9. 告白、そして
森には、すっかり冬が訪れ、洞窟の外は白く輝く雪に覆われた。
季節のない魔界に育ったメイリールには何もかもが物珍しくて、寒いのを嫌がるルークを無理に連れ出しては外で遊び、風邪でもひかれてはかなわないとディートハルトに火のそばへ連れ戻されるのが日常になっていた。
相変わらずディートハルトは無口だし、メイリールも前よりディートハルトにしつこく絡むことが減り、2人の間の会話の量は一見すると以前よりも減ったようにも見える。
だが、メイリールは、あの一件以来、ディートハルトのまとう空気が変わったのを感じていた。
ディートハルトの心を閉ざし、近寄るものを拒んできた壁は、もう感じられない。
瞳には生気が宿り、感情の炎が踊るようになった。
時折、その瞳でじっと見つめられると、メイリールはどうしても居心地が悪くて顔を伏せてしまう。
そうするといつも、頭の上で笑う気配がして、頭をくしゃっと撫でられた。
そばにいるだけで、満ち足りた気持ちになる。こんな感覚は、初めてだった。
——ディートハルトから、結局は直接何も聞けていないけど……
あの日以来、メイリールが回復してからも、ディートハルトは毎晩必ずメイリールに寄り添って眠るようになった。
そのことに、ディートハルトの心情が現れているような気がした。
——大丈夫だよ、俺は、ここにいる。
自分がいなくなってしまうのではないかと、ディートハルトがどこかでまだ不安に思っているような気がして、メイリールは自分を抱き抱えるようにして眠るディートハルトの胸に顔を埋め、想いを込めてそっと抱きしめ返す。
それに応えるように、頭を撫で、髪に顔を埋めてくるディートハルトに、メイリールは胸がいっぱいになった。
「ディー……」
無意識に、その名を呼んでいた。
「ん……?」
少しくぐもった声が、頭の上から降ってくる。
「どうした?」
優しく頭を撫でられて、ディートハルトの首筋に甘えるように鼻を擦り寄せる。
その体温と匂いに安心している自分を感じながら、メイリールはゆっくり言葉を選んだ。
「俺ね……ディーの、そばに、いるよ」
しん、と静まり返った洞窟に、自分の声が響く。
何を言おうとしているのか、ディートハルトが無言で続きを待っている気がして、メイリールは一生懸命、考えながら続けた。
「ディーの心に、きっと誰か、大切な人がいたんだろうなって」
メイリールの位置からは、ディートハルトの表情は見えない。
自分の言葉がディートハルトにどう届いているのか、わからないまま、それでも今伝えなければいけない気がして、話し続ける。
「……俺が、その人の代わりになれるとか、そういうことは思ってない。けど、俺はただ、ディーのそばにいたいし、……ディーも、それを望んでくれたらいいなって思ってる」
「……メイリール」
静かに名前を呼ばれて、メイリールはギュッと目を瞑った。
言ってから、急に怖くなった。
もし全部が自分の盛大な勘違いで、ディートハルトにとって単なる気持ちの押し付けでしかなかったら。
そう思うと生きた心地がしなくて、メイリールは祈るような気持ちでディートハルトの言葉を待った。
だが、次にもたらされたのは言葉ではなく、ディートハルトの手だった。
大きくて温かい手がメイリールの顔に添えられて、自然と上を向かされる格好になる。
顔を上げた先には、メイリールを見下ろすディートハルトの瞳があった。
その眼差しは、メイリールの言葉を、想いを全て受け入れ肯定する、愛しいものを見るそれであることを、メイリールは直感で理解した。
「…………」
ディートハルトの顔が、ゆっくりと寄せられる。
メイリールは目を閉じて、その口づけを受け入れた。
感情が溢れて、自然と涙が頬を伝う。
色めいたものを感じさせるわけでもない、ただただ、気持ちを重ね合う口づけを、メイリールは初めて知った。
そして、それが恐ろしいほどの幸福感をもたらすことも。
——離れたくない……
涙まじりの塩辛い口づけを幾度も交わし、その度に、そこから溶けてひとつになってしまえばいいとさえ思った。
静かに涙を流し続けるメイリールを、ディートハルトがそっと抱きしめる。
その腕の温もりに、やがてメイリールの意識は再び闇に溶けていった。
翌朝。ふと目が覚めたメイリールは、まだ自分がディートハルトの腕の中にいることに気づくと、驚きで一気に意識が覚醒した。
いつもなら、自分の目が覚める前にいつの間にかディートハルトの方が起き出し、その気配でメイリールも目を覚ますのに、今日はどうしたことだろう。
ディートハルトを起こさないよう目だけ上げて様子を伺えば、寝ている部屋の入口から見える、洞窟の中に差し込む光の色からして、すでに日は昇っている。
