第13話 祈りと邂逅
ナターリヤ視点です。
焚き火の明かりに照らされた地下室。
トールが山へ向かったあと、残された静寂の中で、ナターリヤは目を閉じた。
(……気づけば、私の人生はずっと収容所の中だった)
物心ついたころには、すでにそこにいた。
親の顔も、名を呼ばれた記憶もない。
あるのは、薄暗い部屋と、祈りを捧げる神父の背中。
孤児を集め、衣食を分け与え、信仰の教えを諭す収容所。
そこで生きてきた彼女にとって、祈りは呼吸のようなものだった。
(神に仕えれば、いつか救いがある。そう信じるのが自然だった……)
年齢など正確にはわからない。
けれど十指で数えきれぬ季節を重ね、今は十七か十八にはなっているはずだ。
普通なら十五で外に出て独り立ちする。
だが彼女は賄いの手伝いをし、子供の世話を続けるうちに、修道女見習いとしてそのまま収容所に居着いた。
出て行く理由もなく、居場所も他にない。
そこが彼女にとって世界のすべてだった。
この世界は――生きていくのに、優しくない。
そう、何度思っただろう。
強き者だけが食べ、笑い、歩くことを許される。
弱者はいつも怯え、ぎりぎりの生活を余儀なくされる。
自分たちの収容所も例外ではなかった。
敬虔に祈り、孤児を育て続けてくれた神父様が亡くなると、すべてはあっけなく崩れ去った。
とたんに援助は途絶え、手を差し伸べてくれる人も去っていった。
なすすべもなく、それを見ているしかなかった。
自分の手では何ひとつ変えられない無力さに、幾度となく唇を噛みしめた。
それでも、祈った。
夜ごと焚き火のそばで手を組み、神にすがった。
「どうか明日を生き抜く糧を」「どうか子供たちを救ってください」と。
だが、返事はなかった。
目を開けば、そこにあるのは飢えと病、荒んだ影路地の現実ばかり。
いくら祈っても、子供たちの痩せた頬は膨らまず、倒れた仲間は立ち上がらない。
祈りは虚しく空へ消え、神は沈黙したまま。
信仰は残っていた。けれど、その先にあるはずの「救い」だけが、どうしても見えなかった。
――そんな時に、彼が現れた。
見たこともない服をまとい、影路地の暗がりに立つ姿は、最初は恐ろしいほど異質だった。
鋭い目は、こちらを値踏みするように警戒していた。
少しでも敵と見なされれば、容赦なく切り捨てられる――そんな冷たい光が宿っていた。
けれど、私たちが無力な孤児と弱い女でしかないと悟ったその時。
その目は、不意に変わった。
鋼の刃のように硬い眼差しが、静かに優しさを帯びた。
まるで、長い間見失っていた“救い”を、ようやく見つけたかのように。
あの瞬間、胸の奥でひとつだけ確かに言えたことがある。
(――神は沈黙していなかった。トールを遣わしたのだ)
そう思わずにはいられなかった。
あの日から、ほんのわずかな時間しか経っていない。
けれど――私たちの暮らしは、確かに変わった。
飢えで顔色を失っていた子供たちが、パンを頬張って笑った。
焚き火の明かりの中で、サビーネは無邪気にしがみつき、タチアナは赤くなりながらも彼に言葉をかけようとした。
ギルでさえ、久しぶりに子供らしい笑みを浮かべた。
その光景は、収容所で見ていた夢の続きのようだった。
神父様がまだ生きていた頃の――「生きることに喜びを持てた」あの日々のように。
トールは命令するのではなく、ただ導いてくれた。
厳しさの奥に、揺らぐことのない温かさを秘めて。
背中を見ているだけで、「ついて行っても大丈夫だ」と思える。
(……あなたは、どうしてそんなふうに強いの……?)
気がつけば、心は静かに彼の名を呼んでいた。
焚き火の赤が揺れ、子供たちの寝息が規則正しく響いている。
静かな夜の中で、ナターリヤはひとり両手を組み、胸の前で目を閉じた。
「……神よ」
いつもの祈りの言葉。
けれど今、心から願うのはただ一つだった。
(どうか……トールを無事に帰してください)
彼がいなければ、もうこの小さな笑顔たちは守れない。
それだけではない。
彼がいなければ――自分の心も、また暗闇に沈んでしまう。
そう思った瞬間、胸の奥に熱が広がる。
祈りの言葉に紛れるように、かすかな思いが零れ落ちた。
(……帰ってきて。あなたの背中を、もっと見ていたい)
それが信仰なのか、それとも別の感情なのか。
ナターリヤ自身にもわからなかった。
ただひとつ確かなのは、彼の帰還を願う心が、祈りよりも強く胸を満たしていたことだった。
読んで頂きありがとうございます。
励みになりますので評価やご感想、ブックマークをよろしくお願いいたします。




