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8. 勘違いでもいい

 それは、そろそろ本格的に冬の足音が聞こえ始めたある日の朝早くに起こった。

 森にはもうだいぶ木の実や植物も食べられるものが少なくなり、冬眠の準備にかかる獣たちも現れ始めている。

 その一方で、残り少ない食料をめぐって、生存競争も熾烈さを増していた。

 思うように餌にありつけず、飢えて気性の荒くなった大型の獣たちがそこここにうろついている。

 そんな折、不運にも、そのうちの一頭をディートハルトが仕留め損ね、手負いにしてしまったのだ。

 獣はディートハルトに気づくと、木々が震えるほどの咆哮をあげて向き直り、次の瞬間には襲いかかってきた。


「ディー……!」


 少し離れた木の上にいたメイリールは、思わず短い叫び声を立てた。

 ルークも同時に、甲高い警戒の鳴き声を発する。

 その声に、一瞬獣の注意がディートハルトから逸れた。

 その瞬間を見逃さず、獣の下敷きになっていたディートハルトは獣の急所を外した短剣を引き抜き、今度こそ深々と喉笛を貫いた。


「ッ……」


 致命傷を負いながらも、なおも暴れる獣の下からなんとか這い出たディートハルトが地面にうずくまる。

 相当深い傷を負わされたのか、駆け寄るメイリールの方を見上げることもせず、ぐったりと倒れたままだ。

 裂けた服を赤く染める鮮血が、地面に黒い水溜りを広げていく。

 このままでは、命が失われていくのも時間の問題と思われた。

 メイリールは、全身の血の気が引いていくのを感じ、頭が考える前に身体が動いた。


 ——こんなことなら、もっとちゃんと魔力制御の実習まじめに受けとくんだった……


 ディートハルトの傷口に、意識を集中させる。

 勢いよく噴き出す血液を前に、ほとんど無意識のうちに魔力を発動させていた。

 もちろん、こんな使い方をしたのは初めてだ。

 合っているのかも分からなかった。

 もともと魔族の力は天界のそれに比べると、治癒や回復には向いていない。

 実際、魔族にとって魔力の日常的な使い途としてもっとも頻度が高いのは飛行、次いで相手の支配や魅了といったものだった。


 ——止まれ……止まれ……!


 ディートハルトが、いなくなってしまうかもしれない。

 そんな、たった数時間前まで考えもしなかったことが、今目の前で現実になろうとしている。

 どんなことをしてでも、食い止めなければと、無我夢中で力を使った。

 身体が熱い。

 魔力の暴走を意味するそれをメイリールは無視し、ただひたすらにディートハルトの命を繋ぐことだけを考えた。

 ルークが気遣わしげにメイリールへ視線を投げるが、それに構っている余裕などない。

 だが、次第にメイリールの意識は遠のき、やがて、視界が暗転した。



 額に冷たい感触を覚えて、メイリールは目を開けた。

 ぱちぱちと何度か瞬きをすると、視界がはっきりしてくる。

 目に入ってきたのは、見慣れた洞窟の天井だった。額に手をやると、濡れた布が手に触れた。


「目が覚めたか」


 耳慣れた低く心地良い声に、メイリールは勢いよく身体を起こした。

 その拍子に一瞬視界がぐらっと傾いて、とっさに床に手をついた。


「まだ回復しきってないなら、寝ておけ」


 メイリールは、横に座る男の姿をまじまじと見つめた。


「生きてる……」


 全てが夢だったのではないかとさえ一瞬思った。

 だが、洞窟の壁際に乱雑に丸められている、どす黒く染まった布の残骸がそれを打ち消す。


「ああ。どうやら、命拾いしたらしい」


 ディートハルトが肩をすくめてそう言った。

 そっけない物言いとは裏腹に、その表情にはなんとも言えない情感がこもっていて、メイリールはどきりとした。


「こいつにな、教えられた。お前のおかげで助かったと」


 ディートハルトは手を伸ばすと、メイリールの枕元にうずくまって寝ている漆黒の烏の背中をそっと撫でる。

 手の感触に薄く片目を開けたルークは、より深く背中の羽に顔を埋め直すと、再び目を閉じてしまった。

 ふと、体内に巡る魔力にルークのものを感じて、メイリールはハッとする。


「お前……」


 経験のないことなので分からないが、おそらく限界まで魔力を放出したあと倒れた自分に、ルークがなけなしの魔力を注いでくれたのだろう。それがなければ、今頃自分は生死の境を彷徨っていたかもしれなかった。


