲物に頭を垂れた。
鹿が地に沈んだ後、トールは短く息をつき、すぐに次の段取りに移った。勝ち誇る余地はない。獲物は獲物であり、これからが仕事だ。
まずは首筋から腹へと一直線に刃を入れ、内蔵に触れないよう慎重に皮を裂く。V3は刃先に遊びがない。皮を切り裂き、筋を切り、内蔵室を露わにする作業は無言の儀式だ。血が流れ、森の匂いが深くなる。トールは内蔵を一つずつ丁寧に取り出し、可食の臓物(心臓、肝)を瓶や布で包んで確保する。内臓の油は別枠で保存する価値がある――火力不足のこの世界では、脂は貴重な資源だ。
皮は剥がれ、肉は部位ごとに切り分けられる。大腿部の厚い筋肉はまず重く、火で炙って表面を焼き、肉の繊維を閉じさせる。切り出した肉塊はすぐに藁と葉で包み、濡れた苔の上に置いて一時的に冷やす。無駄はしない。骨や皮は道具と燃料に回す段取りを頭の中で描きつつ、作業は淡々と進む。
保存法は複数あるが、今必要なのは「持ち帰る」ことだ。そこでトールは即席の牽引具を組み立てる。周囲の直径のある枝を選び、二本を平行に並べて固く結び合わせる。これが骨格となる簡易の橇だ。上に防水シートや剥いだ皮を敷き、肉塊を均等に並べる。幾本かの細い棒で側面を押さえ、荷崩れを防ぐ。最後に長いロープを両端に取り付け、肩に掛けたり、地面に引いて移動できるようにする――裸足で引くよりも、橇に載せて引くほうが抵抗は格段に少ない。
体積のある大腿と脊椎回りを先に載せ、残りは袋詰めにして橇の上で平らに整える。内臓は火にかけてスープにする分だけを別容器で安全に保管した。骨は割って髄を取り、翌朝の燃料とする。皮は乾かして寝床の防寒に回す。全てが循環する。無駄は罪だ。
牽引の準備を整えると、トールは橇の端を肩にかけ、慎重に周囲の地形を確かめながら歩き出す。葉の堆積、小さな溝、濡れた岩――橇の抵抗を最小にするために足先の置き場を選ぶ。時折、腰を落として紐を調節し、荷重の偏りを直す。夜道を引くよりは、薄暮のうちに短距離を稼ぐのが賢明だ。
荷を引く動作は、訓練で体に染み付いた所作だった。重みを受け止めるために体幹を立て、膝で衝撃を吸収する。呼吸は一定に保つ。背後には、遠くに見える自分の足跡と、今朝見送った小さな顔があった。荷の重さが、単なる物理的負担以上の意味を帯びる。
やがて森の縁を抜け、スラムへと向かう道すがら、トールは時折橇の中で保存を確認した。布で包んだ肉は冷え、脂は固まりかけている。何よりも、これがあれば夜の餓えを凌げるという確信が彼を支えた。運搬にはリスクが伴う――動きが遅くなれば付け入る隙を与える。しかし、そこには盾となるべき城もない。彼は引き返すという選択肢を自ら捨てている。
橇の先端に手綱のように結んだロープを短く持ち替え、トールは地面と木々の匂いを数度確かめてから、歩を速めた。夜が来る前に戻る。――戻るために、彼は全てを賭けていた。
教会の地下へ戻ったトールが橇を引き入れたとき、ナターリヤは思わず息を呑んだ。
血の匂いとともに現れたのは、解体を終えた鹿の肉塊。布に包まれ、冷気を帯びたその量は、彼女の想像を遥かに超えていた。
「こ、こんなに……!?」
驚愕に目を見開くナターリヤの背で、子供たちが歓声をあげる。
ギルは無邪気に肉塊へ駆け寄り、瞳を輝かせて叫んだ。
「すげえ! 本当に鹿を捕まえたのか! トール、すげえよ!」
タチアナも、信じられないというように両手を胸に当て、青い瞳を潤ませる。
「……これで、もう……飢えずにすむの……?」
サビーネは跳ねるように走り寄り、肉の匂いに小さな鼻をひくつかせながら、歓喜の声をあげた。
「おにく! ほんもののおにくだ!」
子供たちの声に、ナターリヤの胸に込み上げるものがあった。
彼女はそっと唇を押さえ、涙がこぼれないように必死に堪えた。
トールは歓声に応えることなく、淡々と調理の準備に入った。