ルークももう目を覚まして羽繕いをしていた。
メイリールの起き出した気配が伝わってしまったのか、眠っていたディートハルトが身じろぎをし、やがて重そうに目蓋を上げた。
「ディー、……おはよう」
昨晩ほとんど無意識で、愛称のように名前を短くして呼んでしまったことを思い出し、今更元に戻すのもなんだか気恥ずかしくて妙な間が空いてしまった。
「珍しいね、いつもなら俺より早く起きるのに」
そう言うと、ディートハルトはようやく気づいたように、乱れた髪の毛をかきあげて上半身を起こした。
「そうだな……随分久しぶりに、なんの夢も見ずに眠れた」
「夢?」
意外な言葉に思わず聞き返すと、ディートハルトの表情に少し影が差した気がして、メイリールは不安を覚える。
何か別の話で気を逸らそうかと考えていると、ディートハルトがぽつりぽつりと話し出した。
「ああ……かつての、親友を、……この手にかける、夢だ」
言葉は出てこなかった。
その親友、という人物がディートハルトにとってどんな意味を持つ存在だったのかは、聞かなくても分かった。
沈黙が流れる。
「すまん、つまらぬことを、」
どうすればいいのかなんて、分からなかった。
ただ、気持ちが溢れて、身体が動いた。
「……っ」
そんな顔をしてほしくない。
その想いだけで、メイリールはディートハルトを力いっぱい抱きしめた。
自分がそうしてもらったら、きっと安心するから。きっと、伝わるから。
「ディー、」
掠れた声で、呼びかける。
何度でも、伝えよう。
「昨日の夜、俺が言ったこと……あれ、寝言じゃないから」
我ながら、なんて幼稚な表現しかできないのだろうと呆れる。
だが、そんなことを気にしていられるような余裕はなかった。
「俺は、ディーのそばにいる。ずっといる」
それが自分の気持ちの押し付けだけではないと、今は信じられるから。
「ゆっくりでいい。もう、1人じゃない。全部、2人でやればいい」
ディートハルトの腕が、メイリールの背中に回される。
ディートハルトの、言葉にならない気持ちが流れ込んでくるようだった。
「いい年して、情けないな」
どうしても離れがたくて、抱きしめたまま動かないメイリールを、ディートハルトが膝に抱え上げる。
向かい合う形で膝に乗り上げ、肩口に頭を乗せて甘えるメイリールに、ディートハルトが苦笑混じりの声で言った。
「何が?」
首筋に顔を埋めながら、メイリールが聞く。
「いや、ついこの前まで駄々っ子同然だったお前が、いつの間にそんなにしっかりしたことを言うようになったかと思ってな」
揶揄うような口ぶりに、メイリールが抗議する。
「俺、もうガキじゃないんだけど!」
そうだな、となおも笑いながら頭を撫でるディートハルトに拗ねた顔をして見せながら、メイリールは幸せで心がはち切れそうだった。
——ルーヴ……俺、見つけたよ。
雪の上をちょろちょろと駆け回っては求愛する小さな獣のつがいを眺めながら、ふとメイリールはかつて想ったひとの言葉を思い出した。
俺よりも、もっとずっと大切な人が現れる、その時が来たら分かるんだよと、あのひとは言った。
ルーヴストリヒトよりも大切、などと並べて比較できるようなものではないけれど、かつてルーヴストリヒトに抱いていた自分の感情がいかに自分勝手で独りよがりなものだったかは、今ならよく分かる。
ルーヴストリヒトが言いたかったことも、今はなんとなく分かる気がしている。
あの頃見えていたものと、今自分に見えているものの違い。
誰かと生きることの持つ意味と、その重さも。
——誰かを、愛するということを。
「そろそろ、帰ってくる頃かな」
そろそろ日も傾き始めている。
街から帰ってくるディートハルトがすぐ暖まれるように、火を起こす準備だけしておこうと、メイリールは座っていた木の枝から飛び降りた。
「ただいま」
「おかえり」
月に1度のこのやりとりを、メイリールは密かに気に入っていた。
ディートハルトが、自分と暮らすこの場所を、帰ってくるところだと認識していることの表れのようで、嬉しかった。
「何食べるー?」
雪に閉ざされる前に、干したり塩漬けにしたりと山ほど食べるものは蓄えてあった。
バリエーションが少ないのは春までの我慢だ。
「ディー?」
返事がないので振り返ると、ディートハルトが何やら荷物の中をごそごそと探している。
「よかった、どこかで落としてきたかと思ったぞ」
そう言いながら、ディートハルトが、小さな包みを差し出してきた。
受け取ると、意外に重たい。
開けてみろ、とディートハルトの顔が言うので、メイリールは丁寧に封をされた包みを開けた。
「えっ、え……?」