マスター
カラン…と店の扉が開く。
朝一番で扉を開くのは、恐らく彼だろう。この辺りでは見慣れぬ、髪色と瞳の男だ。
「おはようございます、マスター。
珈琲をお願いします」
彼は静かにカウンター席へと座る。
彼が一人で訪れる時は、必ずこの席だ。
「どちらの気分だい」
そう私が返すのは、お決まりの会話となっている。
「今日は冷たい珈琲かな」
そう答えた彼は、今日も穏やかでどこか楽しそうな雰囲気を纏っていた。
店の奥から氷を出す。
冷ました珈琲に氷を入れていく。
溶けて小さく音を立てる氷。この音が中々心地よいものだと気付いたのは、彼のお陰かもしれない。
冷たい珈琲。これを頼むのは彼一人だ。
この国では茶は通常、温かいものである。それは珈琲という豆の茶でも同様だった。粉状にした豆に湯を注ぎ、濾したものを飲むのは他の茶と変わらない。
だが彼はある日、冷たい珈琲が飲みたいと言ってきた。故郷ではよく飲んでいたという。
本当に美味いのだろうか。
半信半疑のまま彼のリクエストから作り方を模索し、濃く出した茶を冷まして氷を入れた。
『はぁー、美味いっす、ありがとうございます…身に沁みる…』
初めて彼に出した冷たい珈琲。感想は彼の故郷の言葉で分からなかったが、その声色と綻ぶ顔は“美味しい”と言っていた気がする。
彼から本音が溢れる時は、よく故郷の言葉になるから、きっと心から美味しいと感じたのだろう。
今日も彼は、カウンターで本を読みはじめる。
遠い遠い国から来たという彼は。この国の言葉を覚える為か、よく本を読んでいる。
静かに読み、珈琲が完成したタイミングで必ず本を閉じる。何故かと聞くと「ちゃんと味わいたいから」と言っていた。店主としては満点の返答である。
「お待たせしたね」
カウンター越しに彼の前へ置いたグラス。
じっとグラスを見つめた彼は、静かに口角を上げた。
カラン…と店の扉が開く。
入ってきたのはこれまた常連客の老夫婦だ。
「マスター、いつもの朝食セットを」
店に入るなり彼らは注文をすると、いつもの窓側の席へと座った。
常連客たちは、最近揃って私の事をこう呼ぶ。
彼の言葉を真似ているそうだ。
カウンター前に座る、彼の故郷の言葉。一つの言葉に色々な意味を持つ言葉というのは、まさに彼の故郷のものらしい。
師匠。集団の長。熟練者。
そして、喫茶店の店主。
中々いい呼び名じゃないか。
「マスター、今日はもう一杯おかわりします」
珈琲よりも深い黒色が、再び楽しそうに私へと声を掛けた。