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この美しいものを守りたいだけ  作者: 氷室玲司


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第21話 影路地再び

 翌朝、陽が昇ると同時に、トールたちは起き出して影路地へ向かう準備を始めた。

 荷台には、解体した熊の肉や毛皮を積み込む。


 あくびを噛み殺しながら、タチアナとギルは、まだ眠いと愚図るサビーネと――その後ろをちょこまかとついてくるアダラを連れて、清流へ顔を洗いに向かう。


「結局アダラを離さないんだから……いい? ちゃんと面倒も見てあげなきゃいけないんだよ? 生き物なんだから、可愛がるだけじゃ駄目なんだからね!」


昨夜のアダラ争奪戦に負けたというか譲ってしまったタチアナは少々ふくれっ面で説教をはじめる。


「まだサビーネにはわかんねーって。でもサビーネにも弟ができて、よかったじゃん」


その雰囲気を和らげるようにギルがとりなす。


「うん! アダラちゃん、ずーっとずーっといっしょだよ!」


 さっきまでぐずっていたのが嘘のように、ヒマワリのような笑顔を浮かべるサビーネに、2人はやれやれと肩をすくめた。


 朝の光が森を照らし、清流の水面がきらきらと輝く。

 子供たちの笑い声と、アダラの甲高い鳴き声が重なり、静まり返った森に小さな生命の鼓動を響かせていた。

 トールは荷車の結び目を確かめながら、その光景を一瞥し、わずかに口元を緩める。

 ――この穏やかな朝が続くなら、それだけで十分だ。


「いきましょうか、ほら、みんな!」


 ナターリヤの声に、子供たちが一斉に振り返る。


 廃教会からこの森の拠点へ移ってきてから、子供たちは見違えるほど明るくなった。

 やはり人間――ちゃんと食べて、太陽の光の下で体を動かすこと。

 それが何よりも大事なのだと、ナターリヤはしみじみ感じていた。


 自分自身も、この一週間ほどで心身が確かに変わっている。

 食事が安定し、体が軽くなり、気持ちまで前向きに――まるで冬の氷が溶けていくような心地だ。

 子供たちの笑顔を見ていると、その変化がなおさら嬉しくなる。


「トールさん、疲れてないですか? もう二晩も寝ていらっしゃらないのに……」


「大丈夫。昔は一週間近く、ほとんど寝ずに働いたこともあるから」


「えっ!?」


 トールの苦笑交じりの答えに、ナターリヤは思わず目を見張った。


 確かに、日に焼けた浅黒い肌に無精髭こそ目立つが――その顔には、疲労の影一つ見えなかった。

改めて見る精悍な顔立ちに、ナターリヤは何故か胸の奥がざわつくが、それを気にしていられる程の時間はなかった。


 相変わらず、木々の間からはざわめきと物音が絶えない。

 鳥の羽ばたき、獣の足音、遠くで響く鳴き声。


 トールは油断せずに荷車の綱を握り、一定の歩調を保って進んでいた。


(……中には正体のつかない鳴き声も混じっている。探索の時も感じたが、この森は危険が多い分だけ、自然の恵みにも満ちている。だが――決して油断はできない)


 そう自らに言い聞かせ、気を引き締め直す。


 それでも、背後から聞こえてくる子供たちの笑い声――とりわけ、サビーネの甲高いはしゃぎ声には、不思議と疲れが癒やされるような感覚を覚える。


 森の中を吹き抜ける風が笑い声を運び、空気が少しだけ柔らかくなる。


 トールはふと、訓練校へ入る前のことを思い出した。

 施設で暮らしていた頃、幼い子供たちの世話を任されていた日々。


 笑顔が苦手だったせいで、よく泣かせてしまったこともある。

 それでも、皆の笑い声を聞くのは好きだった。

 今、耳に届くこの明るい声と重なるように――遠い記憶が胸の奥で静かに揺れる。

トールはふと立ち止まり、木もれ陽の隙間から青空を見上げる。

世界は違う筈なのに、空の青さは変わらない。

ふと感傷的になり、柄でもないと胸の中で苦笑する。


(任務地がどこであっても、空は同じだった……)


