去りゆく影法師、二人目
「ねえ、人類は二〇一二年に滅びるんだけど、君は生き延びたいと思う?」
中学来だから八年ぶりだ。久しぶりに彼女から聞いた言葉が世俗に塗れすぎていたので、俺は長く細く息を吐き出した。年月は全ての物に等しく作用して、良い面ではメッキを剥がし悪い面では才能を均してしまう。彼女の持っていた何かがメッキを張った張りぼてだったのかカットされる前の原石だったのかは分からない。けれども俺を失望させるには十分すぎる一言だった。
俺は不快に思いながらも懐から取り出した煙草に火を付けることで先を促し、彼女のために作ってしまい、今ではただ無為に消費するより他ならない時間にまた絶望する。
「この頃流行っているでしょう二〇一二年に世界が滅びるって話、いくらハリウッド嫌いの君だってあれだけCMが流れていれば知ってるでしょ? ねえ、君は本当に世界が滅んでしまうと思ってる? 例えば郊外に家を買って都会で死ぬよりかはまだましな死に目に会おうと努力したり、好きな人と一緒に最期の瞬間を迎えようとしたり、そういった俗物的ではあるけれど誰も実行しようとしないことを準備してるかしら」
時が経って中身が変質しても上辺だけは変わらない。あるいは変わらない努力をしているだけなのか、変わっていないよう見せるための努力をしているのか。息を吐く暇もなく滔々と流れる言葉の数々は中学の頃から変わっていない。だが変わっていない部分と変わってしまった部分のどうしようもないギャップは黄昏時にはっきりと相手の顔が見えるようで、不気味だ。
「でもね、本当の終わりはあんなに大げさなことでもなんでもなくて、ただ皆が喋るべき言葉を失い、書くべき言葉を忘れてしまうだけの静かなものなのよ、それはきっと世界の終わりにふさわしい綺麗なものなんだと思うけれど君はどう思うかしら、きっと今の君は馬鹿馬鹿しいと一蹴するでしょうね、中学生だったときの君は同意してくれたでしょうけど」
何を言っているのか分からないな、と返した俺はウェイターが持ってきたコーヒーに口を付けた。言って、口を付けてからここが駅前のカフェだったことを思い出す。
「君が世界の終わりを食い止められる唯一の人間であると言っても今の君じゃ信じないだろうし信じたとしても食い止めることができる確率なんて毛ほどもないでしょうけど一応言っておくわ、一縷の望みにかけるって素晴らしい言葉じゃない? なんというか人間が言葉を知って間もなく産まれた言葉みたいで一縷の望みという言葉自身に一縷の望みがかかっているみたいで、でもそれってきっと当ってると思うの、だって私が一縷の望みを見いだして、かけたんですもの」
彼女の眼は俺を真っ直ぐ見据えている。眼の色が違う、気迫がこもっている眼、真実を言っている眼だ。彼女自身全部信じていない言葉なのかもしれないが今だけは信じるのに吝かではない気がしてくる。そこで俺は彼女が小説家だったことを思い出す。心の中に眠っていた中学生の頃の『僕』としての俺が面白そうだと訴えている。幸いカフェに他の人間はいない。カウンターの奥に引っ込んだウェイターとマスターは、何か忙しなく準備に追われているようでこちらの方なんて気にも留めていない。続けてくれ、と俺は言う。
「やっと聞く気になってくれたのねでも嬉しくなんかないわ、だって聞くことは当然のことでまだ人間として生きていたいのならば聞くべきだし例え君が生きていたくなどなくとも他の人は生きていたいでしょうしね、本題にはもう入ってる、けれどどこから説明した方がいいかしら、そうね、終わりについて私がなぜ知ったのかから説明しましょうか、そういえば君コーヒー冷めてるわよ」
コーヒーカップに眼を落とす。さっきまで湯気を立てていかにもコーヒー然としていたそれが今では深淵を覗き込んだような黒を湛えている。黒い面に映し出された俺は五年前の『僕』に少しだけ似ている、きっと半分は勘違いではない。文芸部を作って、今となっては赤面物のポエムやら恥ずかしい空想小説を書いていた、思い出そうとすれば夕焼けに黄昏れる『僕』に、だ。
「私が今作家をやっていることは知っているわね、そこそこ名前が売れたんですもの賞も獲ったし選考委員に選ばれる程度に売れているつもり、でもね私が言いたいのそんなことじゃない、これは導入にしか過ぎないの、だって賞を獲った人間なんて無数にいるし選考委員になれる人間もかなりいるから、終わりを知ったのはきっと私が新しい文体の開拓者で小説と音楽と映像とその他色々混ぜ合わせることについて意欲的に活動していたのが原因だと思うの、誰も解答を知っているわけじゃないんだけど」
文筆家としての彼女は、彼女が言う以上に名の知れた物だということを思い出す。次から次へと過去がねつ造されていくような感覚。先進的な文体というのは古くから使われていた言葉だったが、この時初めて使われるべき言葉だったのだと誰かが寸評した程だ。そこから小説、音楽、映画、おおよそ全ての娯楽媒体と一体化して展開される彼女の『小説』はメディアミックスなんて単語では包括しきれない一つのジャンルを築き上げ、誰の追随をも許さなかった。草分けではなく、一人で完成してしまったのだと気鋭の評論家は嘆き、高名な評論家は奇抜なだけで実態も何もないと嘲笑った。
「喋るべき言葉を失い書くべき言葉を忘れるといったでしょう、これが重要なことだったのね、言葉は生き物って散々言われてきたでしょう、使う人間の認識としては時代の変遷と共に用例が変化していくという程度の意味しか持たなかったけれどあの言葉は文面通り受け取っていいものだったのよ、そこに私は気付いてその時向こうも気付いた」
向こう? と俺は問い返す。いつの間にかコーヒーカップは空になっていた。飲んだ記憶はないが喉に冷めたコーヒー特有の苦さがこびり付いている。不快ではない。中学生の俺である『僕』がやっと目覚めたようだった。面白い、続きは?
