第5話 生き抜く為
石の扉を押し開け、徹――いや、トールの背が朝の光に溶けていく。
その姿が視界から消えるまで、ナターリヤは子供たちを庇うように立ち尽くしていた。
胸の奥には、安堵と不安がせめぎ合う。
頼ることのできる強い背中が現れたという安心。
だが同時に、もし戻らなければという恐怖。
背後ではギルが「すげえな、トール!」とはしゃぎ、タチアナもサビーネも声を上げて笑っている。
その無邪気な笑いが、ナターリヤの胸を締めつけた。
(……二日。あの人が言ったとおり、二日だけでも私が守らなければ)
食糧の包みを抱きしめるように胸に当て、彼女は目を閉じた。
弱さを知る自分だからこそ、今は踏みとどまらねばならない。
子供たちを守り切ることが、自分に与えられた役目なのだ。
ナターリヤは深く息を吸い、子供たちの頭に手を置いた。
その指先は震えていたが、その瞳には静かな決意が宿っていた。
その頃、スラムの一角にある商工組合の詰め所では、夜明けにもかかわらず荒い息を吐く男たちが転がり込んでいた。
「ひ、ひでえ目に遭った……!」
「廃教会にガキどもが残ってるって聞いたのによ……いきなり現れたんだ、妙な格好の男が……!」
泥にまみれた顔、縄で擦れた手首。
怯えと屈辱を滲ませながら、男たちは口々に叫んだ。
「素手だぞ……! 刃物もろくに使わず、あっという間にやられた!」
ざわつく空気を切り裂くように、低い笑い声が響いた。
奥の椅子に腰を下ろしていたのは、一人の壮年の男だった。
ジェローム。
元は地方貴族に仕えた騎士だが、素行の悪さと私闘の常習で家を追われ、今は商工連合の“戦闘部隊”を束ねる長。
長身に無精髭、背には常に使い込まれた長剣を負っている。
詰め所に転がり込んだチンピラどもの報告を聞きながら、ジェロームは低く笑った。
鋭い鼻筋の下に浮かぶ笑みは、喜びでも憐憫でもない。純然たる“興味”だけだ。
「素手で……三人まとめてか。面白い」
長剣の柄を撫でる手が微かに震える。
それは怒りでも苛立ちでもなく、血の匂いを嗅いだ獣の昂ぶりだった。
「……次は俺が行く」
短い言葉に場が凍りつく。
部下たちは息を呑んだ。ジェロームが動くときは、必ず誰かが血を流す。
それが相手の男であろうと、無関係な女や子供であろうと関係はない。
彼にとって殺しは手段ではなく、愉楽であり、存在証明そのものだった。
騎士の誓いを捨て、剣を振るう理由を戦いの快楽に見出した男。
だからこそ、商工連合は彼を“使い物になる狂犬”として飼っている。
ジェロームは椅子から立ち上がり、背の長剣を軽やかに抜いた。
刃が光を反射し、詰め所の空気を裂く。
「女でも子供でも構わん。目障りなら潰す。俺の剣に立ち向かう奴が一人でもいれば、それで退屈は凌げる」
血の匂いを想起させる言葉に、誰も反論しなかった。
廃教会での次の夜――血と鉄の匂いが濃くなることは、誰の目にも明らかだった。
森からスラム街に入ったときは慎重に歩き、何度も地図を頭に刻みながら進んだせいで数時間を要した。
だが今度は違う。
背に託された命の重さと、限られた猶予が徹の歩を速めた。
瓦礫と泥に覆われた通りを一直線に抜け、目印にしていた崩れた尖塔を過ぎる。
方向を迷わず進んだ結果、わずか一時間もせずに森の縁に辿り着いた。
その間、徹の存在は嫌でも目を引いた。
スラム街のあちこちで、焚き木を抱えて歩く者たちがちらほらと姿を見せる。
痩せ細った腕に薪を抱え、泥に汚れた顔で徹を一瞥する。
軍服に防弾ベスト、軍靴。
この街の誰もが見たことのない装いに、好奇の視線と警戒の目が絡みつく。
そのどちらも徹にとっては“戦場の空気”に近かった。
敵意はまだない。だが、次の瞬間には変わりうる――そういう気配が充満している。
徹は視線を払いのけるように無表情を保ち、歩調を乱さなかった。
背に託された子供たちの存在が、何よりも余計な刺激を排する理由だった。
森の縁に入った徹は、まず耳を澄ませた。
鳥の声と虫のざわめき。
風の向きを測り、湿った匂いが濃くなる方角を定める。
数分のうちに水音を拾った。
枝葉をかき分け、苔むした岩の間から流れ出す小川を見つける。
水源の確保――それが生存の第一歩だ。
徹は腰を下ろし、ポーチから浄水タブレットを取り出す。
軍靴で足場を固め、手際よく容器に水を汲むと薬剤を投入した。
目の前の流れは澄んで見える。だが軍人としての彼には“そのまま口にしてはいけない”という鉄則が骨の髄まで刻まれている。
――これは訓練の延長ではない。
脳裏に過去がよぎる。
中学を出ると同時に進んだのは、陸上自衛隊の養成校だった。
任官して間もなく、徹はレンジャー部隊に選抜され、過酷な行軍や飢餓訓練に身を置いた。
耐えること。考えること。限界を超えて行動すること。
その積み重ねが、鋼の精神と肉体を作り上げた。
レンジャーとは、一人であらゆる軍事行動を遂行できる“ワンマンアーミー”。
その中で徹は二十六歳にして小隊長となり、教官として後輩を導く立場に立った。
サバイバル自体は、彼にとって容易なはずだった。