何度も生死の境を歩いてきたが、こうして子供たちの笑い声に囲まれるのは、きっと初めてだ。

それが妙にこそばゆくて、悪くないと思えた。



 まるで小さなピクニックの一行のように、荷車を押しながら影路地へと足を踏み入れる。


 笑い声。明るい呼びかけ。

 その音が、重く湿った路地の空気を切り裂くように響いた。


 通りすがりの住人たちは足を止め、まるで異物でも見るような目で彼らを見つめる。

 煤けた壁、淀んだ水たまり、俯いて歩く影。

 この街で――明るい子供の笑い声を耳にすることなど、誰も想像したことがなかった。


 その驚きが、疲れ切って濁った目をした人々の顔に、ほんの一瞬だけわずかな光を宿らせた。


 「トール! お願いがあるんだけど……」


 ギルが荷車を引くトールの横に駆け寄ってきた。

 その表情はいつもの無邪気さではなく、どこか真剣な色を帯びている。


「ん? どうしたんだ」


 トールが視線を向けると、ギルは拳を握りしめたまま口を開いた。


「俺……俺にも、何か使えそうな武器を買ってほしい」


 思い詰めた声。

 冗談でも、憧れでもない。そこには、確かな決意があった。


「……なぜだ?」


 問い返すトールの声は低く、しかしどこか優しい。


「なぜって……俺だって男だ! トールにはまだまだ敵わないけど、俺だって守らなきゃいけないんだ。トールと一緒に……みんなを」


 その言葉には、少年らしい青さと、それ以上の覚悟が滲んでいた。


 まだ小さな身体。だが、その瞳はもう子供のそれではなかった。

 トールは立ち止まり、静かにギルと向き合う。


(……いい目をしてる)


 言葉にせず、心の中でそう呟く。


 「ギル、ヨームの店に着いたら考えよう。

 だが、まだお前がそこまで思い詰める必要はないんだ。

 戦う術もいつかは教えてやる。……でもまずは、生き抜く力を鍛えよう。

 まだ自分も守れない人間が、他人を守れるか? 武器を持つにはそこからだ」


 「……うん、わかった!」


 ギルは力強く頷くと、小さく拳を握りしめた。

 その仕草にトールはふっと微笑む。


 「まずは山を一緒に歩くところからだな」


 そう言って軽く拳を突き出すと、ギルもそれを真似て拳を合わせた。

 荷車の軋む音と共に、二人の足取りは同じ方向へと揃っていく。


 小さな背中を見ながら、トールの胸の奥に確かな温かさが芽生えていた。


やがて、影路地のさらに奥、昼でも薄暗い路地裏の一角に、ヨームの小さな店の看板が見えてきた。

木の扉は古びているのに、ガラス越しに見える棚には磨き上げられた武具がずらりと並んでいる。

この街の雰囲気にはまるで似つかわしくない、異様なほど整った陳列だった。


「ここね……相変わらず場違いな店構えだこと」

ナターリヤは眉をひそめ、店先に掲げられた値札を見てすぐさま噛みついた。


「まだ言ったことがわかってないですね……いいですか? 立地も悪い、値段も高い、おまけに店主が分からず屋だと――買い手がつくはずがないでしょう!」


「ちょっ、ちょっと待ってくださいナターリヤさん!」

店の中から慌てて出てきたヨームが、苦笑いしながら両手を上げる。

「僕はトールさんと話すんですから、怒るのは後にして!」


そう言ってナターリヤの言葉をやんわりと受け流し、ヨームはトールへと顔を向けた。

その表情は、久々の再会を喜ぶように晴れやかだった。


「お疲れ様でした! トールさんの意見も取り入れて仕上げました。

 自分でも、いい仕事ができたと思います。――さあ、中で見てください!」


トールは頷き、荷車を壁際に止めるとギルとアダラを連れて店内へ入った。

サビーネは仔狼の首に結ばれた紐を握りしめ、「アダラ、いくよ!」と小さく声をかけながら後ろをついていく。


一方その頃、ナターリヤは店先の値札を見ては「あれは高い」「これも贅沢すぎる」とぶつぶつ言い続け、タチアナを巻き込んで盛大に商品チェックをしていた。


ヨームの店の中は外観とは裏腹に整然としていて、磨かれた鉄の匂いが微かに漂っている。

棚の奥には、一本の弓が布で覆われた状態で立て掛けられていた。


――いよいよ、その成果を確かめる時が来た。







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