「言葉は生き物でそれ自体では何の意味を持たないけれど、言葉は常に人を操りより美しい言葉を目ざして着飾りあるいはそぎ落としてきた、ねえ、君はどう思う? 言葉を使う人間が育てているのに操っているのにその実言葉の方が確実に優位な存在なのよ、理解できる? 難しいでしょうね、だってこんなことが簡単に分かってしまえたなら言葉の発展はあり得なかったんですもの、恐れをなした人間は言葉を駆逐するでしょうから」
言葉が人を操るなんて間の抜けた話だ、と切り捨てることができない。中学生の頃夢見た物語が目の前にあるのだ。操る者と操る者が互いの体を操っている。こちらが右手を挙げれば相手も右手を挙げ、相手が左手を下げればこちらも左手を下げる。そんな一体化した動きがいつ果てるともなく続いていけば終いには相手に動かされているのかこちらが相手を動かしているのか全く分からなくなる。考えているだけだと思っていたが思わず呟いていたようだ。彼女が幼い子供に噛んで含めるように優しく答えた。
「いいえ、そんなことにはならないの、ある時点では主体と客体は同一視された物であるかもしれない、例えば明治の頃に行われた言文一致運動の頃は確かに主体と客体の違いは無かった、人間が美しい言葉を生み出そうとしているのか言葉が人間を操って己をより美しく仕上げようとしているのか、外部の眼からは判定ができないでしょう、でもね、あくまで操っているのはあくまでも言葉、人間は操り人形でしかないの、言葉を持たなかった人間がある日突然言葉を持ったように、言葉はある時点から人間の体に入ったの、でもそれはミトコンドリアのような不可抗力での同一化ではなくて、言葉による主体的な同一化なの、だから主権は言葉の方にあるの」
彼女の話を聞いていると不思議と喉に渇きを覚えた。欲しくて欲しくて喉から手が出るぐらい待ちわびていた物を前に、欲求が高じて緊張感にすり替わったようだ。俺はカウンターの奥で作業をしているマスターに声を掛けたが聞こえていないようで何の反応も示さない。
「言葉は限られた者にしか姿を現さないの、たまたま言葉の姿を見つけたのが私で姿を見つけるべき人間が君でマスターやウェイターは見つけた人間でもなければ見つけるべき人間でもないの、ここが非常に重要なことで、言葉は洗練される可能性のある人間を選り分ける術を持っているみたいなの、これがきっとより早くより確実に美しくなるための秘訣なのね、もしかすると人間と同一化を図る前に得たノウハウなのかも知れない、あまりにも多くの人間の前に言葉が姿を現してしまうと対峙し進化の可能性を潰してしまうでしょうから」
座っていた籐いすの手すりが魅惑的な曲線を描いていることに気がついた。そして手すりに気がつくと、天井からぶら下がっている控えめな電灯、色調を落とした威厳のある床板、カフェ内に流れる緩やかなジャズ、挽かれたコーヒー豆の匂い、それら全てが波のように押し寄せ俺をどこか遠いカナンの地へと誘っていく。
「あなたも感じるでしょう、それが言葉に認められた条件、まだ何もなしえていないのに言葉に見いだされるなんて嫉妬してしまうけれど君はきっと私のルーツになった人だから当然といえば当然なの、貰っておくだけでは駄目だということね、私は今スタート地点に立ったばかりで、あなたの劣化コピーではなく自分の道を歩まなければならないのね、それも三年以内に」
ああ、三年以内にとはそういうことだったのか。あと三年で二〇一二年がやってくる。ハリウッド的には大災害に見舞われて滅んでしまう世界のタイムリミットが。でも波にさらわれ加速度的に浸食作用を受けた俺には、なぜ滅んでしまうのかが分かった。そうだ、文体や言葉、それらがこれ以上にない進化の極致にやって来てしまったのだ。美しくなることだけが目的の狂おしい言葉たちは、役立たずとなった人間を見捨てることに躊躇いはない。ただ、彼女の言う一縷の望みである俺は、彼女のルーツたる俺は、まだ進化の可能性を秘めているのだろう。
「言葉が失われた世界は、きっと大した混乱もなく終わってしまうでしょうね、言葉によって思考している人間が言葉を無くしたとき、何も考えることはなくなり、最も純粋で綺麗な終わりが訪れるでしょうね、その時飛んでいた飛行機が墜落するじゃないかなんて野暮なことは言わないでね」
さて、と彼女は席を立った。テーブルの上には彼女の分と俺の分の代金が乗っている。視線を彼女に戻したとき、そこにはウェイターが立っていて、俺におかわりはいるかと尋ねてきた。俺は断り、金を払うとカフェの外へ飛び出した。重い硝子扉を肩で押し開けると右手には俺たちの通っていた中学校へと続く高架下の通路があって、左手にはロータリーと地下鉄の駅と路面電車の遮断機が。空は分厚い雲に押しつぶされているが、見上げた瞬間を見計らったかのように切れ目が入って斜めに陽光の一太刀が流れた。電車がホームに滑り込む悲鳴とも何ともつかないもの悲しい声が上がる。学校帰りの制服に身を包んだ集団が通り過ぎる。俺はまだそこに立っている。
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