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この美しいものを守りたいだけ  作者: 氷室玲司


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第12話 山の影

 小麦粉をこね、窯の残り火で焼き上げた素朴なパン。

 熱と香ばしい匂いが地下室いっぱいに広がると、子供たちは目を輝かせて群がった。


「わぁ……!」

 サビーネは両手で抱えるようにパンを頬張り、口いっぱいにほおばっては無邪気に笑う。


 ギルは噛みちぎるたびに声を漏らした。

「うまっ……うまい! なんだこれ!」


 タチアナは目を潤ませて、指先でちぎった小さな一口を胸に抱くように口へ運んだ。

「……あったかい……」


 ナターリヤも、長い間張りつめていた心がほどけたように、小さく微笑む。

「こんなに喜ぶなんて……ただのパンなのに……」


 久しぶりに訪れたまともな食卓。

 焚き火の赤に照らされて笑う彼女たちは、ほんのひとときだけ飢えも不安も忘れていた。


 だが、その中でトールだけは浮かない顔をしていた。

 パンをちぎりながら、彼の思考は冷めた鋼のように静かに巡っていた。


(……確かに食える。だが――)


 山に住もうと言い出したのは自分だ。

 しかし、あの時に狩りをした程度で山中の地形も獣の分布も把握してはいない。

 さらに、あの山が誰の領地かすら知らない。もし領主や商工連合の管理下なら、教会を追われたのと同じことが繰り返されるだけだ。


(俺が知っているのは軍人としての「生き延びる術」だ。この地の掟や法は何一つ知らない。……無知は致命的だ)


