第11話 旅立ちの準備
血と歓声の余韻がまだ背後に残る帰り道。
薄暗い路地を並んで歩きながら、ジェロームがふっと煙を吐き出すように言った。
「……なんかよ、再戦って雰囲気じゃなくなっちまったな」
ボヤきに近い声音だった。
トールは一瞬だけ歩みを止め、短く答える。
「……すまない」
ジェロームは鼻で笑い、肩をすくめた。
「謝るこっちゃねえさ。むしろ……アンタみたいな格好いい生き方、嫌いじゃねぇしな」
いつもの薄笑いに戻ったようでいて、声の奥にだけは妙な熱が滲んでいた。
並んで歩きながら吐いたジェロームの言葉が途切れたころ、路地を渡る風が生臭い匂いを運んできた。
割れた瓶の散乱する足元、壁際で身を丸める老人、路地裏で咳き込む女。
賭け試合の熱狂が嘘のように、街は再び荒れ果てた静けさを取り戻していた。
トールは黙ってその光景を見渡し、低く呟いた。
「……やはり、長くいる場所じゃないな」
石畳に染みついた汚泥と、虚ろな目で彷徨う影。
影路地という街そのものが、命を少しずつ削り取っていくようだった。
ジェロームは苦笑のような息を漏らし、横目で彼を見た。
「だがな、そこでしか生きられねぇ連中もいるんだよ。……人はアンタみてぇに強いばかりじゃねぇからな」
言葉は淡々としていたが、わずかに滲むのは諦めと現実の重みだった。
トールは短く答える。
「ああ……」
全てを救うことはできない。
手に余るものまで背負えば、結局は誰も守れなくなる。
だからこそ――ナターリヤ、ギル、タチアナ、サビーネ。
この四人だけは、何があっても生かしてみせる。
それ以外は……まだ。
ジェロームは足を止め、振り返りざまにぼそりと呟いた。
「じゃあな……で、影路地を出る算段、付きそうか。これで」
トールは手の中の銀貨を確かめ、短く頷いた。
「ああ。世話になった。……借りはいずれ返させてもらう」
ジェロームは鼻で笑い、髭面を歪める。
「トール、落ち着いたら……ま、酒でも奢れよ」
その言葉に、わずかに人懐こい笑みが浮かんだ。
初めて見せる、人の良さそうな顔だった。
そうしてジェロームは背を向け、影路地の雑踏に紛れていった。
影路地の雑踏を抜け、廃教会に戻った頃には夜が更けていた。
焚き火の明かりが地下室を照らし、子供たちが眠そうな目で顔を上げる。
トールは腰の袋から銀貨を取り出し、無造作にナターリヤへ差し出した。
「……預かってくれ。金の管理は任せる」
ナターリヤは一瞬驚いたように目を見開いたが、やがて両手でそっと受け取る。
掌の上で銀貨が冷たく光り、その重みに彼女は小さく息を呑んだ。
「……こんなに……どうやって」
「心配はいらん。ただこれで色々準備がしたい」
トールの声は低く、しかし揺らぎがなかった。
ナターリヤは視線を銀貨から彼の顔へ移し、しばし迷ったように言葉を探す。
だが結局、何も聞かずにただ頷いた。
「……わかりました。大事にします」
ナターリヤは彼の大きな背中に感謝の気持ちをこめて一礼した。
焚き火の明かりが小さく揺れる地下室。サビーネはすでにトールにしがみついたまま眠っていた。
それを横目で見ながら、タチアナがぽつりと漏らす。
「……いいなぁ、サビーネは。わたしも……もっと素直にできたら」
ナターリヤが首を傾げる。
「素直に?」
タチアナはもじもじと視線を落とした。
「だって……サビーネみたいに、トールに飛びついたり……わたし、いつも陰に隠れてばかりで……」
ナターリヤはふっと微笑んで、妹分の肩を軽く抱いた。
「タチアナ、トールは拒む人じゃないわ。大丈夫」
「……ほんとに?」
「ええ。私たちみんなが甘えても、きっと笑って受け止めてくれる」
タチアナは小さく「……そうかな」と呟き、頬を赤くしてうつむいた。
その声を耳にしながら、ナターリヤはサビーネを撫でるトールの姿を見つめ、胸の奥にじんわりと温かさを覚えていた。
翌朝。露天市へ出る前、トールは子供たちとナターリヤを前に腰を下ろした。
「……良ければだが」
少し言い淀み、それから真っ直ぐに言った。
「山で暮らさないか?」
思いがけない提案に、四人の目が丸くなる。
「や、山で……?」
ナターリヤが小さく声を上げた。
ギルは眉をひそめる。
「街の外ってことか?」
トールは頷き、たどたどしく説明を始めた。
「影路地は治安も悪い、衛生も最悪だ。収入源もない。だが山なら獲物も水もある。俺が狩れば食材は確保できる。……今よりは確実にマシになる」
タチアナが怯えた声を出す。
「……でも、山なんて……もっと怖い……」
サビーネは反対に無邪気に笑い、トールの腕にしがみつく。
「トールと一緒なら、こわくない!」
ギルは唸る。
「……本当にやっていけるのか……?」
ナターリヤはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……でも、教会を離れるなんて……。私は神に仕える身でした。神父様が築いた場所を見捨てるようで……」
彼女の声には迷いが混じっていた。
だが、トールははっきりと言った。
「ナターリヤ。神に祈ってどうにかなる状況じゃない。神に祈る前に――まず自分たちが生き延びる術を探さなきゃならないんだ」
その言葉に、ナターリヤは息を呑んだ。
強引ではない。だが、現実を突きつける真っ直ぐな声。
視線を落としたまま、彼女は小さく頷いた。
「……わかりました。私も……考えてみます」
ナターリヤが黙り込み、子供たちもそれぞれ不安と期待を抱えながら視線を落とす。
焚き火の赤が小さく揺れる中、トールは内心で冷静に計算をしていた。
(この街で彼女らを守るより、山の方が人がいない分安全だ。それに、最初は大変だが……小屋を作り、開墾をし、段階を経てちゃんとした暮らしを作り出す術を、俺は知っている)
(もう俺は――かつての非力な子供ではないのだから……)
その決意は声には出さなかった。
だが背を伸ばして立ち上がる彼の姿が、すでにその答えを示していた。
影路地の露天市。
喧噪の中を歩きながら、トールは必要な物を頭の中で並べ立てる。
(まずは服だ。この軍服のままじゃ目立ちすぎる。次に塩や調味料、小麦粉。余裕があれば荷車……最低限はそれでいい)
「……優先は俺の服だ。街に入るには身なりを整える必要がある。そのあと塩、調味料、小麦粉……残れば荷車だ」
そう告げると、ナターリヤは小さく頷き、腰に下げた小袋を押さえた。
銀貨の重みがそこにある。
「じゃあ……私が交渉しますね」
トールは無言で頷く。
軍人として命を預ける時のように、財布を託すのもまた信頼の一つだった。
ギルが目を輝かせてナターリヤを見た。
「ナターリヤ姉ちゃんって、なんか……頼もしいな」
タチアナは羨ましそうに呟く。
「……私じゃ絶対できない……」
ナターリヤは苦笑しながらも、きゅっと小袋を握り直した。
「……大丈夫。やるしかないもの」
露天の一角、色あせた布や古着が山のように積まれていた。
トールは無言で上着を手に取り、生地を確かめる。
「……これでいいだろう」
ところが、横からタチアナがすっと顔を出した。
「だ、ダメです! それ、色が褪せすぎてます……いかにも“怪しい人”に見えます」
トールは目を瞬かせる。
「怪しい人……?」
「ほ、ほら……影路地でも浮きますし……門をくぐるなら、もっと……落ち着いた色で、清潔そうに見えた方が……」
タチアナは早口でまくし立て、真っ赤になって口をつぐんだ。
ギルが笑い出す。
「へぇ、タチアナ、そういうとこだけはしっかり言うんだな」
サビーネは無邪気に古着を広げて遊んでいる。
「トール、こっちの方がかっこいいよ!」
ナターリヤは小さく笑みを浮かべて、トールに視線を向ける。
「……タチアナの言う通りです。せめて“人並み”に見えるものを選びましょう」
トールは苦笑しながら別の服を手に取った。
(……服一つで、こんなに騒ぐとはな。だが、彼女らの意見は大事にすべきだろう)
積み上げられた古着を前に、ナターリヤが真剣な顔で品定めしていた。
「……上着はこれでいいとして、ズボンと靴も必要です。今のままでは、どう見ても“よそ者”ですから」
トールは肩を竦めた。
「別に目立っても構わんだろう」
「いいえ、構います!」
ナターリヤはきっぱり言った。
「門番に不審がられれば、それだけで足止めです。服装は“身分証”みたいなものですから」
ギルがニヤつきながら口を挟む。
「ほらな、トール。軍人みたいに“中身が強けりゃいい”ってわけじゃねぇんだ」
タチアナも小さく頷く。
「……落ち着いた色なら……きっと似合います」
サビーネは靴を抱えて無邪気に笑った。
「トール、これ履いてみて!」
商人が値を告げる。
「上着とズボン、それに靴で……銅貨八十枚だ」
ナターリヤが眉をひそめる。
「……生地は粗末でほつれもある。それなら銅貨五十が妥当です」
「はっ、五十だと!? 嬢ちゃん、商売を知らねぇな」
口論を始めた二人の間で、トールが止めに入ろうとする。
「やめろ。時間を無駄にするな。払って――」
ナターリヤは振り返り、きっぱりと遮った。
「トール。銀貨は“大金”なんです。すぐに尽きてしまいますよ」
トールは口を閉ざし、短く息を吐いた。
(……俺にとってはただの物資交換だが……確かに、金は兵站だ。ここでは彼女に任せるしかないな)
最終的に銅貨六十枚で取引は成立した。
小袋を閉じながら、ナターリヤは小さく息を吐いた。
「……少しは節約できました」
トールは苦笑しながらも頷いた。
