第20話 ささやかな憩い
解体を終えた熊の骨を煮出し、大鍋から漂う香りに洞穴は満たされていた。
赤身の肉は干し肉に回し、脂は漉して壺へ。残った骨からは濃い出汁が取れる。
トールは木椀に少しスープを掬い、子供たちの前に置かれた仔狼――アダラの方へ視線を向けた。
紐に繋がれた小さな体は、匂いに誘われて鼻をひくひくさせている。
「……少しだけだ。慣らさないと腹を壊す」
そう言いながら、骨の先を削いで柔らかくしたものを差し出す。
アダラは恐る恐る舌を伸ばし、次の瞬間には夢中で齧りついていた。
「わぁ……食べてる!」
「骨、しゃぶってる!」
ギルもタチアナも目を輝かせ、サビーネは「アダラちゃん、えらい!」と手を叩く。
仔狼は小さな喉を鳴らしながら骨にかぶりつき、やがて満足したようにぺろぺろと舌で器を舐めた。
トールはその様子を見て、ひとつ深く息を吐く。
「……これで少しは腹も落ち着くだろう。あとは俺たちと同じだ。食わせて、育てて、共に生きる」
洞穴に広がる炎の明かりが、アダラの濡れた瞳に反射して瞬いた。
その小さな命が、この一行の“家族”に加わったことを、誰もが改めて感じていた。
トールは熊の解体を終えると、残された資源をどう活かすか頭の中で仕分け始めた。
肉や胆嚢は町に出る際にアントノフに売れば確実に金になる。
毛皮は厚く、このままでも敷布や防寒に役立つが、ヨームなら鞣しまで任せられるかもしれない。
子供たちが遊び半分に欲しがった骨や爪は、飾りや道具に作り替える余地がある。
想定外の大物を得たからこそ、算段は慎重でなければならない。
(弓を受け取る時に一緒に処理を頼もう。……その前に洞穴も補強が必要だな)
影路地へ向かう準備も進めねばならない。
今のままでは扉もなく、外敵を遮るものもない。荷物も毎度持ち歩ける量ではない。
――扉、柵、罠。
最低限それだけは整えてからでなければ、拠点としての役目を果たせない。
トールは熊の残骸処理を終えると、胸の中で素早く優先順位を組み立てた。今日一日でできる最低限――「影路地から戻ってきたときに全滅していない」ための防護を優先する。時間は限られている。手早く、確実に動くしかない。
まず彼は斧を振るって周囲の細めの木を伐り倒し、子供たちに割り当てを告げた。ギルは力仕事を任され、倒木や太い枝を運んでくる。
タチアナはナターリヤと一緒にパラコードや縄で縛る係。サビーネはナターリヤのそばで小さな紐を結ぶ真似をしたり、アダラに抱きついてはじゃれて嬉しそうに騒ぐ。
作業は速い。トールが現場を監督し、要所で手を貸すだけで、単調な流れはたちまち形になっていった。
入口前にはまず簡易バリケードが組まれる。X字に交差させた太枝を地面に深く突き刺し、抜け道を作らせない。正面突破を遅らせるだけで、短時間での侵入は難しくなる。次に、細木を束ねて扉代わりの幕を編み、持ってきたタープを被せる。外から中が見えないだけで、子供たちの寝顔はずっと守られるはずだ。
トラップ類も手早く仕掛ける。入り口周囲の地面に逆茂木で尖った枝を斜めに突き刺し、踏み込めば足を取りやすくする。さらに、洞穴の前後に釣り糸を目線程度に張り、数カ所に小さな鈴を結び付ける。誰かが触れれば必ず音が立つ。夜間の「気付かせる」ための即席アラームだ。
竈で火を使うことを考え、トールは煙抜きにも手を入れる。入口上部の柔らかい岩を小さく穿ち、煙がこもらぬよう抜け道を作る。これで内部に長時間火を焚いても酸欠になりにくい。荷物は可能な限り吊るして湿気とネズミから守るため、洞穴の奥や上部の張り出しにロープで吊り棚を作った。食糧袋はナターリヤの手で密封し、少し高い位置へ懸けられる。
最後に、外見の痕跡を薄めるため入口周りに枝葉を被せてカモフラージュを施す。焚き火跡は土で埋め、離れて見ればただの岩陰にしか見えないよう細工する。こうして夕暮れまでにできることを詰め込んだ。
ふと立ち止まり、トールは仲間の顔を見回す。泥だらけの手、擦り切れた指先、しかし目には疲労より安堵が宿っていた。完璧ではない。長持ちする要塞でもない。だが、今日の仕事で「一晩でも安心して眠らせられる」程度の防護は整ったはずだ。
トールは短く頷き、子供たちに声をかけた。
「これでひとまず、ここを留守にしても壊滅はしない状態にできた。明日は影路地へ下りて足りない道具の手配だ。まずはよく休め、疲れを取ろう」
焚き火の光が皆の輪郭を淡く照らし、洞穴は小さな防衛拠点として息を吹き返した。
たった二日。
それだけで、最低限とはいえ住処の体裁をここまで整えてしまったトールに、ナターリヤは驚きを隠せなかった。
(トール……ありがとうございます)
死を待つしかないと諦めていた自分たちが、こうして火を囲み、笑いながら食卓を囲めるなんて――。
仕上がった竈で焼かれた、初めてのパン。香ばしい匂いが洞穴いっぱいに広がり、口に含むとほんのりとした甘みと温かさが舌に広がった。
噛み締めた瞬間、余りの充実感に胸が熱くなり、涙が浮かぶ。
その傍らで、子供たちは今夜アダラを抱いて寝るのは誰かと大騒ぎしている。
「サビーネ、お姉ちゃんに夜は渡す約束よ!」
「や〜!アダラちゃんはわたしが好きなんだから!」
「アダラがしゃべるかよ…ほらサビーネ、タチアナに…」
「ギルきらい!アダラちゃんは…うわ〜ん!」
銀の毛玉のような仔狼が慰めるようにサビーネの頬を舐めてキューンと鳴く。
ほんの一週間前には考えられなかった光景だ。
――これは奇跡だ。
神が与えてくれた試練と救い。
そして、その不思議な強さと、決して弱さを見せない男トール。
焚き火の炎に照らされた横顔は、やはり疲れを見せなかった。
ナターリヤの心は、静かに、しかし確実に揺れていた。
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