6. 君を、忘れない
そうして、表面上は当たり障りのない日々が過ぎていった。
木々は色づき、また葉を落とし、あるいは豊かに実をつけて、それを目当てに動物たちが走り回る。
メイリールたちもまた、来たる冬に備えてそうした植物の実や獣たちの肉を蓄えていった。
ディートハルトは、自分のことについて以外であれば、メイリールの質問に大抵は答えてくれるようになった。
肉の保存の仕方、街で買ってきた道具などの使い方、森に生えている植物で食べられるものと毒のあるものの見分け方。
自分も手伝うと言って聞かないメイリールに根負けした形で、作業も一緒に行ってくれるようになった。
そうしてディートハルトと過ごす時間が、メイリールにとっては何よりかけがえのないものになっていた。
だが、その一方で、メイリールはこの頃のディートハルトが自分を見る目に、時折ひどく遠くを見るような表情が浮かぶことが気にかかっていた。
まるで、自分を通して自分ではない誰かを見ているような、想いの乗った眼差し。
それについて、ディートハルトに問う勇気は、メイリールにはなかった。
——自分ができることって、何だろうか。
メイリールは考えていた。
ディートハルトが何を思っているのかは分からない。
だが、その眼差しがたたえる色を思うと、なぜかいてもたってもいられない気持ちになった。
何か、自分にできることはないか。
どんなことなら、ディートハルトの心を少しでも和らげることができるだろうか。
——今まで、してもらうことしか考えてこなかったもんな……
今更ながら、己の幼稚さを恥じる。
誰かを喜ばせたくて何かをしたことなんて、記憶をさかのぼったら、子供のころルーヴストリヒトを追いかけ回していたときまで戻ってしまった。
——よく、その辺に生えてた花を摘んで、花束あげる! ってルーヴに渡してたな。懐かしい……
今思えば、ただやみくもに摘んだ花を押し付けていただけだったのに、ルーヴストリヒトはいつも、とても嬉しそうにしてくれた。
かつて焦がれた笑顔を思うと、今も少しだけ胸が締め付けられる。
だが、それ以上の感情がわいてこなくなっていることに、メイリールは少し驚いた。
もう、自暴自棄になっていたことも思い出になり、そこに確かにあった吹き荒ぶ嵐のような感情はいつの間にか凪いで、過去のものになっていた。
翌日、メイリールは珍しく、ディートハルトと別行動をしていた。
歩きながら、うろうろと視線を彷徨わせる。
だいぶ歩き回って、そろそろ足が痛くなってきたころ、ようやくその目が、こんもりと群生した緑に止まった。
背の高いものではメイリールの腰くらいまである茎に、紫色の細い花弁が放射状にのびた可憐な花がいくつもついている。
鼻を近づけると、微かにみずみずしい香りがした。
「これにしよ」
誰に言うともなく声に出すと、メイリールはしゃがみこんで花を摘みはじめた。
ルークはメイリールの肩から近くにあった木の枝に飛び移り、おもむろに羽繕いを開始する。
5分もしないうちに、メイリールの手には十分すぎるくらいの紫の花が握られていた。
自分に何ができるだろうと、ずっと考えていたメイリールだったが、結局、花を贈ること以外に良さそうな考えが浮かばなかったのだ。
——そろそろ、ディートハルトも帰ってる頃かな……
街で手に入れてきた斧で、薪でも割っているだろうか。
洞窟へ帰る足取りは心なしか重たくて、メイリールは自分が緊張していることを認めないわけにはいかなかった。
なぜ花を? と聞かれたら、きっとうまく答えられない。
やっぱり子供だな、と笑われるかもしれない。
いや、それならまだしも、戸惑ったり、困ったりされたら、どうすればいいだろう……。
考えれば考えるほど、やっぱりやめようか、何食わぬ顔で帰ろうか、と思いもした。
だがそうやって迷っているうちに、見慣れた景色が見えてきて、引き返すこともできなくなってしまった。
洞窟の外では、薪割りが終わったらしいディートハルトが汗を拭っている。
草を踏む音でディートハルトがこちらに気づき、顔を上げた。
視線がまずメイリールの顔に、そして手に持っている花へと移動して、ディートハルトがわずかに目を見開くのが見える。
メイリールは、前に進みたがらない足を叱咤して、唾を飲み込んだ。
「あの……これ……」
ディートハルトの顔を直視できなくて、俯き加減にメイリールは花を持った方の手を差し出した。
「や、やる」
それしか言えなくて、ディートハルトの胸に花を押し付ける。
反射的に受け取ったディートハルトが何かを言おうとしていたような気がしたが、メイリールはそれを振り切って洞窟の奥へと逃げ込んだ。
夕食どきになって、ようやく妙な緊張感も薄れ、また空腹には勝てなかったメイリールは、ディートハルトの起こした火のそばへと寄っていった。
渡した花束は、洞窟の壁際、ディートハルトの私物がまとめてある側に、そっと立てかけてある。
顔も見られず、何も言う隙も与えなかったから、その花をディートハルトがどんな思いで受け取ったのか、メイリールには分からないままだ。
いつもと変わらない、夕食の光景。
花のことは無かったように、当たり障りのない会話をいくつか交わす。
頭の中にぐるぐると渦巻く感情を消化できないまま、メイリールは眠りについた。
ふと、意識が浮上していくのを感じ、メイリールはうっすらとまぶたを持ち上げた。
目に入る空間は真っ暗で、時折洞窟の外の木々を風が渡る音と、夜行性の動物たちが走り抜けていく微かな音が聞こえてくる。
まだ真夜中のようだ。
なぜこんな変な時間に目が覚めたのか、いぶかしく思いながらメイリールが体の向きを変えてもう一度寝直そうとしたときだった。
——……?