 唇を引き結ぶ彼の横で、ナターリヤが小声で言った。

「パンが焼けるだけで……みんな、こんなに笑えるんですね。……トールのおかげです」


 彼女の目は真っ直ぐで、どこか照れくさそうに光っていた。


 トールは短く視線を返しただけで、答えはせずに立ち上がり、石壁の小さな窓から夜の闇を見やった。


「……俺は、知らなきゃならないことがまだ多い」


 低く呟いた声に、ナターリヤは首を傾げたが、問い返すことはなかった。


 焚き火の炎がはぜ、子供たちの笑い声が地下室に反響する。

 だがトールの瞳には、すでに明日の山の影が映っていた。



 翌日。

 トールは再び商工連合の詰所を訪れた。


 扉を押し開けて姿を現した瞬間、奥にいたジェロームの眉がぴくりと跳ねる。


「……おいおい。もう来ねぇと思ってたぜ」


 驚きと呆れの混じった声音。だが、トールが真剣な顔で座るのを見ると、ジェロームの視線はすぐに細まった。


「……今度はなんの用だ?」


 トールは飾らず言った。

「山で暮らすことを考えている。……だが、その土地が誰のものかすら知らない。このままじゃ、また追われるだけだ」


 ジェロームは口の端を吊り上げ、低く笑う。

「……なるほどな。アンタらしい筋の通し方だ。だが……」


 グラスを揺らしながら、彼は釘を刺した。

「この街は人間が決めた掟で成り立ってる。生き延びる力があっても、領主や商工連合を敵に回しゃ、一発で詰みだ」


 その声音には警告の色が濃かった。


 トールは静かに頷いた。

「だから聞きに来た。お前にはわからないかもしれんが、商工連合の誰かなら知っているだろう」


 ジェロームはしばし黙り、やがて大きく息を吐いた。

「……あいにく俺は用心棒みたいなもんでな。地図や領地の管理なんざ興味もねぇ」


 そう言うと、彼は肩をすくめ、皮肉っぽく笑った。

「だが一人、紹介してやる。支部長のアントノフだ。あいつなら“紙の上の話”にゃ詳しい」


 しばらくして現れたのは、髪をきっちりと後ろへ撫でつけた中年の男だった。

 オールバックに眼鏡。細い指先で書類を束ねる仕草もどこか神経質で、目の奥には計算と猜疑心が滲んでいた。


「……君が、ジェロームの言っていた“異邦人”か」

 アントノフの声は低く、抑揚を欠いていた。


 トールはわずかに頷いた。

「片桐徹。……トールと呼んでくれて構わない」


 アントノフはわずかに口角を上げた。

「山に興味があるそうだな。――さて、何を知りたい?」



 アントノフは細い指で机上の書類を整え、静かに言葉を継いだ。


「まず前提として――あの山々は辺境伯アルヴェナ公の領土だ。……もっとも、わざわざ誰も使わぬ山地にまで管理の目を光らせてはいない」


 眼鏡の奥の目が、冷たくも正確にトールを射抜く。


「仮に、君が言うように小屋を建て、畑を耕し始めたとしても……村の規模にでもならぬ限り、役人がわざわざ出向いて取り締まることはないだろう。せいぜい黙認だ」


 トールは無言で頷いた。


「だが――」

 アントノフは声を低め、書類を指で叩いた。

「狩人どもですら、あの山に“定住”した例は聞いたことがない」


「……理由は?」


「単純な話だよ」

 唇の端をわずかに歪める。

「魔獣だ。森に巣食う異形の存在。ゴブリンやオークの群れ、あるいはそれ以上の怪物。……そんなものが跋扈する山に腰を据えて暮らそうなどと考える者はいない」


 言葉は冷淡で、断言だった。


「君のように“山に住む”などと考えるのは、正直、正気の沙汰ではない…現実に犠牲者は数え切れない」


 ジェロームが横から低く笑った。

「だろうな。だから驚いたんだよ、コイツの話を聞いてな」


 アントノフは改めてトールを見やり、指先で顎を撫でた。

「……だが、君は本気らしいな」


 アントノフは一度言葉を切り、眼鏡の奥からじっとトールを見据えた。


「……それにしても」


「?」


「君は“異邦人”だと聞いていたが……一体どこから来たのだ?」


 指先で書類を揃えながらも、その声音は冷ややかだった。


「言葉は通じる。だからてっきり、この世界のどこか辺境の地から流れてきたのかと思っていた。だが――」


 彼は机を軽く叩き、眉をひそめる。


「仮にもジェロームが認めるほどの戦士が、“魔獣”の存在すら知らないとはな。……そんなことがあり得るのか?」


 ジェロームが肩をすくめて口を挟む。

「俺も気になってたがな……まあ、どこの生まれだろうが構いやしねぇ。強けりゃそれでいい」


 だがアントノフは納得していない様子で、さらに問いを重ねる。


「君はいったい何者だ? なぜこの地に来た? ……そして、何を目指している?」


 冷たい声が部屋に落ちた。


 トールはしばし黙し、視線を逸らさずに返す。


「……ただ、生き延びるために必要なことをしているだけだ」


 淡々とした答えに、アントノフは口の端を吊り上げる。

「……ふむ。そういうことにしておこうか」


 アントノフはしばし黙考し、椅子の背に深く身を預けた。


「……まあ、常識的には無謀だ。魔獣や異形の群れがいる山に定住しようなど、正気の沙汰ではない」


 冷ややかな声音のまま、しかし口の端に皮肉げな笑みを浮かべる。


「だが――もし生き残れるなら、それは決して悪い選択肢ではない」


 トールがわずかに眉を動かすと、アントノフは指先で机を叩いた。


「この街で最大の不足は食料、とりわけ“肉”だ。危険を冒してまで狩りに入る猟師はほとんどおらず、いたとしても細々とした獲物しか持ち帰れない。需要は常に供給を上回っている」


 ジェロームが横からにやりと笑い、茶化すように言った。

「ハッ。こいつが教会で鹿肉を焼いてた時なんざ、俺だって涎が出そうだったぜ」


 アントノフも薄く笑みを深めた。

「そういうことだ。安全を確保できるのなら、山に住もうが狩りを続けようが、君の勝手にすればいい。少なくとも――商工連合としては関知することはないだろう」


 その結論は、冷徹さと打算をにじませた現実的なものだった。


 アントノフは指先で書類を弾き、ゆっくりと立ち上がった。


「……君の狩りの腕が確かなら、商工連合にとっても損のない話だ」


 机の引き出しから小さな帳面を取り出し、さらさらと何かを書き込む。


「ただし条件がある。獲物を仕留めたら、格安でこちらに卸してもらおう。影路地の連中に回す肉が少しでも増えれば、私の顔も立つ。君にとっても“繋がり”は無駄にならないはずだ」


