5. 名前のない感情
「ディート、ハルト……」
今教わったばかりの男の名を、繰り返す。
名を呼んだだけで人間の魂を縛ることはさすがに無理だが、実を言えば高位の魔族であれば、魔力を乗せて相手の名前を呼ぶことで一時的に支配下に置くことは可能だった。
だがメイリールはそれをディートハルトに明かすつもりもなければ、もとよりその力を行使するつもりもなかった。
名を呼ばれたディートハルトはしばらく何かを待つような表情をしていたが、やがて肩をすくめて言った。
「何かが食われた感じはしないな」
「だから……!」
まだその話をするのかとメイリールが眉を釣り上げると、ディートハルトがまた、ふっと笑ったような気がして、メイリールはまた、落ち着かない気持ちになった。
「俺は……メイリール」
相手にだけ名乗らせておくのもなんとなく気が引けて、メイリールも名を告げる。
「そうか」
そう言ってディートハルトは小さく頷くと、再び作業に戻ってしまった。
名を呼ばれなかったことに、メイリールは少しだけ物足りなさを覚え、そして一拍遅れてそれを自覚すると忌々しく内心舌打ちをした。
こうして、2人の奇妙な共同生活が始まった。
ディートハルトは相変わらず必要最低限のことしか話さないし、メイリールもそれに慣れていった。
何かというと子供扱いされることに最初のうちは腹も立ったが、次第に、時折それを心地よく感じている自分を認めざるを得なくなった。
そもそもどのくらいこちらに滞在するのか、具体的なことは何も考えないままに人間界へ飛び出してきたメイリールだったが、ディートハルトとの生活が思いのほか楽しく、魔界に戻ることはメイリールの頭の中から消えつつあった。
ディートハルトとの生活は、魔界でのメイリールの爛れた生活とは正反対の、規則正しく清らかなものだった。
日が登る頃に起床し、水を浴びて、仕掛けた罠の確認や木の実などを集めて食料の確保を行う。
帰ったら集めた食料を調理して食事をとり、そのあとは生活に必要な道具を作ったり修理したりして過ごし、日が暮れれば眠りにつく。
正直なところ、これまではやれ誰とくっついただの別れただのと、恋のトラブルが日常だったメイリールにとって、こんないきなり修道僧のような生活を強いられることが苦痛でないわけがなかった。
さらに悪いことに、なまじディートハルトの外見と声とがメイリールの好みであるばかりに、そういう意味で意識せずにいろというのも、なかなか難しい話だった。
——せめて、夜くらい、くっついて眠りたい……
最初の夜のような失態は2度と繰り返さないと心に誓いながらも、惹かれてしまうものは仕方がなく、メイリールは何度もディートハルトに接近を試みた。
ごく自然な流れをよそおって腕に触れたり、作業をしている背中に抱きつきたいのを堪えてそっと身体を寄せてみたり。
だが、それは毎回、さりげなく、だが確実にかわされた。
避けられている、ということが次第にはっきりとしてくるにつれ、ディートハルトが意図的にメイリールとの距離を取ろうとしているのだという事実がメイリールの心に突き刺さった。
——俺が、魔族だから? 男だから? 子供だから……?
与えられた寝床がわりの毛皮にくるまりながら、メイリールは夜な夜な考えた。
そのどれもが理由として十分に考えられる。
魔族にとって、恋愛対象に性別は関係ない。
メイリールは女よりも逞しくて美しい男に惹かれる性質だったし、別にそれ自体ごく普通のことだった。
だが、ディートハルトは人間だ。
魔界の常識など通用するはずもないことに、メイリールは今更のように思い至り、途方に暮れ、閉じた目には涙がにじんだ。
最初のうちは、身体が訴える寂しさを埋めたくて、だった。
全くなびかないディートハルトに、プライドが傷つけられたように感じて苛立っていたし、自分には価値がないのかと不安にもなった。
とにかく、今まで出会ったことのない種類の男なのは間違いない。
半ば意地になって、なんとかその瞳に自分を映そうと、躍起になった。
嫌われているわけではない、と思う。
少なくともディートハルトの目に、嫌悪の感情は読み取れなかった。
だが、この一見穏やかで寡黙な男の心の周りには、透明な壁のような、それ以上踏み込ませてもらえない地点が確実にあることを、メイリールは感じ取っていた。
——ディートハルトは、何を考えているのだろう。どう思っているのだろう……
2人の生活がひと月を数えるようになる頃には、メイリールはふと気がつくとそんなことを考えるようになっていた。