風の音とも、動物の立てる音とも違う、何か耳慣れない音を聞きつけて、眠りに落ちかけていたメイリールの意識が一気に引き戻される。
音は洞窟の外から聞こえてくるようだった。
メイリールは迷ったが、様子を見るだけだと自分に言い聞かせて、そっと起き上がった。
——あれ、ディートハルトは……?
いつもなら、メイリールの寝ている奥の小部屋を出たところで寝ているはずのディートハルトの姿がない。
ますます、胸のざわつきがひどくなる。
警戒心を最大にして、いよいよ外へ出ようと首を伸ばしたメイリールの視界に、見慣れた手、そして地面に投げ出された足が飛び込んできた。
そして、低く、啜り泣くような男の声も。
——ディート、ハルト……? え……泣いて……?
メイリールは、雷に打たれたようにその場から動くことができなかった。
幸い、ディートハルトの方はメイリールに気づいていないようである。
洞窟の外の岩肌にもたれて座っているらしいディートハルトは、静かに涙を流しているようだった。
その手には、昼間メイリールが押しつけた、今は少し萎れかかっている紫の花束が握られていた。
見てはいけないものを見たような気がした。
決して自分の前では感情をあらわにしたことのないディートハルトだ。
彼の、一番もろく、傷ついた部分を盗み見てしまったようで、猛烈な後ろめたさを感じたメイリールは、足音を立てないようにそっと寝床へと戻った。
だが、寝ようとすればするほど、鮮烈に目に焼き付いたディートハルトの涙と、うめくような吐息が頭の中を離れなくて、さまざまな憶測が浮かんでは消える。
メイリールがようやく寝入ったのと、ディートハルトが人知れず洞窟の中に戻ったのは、もう空も白み始めているころになってからだった。
「やる」
その花をメイリールから押し付けられたとき、ディートハルトはあまりの驚きに、とっさに反応することができなかった。
押し付けられた花の束を落とさないように、反射的に受け取ったものの、メイリールがなぜいきなりこんな行動に出たのか、面食らっていた。
そして、偶然にしてはでき過ぎた出来事に、せき止めていた記憶があふれ出すのを止めることができなかった。
花言葉は、「君を忘れない」。
遠くへ行ってしまう親しい人へ送る花の定番だ。
メイリールが、それを知っていたとは思えなかった。
その花言葉が引き起こす、苦い感情のことも。
ずっと、親友だった。
少なくとも、彼——ライナスは、自分のことをそう思ってくれていたと思う。
お互いに親を戦争で亡くした孤児として施設で出会い、その後30年あまりもの間、片時もそばを離れたことがなかった。
16で騎士団を目指すと決めたのも、騎士団の勇姿を一目見ようと小さな身体で窓枠にしがみつき、絶対に自分も騎士になるんだと幼い頃から息巻いていたライナスの傍にいるためには、当然の成り行きだった。
全ては、ライナスを守るため。
物心ついたときから、その思いは変わらなかった。
それがいつしか友情を、あるいはもし肉親がいたなら彼らに抱いたであろう情さえ超えたものになっても、ディートハルトは鉄の鎧で心を閉ざし、ライナスの「親友」に徹した。
——ライナスが、伴侶となる女性ととうとう巡り合えたと、今まで見たこともないような顔でディートハルトに報告してくるまでは。
世界が足元から崩れる音を、聞いたような気がした。
その日から、ディートハルトの世界は、色を失った。