決断と契約
「随分と早かったが、結論が出たということでいいのかな」
「はい、仰る通りです」
呼び鈴を鳴らして程なく、執事の男性がやってきた。
『ソフィア様を呼んでほしい』と伝えたところ、執事は『畏まりました』と部屋を退室。
程なく彼女が部屋にやってきて、今は部屋に備え付けられた机を挟み、向かい合ってソファに腰掛けている状況だ。
僕は深呼吸すると、威儀を正して彼女の青い瞳を真っ直ぐに見据えた。
「私、アルバート・グランヴィスはソフィア・デュランベルク様と契約結婚いたします。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします」
そう告げて頭を深々と下げようとすると、「頭は下げないでくれ」と彼女に制止された。
「君の窮地を良いことに、無理な提案をしたのは私だ。お礼を言うのはこちらのほうだろう。君の決断に感謝する」
ソフィアが頭を下げようとしたので、今度は僕が慌てて制止した。
「いえいえ、とんでもないことです。僕のような落ちこぼれには、ソフィア様との結婚なんて身に余る光栄です。どうか気にされないでください」
「ありがとう、アルバート殿は優しいな」
彼女がふっと表情を崩したその時、僕の胸がどくんと鳴った。
武人のような雰囲気で最初はわからなかったけど、ソフィア様って笑った時の表情がすっごく綺麗だ。
思わず見蕩れていると、彼女は机の上に置いてあった紙とペンを手元に引き寄せ「さて……」と切り出した。
「早速だが契約結婚の内容を詰めておこう」
「は、はい」
ソフィアの表情が真顔に戻ると、僕の背筋もぴんとなった。
「契約結婚の期間は『デュランベルク公爵家の後目争いに決着がつくまで』としておこう」
「畏まりました」
彼女は会話内容を紙に簡単に書き記していく。字は丁寧かつとても綺麗で達筆だ。
「それから契約結婚終了の際、報酬として十億ルドを渡そう」
「わかりました。十億ルドですね……って十億ルド⁉」
とんでもない金額が提示され、僕は目を丸くして大声を発してしまった。
『ルド』とは、鉄と紙で製作された大陸でもっとも一般的な貨幣と紙幣による通貨だ。
ちなみに、カルドミア王国における平民の食費は一回あたり五百ルド~千ルド前後と言われている。
一般的な平民の年収三百万ルド。
ちょっと裕福な平民の年収六百万ルド。
国に仕える公務員の平民で年収一千万ルド。
商人となれば、規模の大きさ次第で貴族を超える年収を持つ場合もある。
王族や貴族となれば税収があるから、平民や商人とは基本的に比べものにならない。
何にしても、『十億ルド』という金額は多少の贅沢をしても一生遊んで暮らせるぐらいの金額だ。
「いや、すまない。公爵家との契約結婚の報酬が十億ルド程度では安すぎるな。倍の二十億……いや、三十億ルドでどうかな」
「え、えぇ⁉」
僕の反応が不満だと思ったらしく、ソフィアは首を捻った。
「わかった、いっそ百億ルドにしておこう。これだけあれば小さな領地で男爵家を興すこともできるからな」
「いやいや、違います。百億ルドなんて、私の分を超えます。最初の十億ルドで十分ですから」
百億ルドなんて大金を持っているのは、老舗かつ相当な豪商、由緒正しい歴史ある裕福な貴族ぐらいだろう。
そんな大金を僕個人に渡されても、使い道がなくて逆に困ってしまう。
必死に頭を振ると、彼女はきょとんとしてしまった。
「デュランベルク公爵家にとって、百億ルドなど大した金額ではないぞ」
「百億ルドが大した金額じゃない……⁉」
予想の斜め上をいく答えに、僕は愕然としてソファの背もたれに力なく体を沈めた。
さすが王族に次ぐ力を持つと言われる公爵家だ。
グランヴィス家も魔法の名家として名高いけれど、『百億ルドを大した金額ではない』とは口が裂けても言えない。
そんなことを口走った日には、『お前はとうとう気も狂ったか』と父上に激怒されたことだろう。
愕然としていると、僕の考えを察したらしいソフィアが「あぁ、なるほど」と頷いた。
「確かに百億ルドは他から見れば大金かもしれんな。だが、アルバート殿との契約にはそれだけの価値があるのだ」
「そ、そうでしょうか。だって、僕は『できそこないの落ちこぼれ』ですよ……?」
恐る恐る尋ねると、彼女は眉間に皺を寄せて「ほう……?」と不敵に笑った。
「つまり、アルバート殿は私に人を見る目がないと言いたいのか」
「い、いえ、決してそのような意味ではありません。ただ、百億ルドという大金は私にとって分不相応ではないかと……」
「良いだろう。そこまで言うのであれば、私の慧眼を証明するためにも報酬百億ルドは決定事項だ」
「な……⁉」
「不満かね?」
驚愕して空いた口が塞がらないが、彼女は僕の顔を見ながらにこりと微笑んだ。
あ、これ、反対すればするほど悪化するなと、僕は直感してがくりと項垂れた。
「いえ、過分な報酬。ありがとうございます……」
「うむ、納得してくれたようだな」
いや、納得したんじゃなくて、諦めたんだけどね。
僕が心の中で突っ込んでいる間に、彼女はペンを走らせていった。