もちろん、ディートハルトの形の良い顎の輪郭や、衣服からのぞく肩や腕の男らしい色気に鼓動が速くなるのは変わっていない。
だが、それ以上に、ディートハルトの瞳には何が映っているのか、その胸のうちにはどんな思いが流れているのか、知りたくてたまらないのだ。
こんなことを誰かに思うのは、初めてのことだった。
意識しだしたら、途端にどう振舞えばいいかわからなくなった。
いつもなら狙った獲物を攻略するように、打算的に動けていた自分が信じられない。
側に寄ることさえ、ついこの前までなんのためらいもなくできていたのに、今はなぜか気恥ずかしくて、ぎこちなく距離をとるようになってしまった。
そうしているうち、メイリールはとうとうディートハルトの瞳を直視することすらできなくなってしまったのだった。
——なん、だ、これ……
経験したことのない奇妙な感情に、メイリールは振り回され、1日の終わりにはいつもぐったりとするようになってしまっていた。
物心ついた頃から、欲しいものは欲しい、それを手に入れるために真っ直ぐ向かっていく、そんなやり方しかしたことがない。
相手が何を見て、何を思っているのか、その世界を知りたくて、こんなにも焼けつくような気持ちになることがあるんだと、メイリールは初めて知った。
打算では、ディートハルトの世界には入れてもらえない。どうしたら、と思いながら、1日、また1日が過ぎ、洞窟の外の森では、夏の終わりを告げる虫の声が聞こえ始めていた。
「ねえ、ルークはどう思う」
メイリールは肩の上で羽繕いをするルークに話しかけた。
ディートハルトは毛皮やら骨の細工やらを街へ売りに、朝から出かけている。
その間留守を預かったメイリールは暇を持て余し、大きな樹の枝に座って遠くを眺めていた。
夏の間毎日照りつける太陽に晒されて硬くなった樹皮が、ちくちくと肌を刺激する。
メイリールの問いかけに、ルークがちらっと主を見上げた。
「どう思うって言われてもなあ」
しゃがれた声で、ルークが言った。
ルークをはじめとする守護烏は高位の魔族が従えることが多く、魔族同様、魔力を持たない種より遥かに長寿だ。
実際、ルークもメイリールと同じくらいの年月を生きている。
誰よりも長く一緒にいて、誰よりも自分のことをよく知っている、いわば兄弟のような、そんな存在だ。
初めて経験する、訳の分からない胸の痛みを相談するには恰好の相手だった。
「メイはどうしたいわけ? ほんとのところ」
羽繕いを続けながら、というよりむしろその片手間にメイリールの相手をするルークだが、いつもと何ら変わらないその雑な対応がむしろ心地いい。
何があっても態度を変えないルークは、どちらかというと感情のままに突っ走るタイプのメイリールとはいいコンビだった。
「どうしたいって、うーん……」
もっと、ディートハルトのことを知りたい。
自分のことにも、興味を持って欲しい。もちろん、触れたいし、触れられたい。
それくらいは、すぐに思いついた。
ただ、それ以上のこととなると、自分でも見当がつかなくて、メイリールは黙り込んでしまった。
見た目が好みで身体の相性が良ければなんとなく付き合ってみる、という関係しか知らなかったこれまでの自分と、今の自分とでは、立っている次元さえまるで違っているような気がする。
自分は、ディートハルトとどうなりたいんだろうか。
——どうなりたい、って……
ディートハルトとどうにかなりたい、と思っているのは事実である。
だが、それは意識に上るか上らぬうちにメイリールの羞恥心が耐えきれなくなり、口から悲鳴が出そうになって、メイリールは口を押さえて呻いた。顔が熱い。
「……」
ルークの生温い視線が頬に突き刺さる。
お互い長い付き合いであり、多くを語らずとも相手の考えていることが手にとるように分かってしまうのが、今の場合は辛いところだ。
やや行き過ぎた自分の感情を戒め、メイリールは気を取り直してもう一度考えながら、言葉を探した。
「ディートハルトの、いろんなことが知りたい……まずは、そこからかな」
だけど、とメイリールの声が萎む。
「そもそも、それすらどうやってすればいいのか、わかんないんだよ……」
正面切ってあれこれ詮索されるのを許すようなタイプには全く思えないし、かといってやんわり距離を縮めようとしても、今のところ全敗だ。
——どうしたら、ディートハルトに近づけるんだろうか……
頑なに心を閉ざす、その理由を知りたい。
踏み込み過ぎたと分かったときの、一切の感情を無くしたような男の表情を思い出し、メイリールはまだ初秋だというのにぶるっと身体を震わせた。