「助かる」
露天の一角。袋詰めの塩や、香辛料を小瓶に詰めた屋台が並んでいた。
ナターリヤは塩の袋を手に取ると、商人に声をかける。
「これ、いくらですか?」
「銅貨十枚だな」
ナターリヤは小さく唸る。
「……少し高いですね。銅貨七枚でどうでしょう」
「馬鹿言うな、八枚以下じゃ売れねぇ」
トールが横から口を挟む。
「いいだろう、払え」
だがナターリヤは首を横に振った。
「……駄目です。こういう買い物は積み重ねですから」
短いやり取りの末、銅貨八枚で塩を手に入れることに成功した。
その後、干したハーブや胡椒の小袋も銅貨数枚で揃えていく。
ギルが不思議そうに尋ねた。
「なぁ……銅貨十枚とか八枚って、どれくらいの価値なんだ?」
ナターリヤは塩袋を抱えながら答える。
「……これでひと月は料理に困らないくらい。塩は保存にも欠かせないから、銅貨十枚は決して安くないの」
ギルは目を丸くした。
「ひと月分が、たったこれだけで!?」
トールは横目でそのやり取りを聞きながら、冷静に思考する。
(……銅貨十枚で塩一袋。つまり銀貨一枚で十袋――保存食を大量に確保できる。なるほど、貨幣価値の目安が見えてきた)
さらに歩くと、露天の一角に小麦粉の袋が山と積まれていた。
白い粉が袋の隙間からこぼれ、風に舞っている。
ナターリヤが足を止めた。
「……ここで小麦を買いましょう。子供たちの食事には欠かせません」
商人が目ざとく声を張る。
「ほらほら安いぞ! 一袋銅貨十五! 大袋なら銀貨一枚!」
ナターリヤは眉をひそめる。
「銅貨十五……高いわね。去年は十枚でした」
「はっ、今年は凶作でな。欲しけりゃ払え」
ギルが首を傾げる。
「なぁ……一袋で、どれくらい食えるんだ?」
ナターリヤは真剣な目で答えた。
「子供四人で、だいたい三日分。大袋なら二十日分以上……」
トールは内心で冷静に換算を始める。
(……銀貨一枚=小麦粉大袋=二十日分の食料。つまり、銀貨十枚あれば二百日分を確保できる計算になる……この街での“命の単価”がようやく見えたな)
ナターリヤは唇を噛んだ。
「銀貨一枚を使うのは、まだ早い……。今日は小袋にしておきます」
そう言って銅貨を数え、交渉を重ねて銅貨十二枚で一袋を手に入れた。
小袋を背負いながら、ナターリヤは小声でトールに言った。
「……わかりましたか? これが、この街の“生活の値段”です」
トールは短く頷いた。
「……ああ、理解した」
露天市の外れ、鉄くずや農具の並ぶ一角に、木製の小さな荷車が置かれていた。
粗末だが、車輪はしっかりしている。
トールは車輪を蹴ってみて、軋む音を確かめた。
(……多少の整備は必要だが、使える)
ナターリヤが首を傾げる。
「荷車ですか? ……でも、値が張りますよ」
「必要だ」
トールは断言した。
「獲物を運ぶにせよ、荷を背負って山道を歩くにせよ、子供たちに無理をさせるわけにはいかない」
サビーネがぱっと顔を輝かせた。
「トール! わたしも乗っていい?」
ギルが笑う。
「お前は歩けよ!」
タチアナは小さく笑いながら呟いた。
「……でも、あったら本当に助かると思う」
商人が口を挟む。
「銀貨一枚だ」
ナターリヤがすぐさま首を横に振る。
「高すぎます。せいぜい銀貨半分でしょう」
「はっ、冗談じゃねぇ!」
再び始まる値引き交渉。トールが止めようとしたが、ナターリヤは真剣な顔で食い下がった。
やがて、銀貨三分の二で取引成立。
ナターリヤは額の汗を拭い、胸を撫で下ろす。
「……これでしばらくは安心です」
トールは荷車の取っ手を握り、軽く持ち上げて感触を確かめる。
「……ああ。これで移動の選択肢が増えた」
サビーネは小躍りしながら荷車の中に飛び込み、笑顔で両手を広げた。
「見て見て! わたしのおうちー!」
ギルとタチアナも思わず笑い声をあげた。
荷車を押しながら教会へ戻る途中、路地の人々がちらちらと視線を向けてきた。
痩せこけた女が目を細める。
ぼろ布をまとった老人が口の端を吊り上げ、何事か呟く。
子供たちの笑い声が路地に響くたび、周囲の空気がわずかにざわついた。
ギルが荷車を押すのを手伝い、タチアナが笑顔で支え、サビーネは中に乗ってはしゃいでいる。
ナターリヤも思わず笑みを浮かべていた。
本来なら飢えと疲れで死にかけているはずの孤児たち。
だが、今の彼らはどこか生気に満ちていた。
それが影路地の住人には奇異に映る。
誰もが諦めて沈んでいるこの場所で、彼らだけが立ち上がろうとしている――。
トールは無言で周囲の視線を受け流しながら、内心で冷たく呟いた。
(……希望を持つことが、この街では異常に見えるのか)
だが彼は足を止めなかった。
守るべきものを抱え、ただ前へ進む。