「次は夫婦として、どこまでの関係性を求めるかだが……」
「関係性、ですか」
結婚する……とはいってもあくまで『契約』だから、関係性を事前に決めておくのは確かに重要かもしれない。
「挙式や表舞台で仲睦まじい夫婦であることを宣伝することを考えれば、接吻や抱擁は必要に応じてありとしておこう」
「接吻や抱擁……」
ソフィアに言われると、胸がドキッとさせられて顔が火照ってしまう。
すると、彼女は僕の顔を見やって「ふふ」と笑みを溢した。
「どうした、アルバート殿。婚約者がいたのであれば接吻や抱擁ぐらいはしたことがあるだろうに」
「え、いや、私は……」
な、なんて答えれば良いのだろうか。
困惑してたじろいでいると、ソフィアが訝しむような眼差しを向けてきた。
「もしや、その先まで経験済みなのか。その場合……」
「……⁉ いえ、違います。接吻も抱擁も、もちろん、その先も私は未経験です」
恥ずかしさのあまり、つい大声を発してしまった。
僕は「あ……⁉」とハッとして愕然となるが、後の祭り。
決まり悪くソフィアを見やれば、彼女は目を瞬いてきょとんとしているじゃないか。
恥ずかしさのあまり「うぅ……」と顔を両手で覆っていると、「ふふ、あっはは」と彼女が噴き出した。
「アルバート殿は見た目通り可愛らしいな」
「め、面目次第もございません」
「はは、怒っていないから気にするな。まぁ、とりあえず接吻と抱擁の先は『なし』としておくぞ。お互い、その方が気楽だろうからな」
「は、はい。畏まりました」
僕はどきまぎながら頷いた。
それにしても、ソフィアは凄いなぁ。
契約結婚とか、普通は思いつかないし、思いついたとしても実行しようとは考えない。
それをこうも容易く、動じず淡々と契約書にまとめていくんだから。
僕も見習わないとなぁ……そう思ってじっと見つめていると、ソフィアが「んん……」と咳払いをした。
「では、アルバート殿。簡単な覚え書きだが、これでよいかな」
彼女が差し出した紙には、今までのやり取りが簡潔にまとめられていた。
「……はい。問題ありません」
受け取った紙の内容に目を通して丁寧に返すと、彼女は書類を丸めて自らの懐にしまい込んだ。
「これで決まりだな。契約結婚後は、夫婦の振る舞いに必要なことは互いに協力するとしよう。一応、今日のやり取りは仮契約とし、正式な契約書を作成して本契約としたいが構わないかな」
「わかりました」
僕が頷くと、ソフィアはにやりと笑った。
「では、早速だがアルバート殿。私と貴殿は王都で魔動車事故を通じて出会い、互いに一目惚れしたということにしよう。まさに運命の出会いというやつだな」
「う、運命の出会いですか。しかし、些かこじつけが強いような……」
「私と貴殿の魔動車事故は、多数の目撃者がいる。私が貴殿を介抱している姿も見られているし、事実と虚実が混ざったものだ。これぐらい強引で丁度良いだろう」
「は、はぁ。そんなものですかね」
「それよりも、だ」
呆気に取られていると、ソフィアはずいっと身を乗り出した。
「運命の出会いを果たした我々が、掛け合いに堅さがあってはいかん。私は君のことを『アル』と呼ばせてもらう。アルも、私のことは『ソフィ』と呼んでくれ」
「か、畏まり……いや、違いますね。わかったよ、ソ、ソフィ」
「うむ、上出来だ。その調子で頼むぞ」
ソフィはにこりと微笑むが、僕は重要な問題を思い出してハッとする。
「そ、そうだ。ソフィア、私達の契約結婚にはまだ大きな障害が残っています」
「ソフィ……だろう。それで、大きな障害とはなんだ。言ってみろ、アル」
「えっと、僕は後継者ではなくなりましたがグランヴィス家の一員であることは変わりません。契約結婚とはいえ、婚姻となれば僕の父上イルバノア・グランヴィスと国王の許可が必要になります」
カルドミア王国における貴族同士の結婚には、貴族の当主と現王の許可が必要とされている。
これは、貴族同士の政略結婚による派閥形成や力の偏りを防ぐためだとされている。
デュランベルク公爵家は現当主不在だけど、ソフィの影響力を考えれば些末な問題として有耶無耶にできるかもしれない。
でも、僕の場合は父上を説得しなければ結婚は難しいだろう。
「案ずるな、それは策をすでに考えてあるんだ」
「え、そうなんですか?」
首を傾げると、ソフィはこくりと頷いた。
「仮契約もすんだことだし、策の説明と合わせてアルに紹介したい者がいるんだ。部屋に呼んでもいいかな?」
「は、はい。僕は構いませんけど……」
僕が頷くと、ソフィは部屋の扉に視線を向けた。
「セシル、そこにいるんだろう。入ってこい」
彼女が名を呼ぶや否や、「ソフィ姉様」という怒号と共に部屋の扉が勢いよく開かれた。
そして、紺色の髪と大きくぱっちりした目に緑の瞳を浮かべる青年がずかずかとこちらにやってくるなり、机を両手で力強く叩いた。
「ソフィ姉様⁉ 俺は、俺は……やっぱりこの方法は納得がいきません」
少しでも面白い、続きが読みたいと思って頂けましたら、
差支えなければブックマークや高評価を頂ければ幸いです。