「よかった……」


 ホッとした途端に力が抜け、メイリールはどさりと寝床に横たわって目を閉じる。

 安堵から滲む涙を、そっと拭う指の感触にうっすらと目を開けると、ディートハルトの瞳がこちらを見下ろしていた。

 その目は、真っ直ぐにメイリールを見つめている。

 以前まで感じていた、自分を通してどこか遠くを見るようなあの目とは全く違って、今メイリールを見つめるディートハルトの瞳は強く、そして柔らかな光をたたえていた。

 その目と同じものを、以前どこかで見たことがあった気がして、メイリールは一生懸命思い出そうとしたが、どうにも頭が動かない。


「もう少し、寝ていればいい。腹が減ったら、起きて何か食えそうなら食え」


 遠くにディートハルトの言葉を聞きながら、メイリールの意識は暖かい闇の中に沈んでいった。



 結局、メイリールが完全に回復するまでにはその後数日を要した。

 ルークの方が若干早く復活し、森に自生しているものの中からメイリールの魔力回復に役立つであろう果物やら木の実やらをディートハルトに伝え、それをディートハルトが探しに行き、あるいは備蓄してある中から探し出したりしてメイリールに食べさせた。

 メイリールの知らない間に、ルークとディートハルトは旧知の仲のように息の合った行動を見せるようになっていて、なんだかルークに抜け駆けをされたような、若干恨めしい気持ちにもなった。

 だが、それ以上にメイリールを驚かせたのは、ディートハルトの態度の変化だった。

 これまでは必要最低限の範囲でしか近くへ寄ることさえ許さなかった男が、メイリールの傍を離れないのだ。

 いつ目が覚めても、ディートハルトは必ずメイリールの見えるところにいて、熱がないか確かめたり、汗が気持ち悪くないか、何か食べられそうかと聞いてきたりと、つききりで世話を焼かれる。

 自分が、結果としては命をかけてディートハルトを助けたことになったから、という理由づけができなくもないのだが、それだけでこんなに変わるものだろうか。


 ——こんなふうにされたら、勘違い、しそうになる……


 まるで大事なものを扱うように、そっと触れられ、慈しむように見つめられる。

 その顔は、何かつきものでも落ちたような清々しささえ感じさせた。

 夜も、メイリールを守るかのように隣で眠りにつくディートハルトに、メイリールは戸惑っていた。



「もう、身体はいいのか」


 数日間の寝たきり生活を終え、ようやく活動しても支障がなさそうだと判断して起き上がろうとしたメイリールに、ディートハルトが声を掛ける。


「うん、もう魔力も回復してるし、大丈夫だと思う」


 意識を取り戻して以降のディートハルトの変わりように心が追いついていなくて、メイリールはどうにも真っ直ぐその目を見られない。

 思ったよりぶっきらぼうな言い方になってしまって、少しだけ焦った。


「そうか」


 それを気に留めた様子もなく、ディートハルトが微笑んで、メイリールの頭を撫でる。

 その笑顔に思わず見惚れそうになって、慌てて目を逸らした。


「ルーク、……いろいろ、ありがとう」


 少し前を歩いていくディートハルトの背中を見つめて歩きながら、メイリールは肩に乗る相棒に向けてつぶやいた。

 一連の出来事はほんの数日前のことなのに、いつもの位置にルークの重みを感じるのがひどく懐かしいような気持ちになる。

 ルークがギョッとしたような顔でこちらを振り向いたのが見なくても分かって、メイリールは少し笑った。


「メイが礼を言うとか、槍でも降るんじゃ……」


 相変わらず守護烏の自分に対する扱いが雑だ。

 だが、いつもそこにいてくれるありがたみが、今日はことさらメイリールの心に沁みた。


「礼なら、あいつに言うのが先なんじゃねえの」


 そう言って、ルークがくちばしで前を歩く男を指し示す。

 そういえば、ずっとそばにいるのに、照れくささのあまり、まだディートハルトとはろくに会話もできていなかった。


「あいつ、お前が倒れたの見たとき、この世の終わりみたいな顔してたしなあ」


 初耳だ。メイリールは驚いてルークの方へ振り向いた。

 ルークがそんなメイリールをチラッと片目で見上げ、話を続ける。


「真っ青な顔でお前を抱え上げて、必死に呼びかけてたよ。どうしてだ、こんなのもう沢山だ、って。お前が死んだと思ったんだろうな。多分魔力切れなだけで、まだ死んじゃいねえよって俺が声をかけたら、幽霊でも見たような顔してたのは笑えたけど」


 そう言われてみれば、ルークはディートハルトの前でメイリールに話しかけたことはなかった。

 メイリールの言っていることを理解できるのは見ていて分かっていても、ルーク自身が話せるとは思ってもみなかったのだろう。

 その光景を想像すると、なんだかシュールでおかしかった。


 ——それより、もう沢山だ、って……それって、前にも誰かを……?


 そう思った瞬間、全てに辻褄が合った気がした。

 自分を通して遠くを見るかのようなあの目つきも、花を握りしめて泣いていたことも、どこか一定の距離以上近寄らせてくれなかったのも……自分にも想像のつかないような、喪失の悲しみを、ディートハルトは前にも味わったのかもしれない。

 そして、自分の存在が、ディートハルトの中でいつしかそれに並ぶほどの大きさになっていたのかもしれないことを、ルークが語るディートハルトの姿は示唆していた。


「……っ……」


 勘違いでもいい。

 失いたくないと、ほんの少しでも思ってくれたのだとしたら。


 メイリールはたまらなくなって、前を歩く背中に向かって走り出していた。

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