 ジェロームが鼻で笑う。

「……珍しいな、アントノフがこんな甘い条件を出すなんざ」


 アントノフはちらりと視線を投げ、静かに言葉を継ぐ。

「利用価値のある男を、無理に敵に回す必要はない。……君は、それだけの力を持っている」


 冷静に計算した言葉。だが、その奥には微かな期待すらにじんでいた。


「君が生き延び、狩りを続けられるのなら……商工連合としては大いに歓迎しよう」


 トールはしばし黙し、やがて短く頷いた。

「……了解した」



 トールが去ったあと、静けさが部屋に戻る。

 アントノフはしばらく机上の書類を眺めていたが、やがて眼鏡を押し上げて低く呟いた。


「……ジェローム。本当に彼の素性は知らないのか?」


 ジェロームは背凭れに体を預け、煙管を指で弄びながら答える。

「ああ。俺が知ってるのは“異邦人”ってことだけだ。ただ――」


 唇の端を歪め、にやりと笑った。

「ヤツは本物だ。戦い方を見りゃわかる。嘘をつく男じゃねぇ。……それだけで、俺には信用するに足る」


 アントノフは小さく息を吐き、眉間に皺を寄せる。

「まったく……お前は気楽でいい。私だって彼を“おかしな男”だとは思わない。だが――」


 机を軽く叩きながら、冷ややかに言葉を継いだ。

「一体何者なのか。その答えを、いずれ知る必要はあるだろう」


 ジェロームは肩をすくめて鼻で笑った。

「まあな。だが今は――あいつがどこから来ようが構わねぇだろ。山で生き残れるかどうか、それが全てさ」


 そう言って、煙を吐き出す。

 アントノフは無言で彼を見やり、再び視線を机へ落とした。



 商工連合を後にしたトールは、その足で街を抜け出し、山の裾野へと向かった。


 冷たい風が頬を撫でる。広がるのは鬱蒼とした森と荒れ地。

 だが彼の目は景色に惑わされず、冷静に一点を探していた。


(……まずは拠点になり得る場所を見つける。水がなければ全てが無意味だ)


 闇雲に踏み込むつもりはなかった。

 軍隊で叩き込まれた基本はいつも同じだ――生存の優先順位は「水」「食料」「住処」。


 広大な裾野をひたすら歩き回っても時間を浪費するだけ。

 ならば最優先で探すのは水源――川か、泉か、湧き水だ。


 草をかき分けながら耳を澄ませる。

 風の音に混じるかすかな水音、湿った土の匂い、苔むした岩の連なり。

 小さな兆候を拾い上げ、慎重に足を進めていく。


 山道を黙々と歩きながら、トールは耳を澄ませていた。

 雑木林を抜け、風の音に混じって――かすかなせせらぎが聞こえる。


(……水だ)


 影路地を出てからおよそ二時間。

 距離を測る感覚は、長年の行軍で体に染みついている。

 城塞都市の外縁から考えれば、ここは十分に離れているが、戻るのに一日を要するほどの遠さでもない。


(悪くない位置だ)


 トールは道を外れ、音の方へと足を向けた。

 やがて、鬱蒼と茂る木々の間に光が差し込み、勢いよく流れる小川が姿を現す。


 岩を削り、白く泡立ちながら走る水。

 おそらく城塞都市へと流れ込む大河の源流のひとつだろう。

 水量は豊富で、飲用にも利用にも十分すぎるほどだ。


 トールは膝をつき、手ですくい上げた水を口に含む。

 冷たく澄んだ味が喉を満たし、体の芯にまで染みわたる。


(……これなら使える。拠点候補としては上出来だ)


 彼はしばらく川面を眺め、流れの速さや周囲の地形を頭に叩き込んだ。




読んで頂きありがとうございます。

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