火を整え、切り出した肉を炙り、余分な脂を落としていく。
その姿は戦場の兵士が武器を整えるように、ただ合理的で、迷いがなかった。
そんな彼の隣に、ナターリヤは自然と膝をついた。
震える手で鍋を支え、切り分けた肉を受け取り、焚き火に小さな薪をくべる。
慣れぬ手つきでも、彼を助けたい――その一心だった。
「わ、私も……やります。こんなに多いの、一人では大変でしょう?」
トールは短く視線を向け、うなずいた。
それだけで、ナターリヤの胸に温かなものが広がる。
責任を一人で背負うのではなく、肩を並べられる――その感覚は初めてのものだった。
血と煙と湯気の混じる地下室で、ささやかな饗宴の準備が進んでいく。
飢えに怯える日々に、初めて訪れた“満腹”という希望を運んでくるために。
焚き火の上で、肉の焼ける音が弾けた。
焦げつく寸前に散らしたのは、トールが携行していた小袋の塩と胡椒。
野営用に常に持ち歩いていた最小限の調味料だった。
だが、焼けた香りを嗅ぎながら、彼の表情はわずかに曇った。
(……これは限りがある。使い切れば、ただの獣肉になる)
彼は肉を返す手を止めず、隣のナターリヤに声を掛けた。
「この街では……調味料は手に入るのか」
問われたナターリヤは一瞬驚き、それから小さく頷いた。
「塩は交易商人から。高いけれど、街では欠かせません。
香草や乾燥した葉なら、薬師や市場で……でも、ここしばらくは私たちが買えるような余裕は……」
言葉は途切れ、視線が落ちる。
その様子にトールは短く「わかった」と返した。
塩、香草、乾燥葉――情報だけで充分だった。
備えがあれば、無限の工夫が効く。
やがて焼き上がった肉を皿代わりの木板に載せ、子供たちの前へ置いた。
香ばしい匂いに、ギルが真っ先にかぶりつく。
「うまっ……! なにこれ、肉ってこんなに……!」
黒い瞳が驚きに大きく見開かれ、頬張るたびに声が漏れる。
タチアナも恐る恐る口に運び、碧い瞳に光を宿す。
「……あったかい……柔らかい……」
言葉にならない感情が、頬の赤みと涙の気配で伝わってくる。
サビーネはというと、口いっぱいに肉を頬張り、両手を叩いてはしゃいだ。
「おにく! おにくー! もっとー!」
その明るさに、焚き火の炎が揺れ、空気までも笑っているかのように思えた。
さらに鍋からは、骨と山菜を煮込んだスープの香りが広がる。
滋味深い出汁が舌を潤し、疲れきった体に沁みわたる。
子供たちは木の椀を抱えて夢中で啜り、頬に笑みを浮かべた。
「……あったかい……」
タチアナの呟きは祈りのように静かで、ナターリヤの胸を締めつけた。
彼女は火を見つめながら、ふと呟いた。
「こんなに笑って食べるの、いつ以来か……」
トールは何も言わなかった。
ただ手際よく肉を切り分け、次の皿を差し出す。
戦場で培った合理が、ここでは“温もり”に変わっていた。
肉の焼ける匂いと、スープの湯気。
子供たちの笑い声が、久方ぶりの幸福を地下室に満たしていた。
その安堵を破るように――同じ匂いが、夜風に乗って外へ流れていた。
廃教会から離れた路地の陰で、数人の影が立ち止まる。
鼻をひくつかせ、互いに目を見交わした。
「……肉の匂いだな」
「ここしばらく、こんな贅沢な匂いは嗅いだことがねえ」
先頭に立つ長身の男、ジェロームがゆっくりと笑う。
背の長剣が闇に鈍く光り、その瞳に愉悦の色が宿る。
「なるほど……廃教会に、妙な男が潜んでいるという話は本当らしい」
その声は低く、しかし剣の刃のように鋭かった。
彼の部下たちは息を呑み、次の言葉を待つ。
ジェロームは匂いを吸い込み、まるで血の匂いを嗅ぎ分ける獣のように、唇を歪めた。
「面白い。……俺の退屈を、少しは癒してくれるかもしれん」
夜の闇が濃くなる。
幸福な食卓の炎のすぐ外で、血と鉄の気配が確かに近づいていた。