だが、今回は違う。
背後には護るべき子供たちがいる。
空腹に泣く声が待っている。
訓練では課せられなかった制約が、今は彼の行動すべてを縛っていた。
徹は濁りのない水を見つめ、唇を固く結んだ。
――失敗は許されない。
これは生存の演習ではなく、生存そのものだ。
森の縁に張った簡易テントは、徹の手で「拠点」としての最低限の体裁を整えられていた。防水シートを枝に掛け、藁と苔を寝床に敷き詰める。風当たりを考え、火の位置と見張りの位置を互いに視認できるよう微妙にずらして置く。その仕草は実務的で、美しくさえあった — 無駄を削ぎ落とした動作の連続。
時間はない。昼間の穏やかな空気には余裕があるように見えたが、彼の内側では秒針が激しく動いている。子供たちの腹を満たすため、獲物と可食植物の両方を短時間で確保しなければならない。
徹は歩を進めながら、地面に細かな注意を向けた。足跡は乾き方、ひだの付き方、向き。糞の色と匂い。獣がよく通る擦れた径、樹皮を擦った痕。すべてが言葉にならない地図となって彼に語りかける。彼はそれを読み取り、行動の輪郭を決める。
茂みの縁で、彼はまず食材を探した。食べられるもの、火で処理すれば安全になるもの、そして保存しやすいもの。葉裏の艶、茎の粘り、果実の固さ—視覚と触覚で選び取り、手早く刈り取る。茸を一つ手に取って確かめるが、そこで詳しい鑑別はしない。経験則に従い、食うに値すると判断したものだけを選び、その他は丁重にその場に戻す。過信は許されない。
並行して、獣を誘導するための仕掛けを思案する。彼の訓練は、立ち止まって考える時間と即断のバランスを教えている。樹間の通路、倒木の並び、獣道の合流点──地形の性質を利用して、相手の動線をコントロールする案をいくつか脳内で試す。彼は具体的な作り方を反芻するのではなく、「ここを通らせる」「ここで足を止めさせる」「ここで捕らえる」という目的を先に定め、材料と配置を決める。
用いる道具は最小限だ。サバイバルナイフ、折りたたみの釣り具、数メートルの丈夫な紐、アックス――どれも彼の身体の延長となる。紐は柔軟に自然の支点に回して固定し、釣り具は夜間の小動物を誘うための仕掛けに流用する。
彼は足跡を辿り、ある狭い沢の合流点で足を止めた。ここは、小動物が水を求めて必ず通る「間合い」だ。徹は息を潜め、枝葉で視線を遮る。獲物が来るであろう方角に餌となる匂いを一点に留め、待つ。長い待機ではない。囮として投じる食べ物は少量だが、ここに動線が生まれる瞬間を捉えれば十分だ。
合間に採取したキノコや山菜は、彼の小さな布袋に分けて詰める。湿気を避ける位置、潰れないように詰める工夫——それらは彼の経験が自然に導いた所作だ。獲物を仕留めるための仕掛けを仕上げると、徹は周囲に目印を残した。ただし目印は粗暴に見えないように配慮する。人目を引けば、敵の気配を不必要に誘発する。
夕方に差し掛かる前、最初の成果が出た。細い足音、草の擦れる音。小動物が罠の近くにきて、短い緊張ののち、仕掛けが仕事をした。徹は静かに近づき、迅速に処理する。血の匂いが森の湿った空気に混じる。動物は尊厳を持って扱われる — 無駄はしない。肉は丁寧に剥がれ、保存の効く部分はまず袋に収められる。皮や骨は余さず燃料や道具に回す。
同時に、彼は水源近くで見つけた食用になる葉菜と茸を火で軽く炙り、少量の試食をする。風味を確かめる、その行為は生存への慎重な儀礼だ。匂い、歯触り、胃の反応を確かめてから、大人一人分ではなく五人分を想定して分配する。時間は短く、だが段取りは無駄なく美しい。
暗くなる前に、彼は拠点へ戻る。背負い袋は想定よりも重いが、希望も詰まっている。夜が迫るにつれ、森の気配は鋭くなる。彼は火を小さく灯し、食糧を少しだけ火に掛ける。保存の工夫として、塩代わりに煙で乾かすという手段を選ぶ。匂いは控えめに、しかし栄養は確かに伝わる。
徹は小動物の確保で当面の糧を得たが、心の奥にある本命は別だった。
小動物は短期の繋ぎにすぎない。まとまった肉と脂が必要だ——鹿一頭なら、子供たちを数日、あるいは週単位で養える。
地面の皺、浅い蹄の跡、木の幹に残された擦過の痕を改めて追い、彼は鹿の通り道を割り出す。水場の近く、日没前後に必ず姿を現す“間合い”がある。そこで待つことが最も現実的だと判断した。
だが、鹿は大きく、敏感で、致命のリスクを伴う相手だ。失敗すれば自分が傷つき、その後の帰還も絶たれる。だからこそ、彼の手は慎重さと冷徹さを帯びる——誘導、待機、距離の取り方、逃走路の確保。すべてを計算に入れた上で動く。
暗くなり始めた木立の縁で、徹は大きく息を吸い込み、獲物を一頭狙う覚悟を固めた。
鹿の脂が焚き火の稀な夜にどれほどの安堵をもたらすかを思えば、ここでの勝負に賭ける価値は明白だった。
――ギルの無邪気な驚き、タチアナの不安げな瞳、サビーネの泣き笑い。
その全てを腹一杯食わせたい。その思いが、徹を鹿狩りへと駆り立てていた。
これは楽しみのための狩りではない。
守るために必要な殺しだ。




