3. 人間の男
「あ、ったぁ……」
土砂降りの中、木立の中をできる限りの速さで駆け抜けるメイリールの前方に、見覚えのある洞窟が見えてきた。
忌まわしい記憶の地であるここに3たびくることになったのは、メイリールにとっても全く予定外の事態だ。
だが、贅沢は言っていられない。
他に雨宿りができそうな場所を悠長に探している余裕はなかった。
ルーヴストリヒトと天使は、メイリールとのトラブルのあったこの場所からは引っ越しているだろうから、今は誰も使っていないはず。
荷物とルークを濡れないように抱き抱えながら、メイリールは走った。
「俺……しばらく人間界へ行こうと思う」
そう告げた時のヴィンスの顔は、実に傑作だった。
とはいえ、ヴィンスが信じられないという顔をしたのも、無理はない。
ルシファーの息子の魔界追放という、魔界全土を揺るがせたニュースもまだ記憶に新しく、さらにはどこから漏れたのか、追放された息子はどうやら前から噂のあった天使と人間界で暮らすようだ、という話まであちこちで囁かれていた。
メイリールのルーヴストリヒトへの想いを知っていたヴィンスには、またやけを起こしたのかと思われても仕方のないことだった。
メイリールだって、もっといいやり方があるならそちらを選びたい。
だが、もともとあまり物事を深く考えることが得意ではないメイリールには、ストーカー化しかねないあの厄介な「お友達」から手っ取り早く逃れるのに、人間界へ姿を隠すのが今思いつく一番いい方法だった。
メイリールに考えを曲げる気がないのを察知した後も心配顔のヴィンスだったが、メイリールはそうと決めたらさっさと実行するつもりだった。
ここでぐずぐずしていたら、あの男にこの家まで探し当てられ、ヴィンスにも危害が及びかねない。
それは一番避けたいことだった。
自分がだらしない生活を送ることには抵抗のないメイリールだが、自分の引き起こした厄介ごとに大切な友人を巻き添えにしていいとは全く思っていない。
だから、自宅まで護衛を買って出ようとするヴィンスの申し出もきっぱりと断った。
あえて人通りの多い真っ昼間を選んでヴィンスの家を抜け出し、あたりを警戒しつつ、裏口からするりと自宅へ入る。
当面は戻ってこられないだろうことを想定して、それでも最低限必要そうなものだけかばんに詰めた。
後をつけられていないか確認しながら、念には念を入れて真っ直ぐ人間界に向かうことはせずに一度繁華街の人混みの中を経由して、とうとうメイリールは魔界を後にしたのだった。
全身ずぶ濡れでようやく目当ての洞窟に駆け込んだメイリールは、髪の毛からぽたぽたと雨が滴るのも構わず、その場で固まっていた。洞窟の中に、先客がいたのである。
「えっ……」
思わずつぶやいたメイリールの声に反応するように、洞窟の奥にいた人影が頭を上げた。
濃い栗色の髪はボサボサに伸びており、髭に覆われた顔はだいぶやつれて見えたが、よく見ればまだ若さの名残も感じられる、——人間の男だった。
確かに、ここは人間界だ。人間がいても、おかしくはない。
だが、これまで何度かここへ来た中で人っ子ひとり見かけたことのなかったメイリールは、あまりにも想定していなかった事態に、うまく反応することができなかった。
男は、メイリールが洞窟の入り口で立ち尽くしたまま動かないことがわかると、興味をなくしたように手元に視線を戻した。
男は、どうやら火を起こそうとしているようだった。
メイリールは、人間の男と鉢合わせしてしまったことにも、そしてその男が自分を見てもなんの反応を示さないことにも、驚きと、それからショックを受けていた。
自分の頭の角を見れば、人間ではないことがわかるはずだ。
それなのに、驚きも恐れもしないこの男は、一体何者だというのか。
若干面白くない気持ちを抱えつつも、メイリールは今、男が起こした火の方に気を取られはじめていた。
さきほど受けた衝撃が落ち着くにつれ、次第に濡れて身体にはりつく自分の服や、ルークが不機嫌そうな声を上げていることに意識が向く。
——身体、乾かしたい……
この人間がどんな男なのか、油断はできなかったが、最悪の場合でもこちらには魔力がある。
向こうが力に訴えてきても抵抗できると踏んで、メイリールは洞窟の奥へと足を踏み出した。
「……ここ、いい?」
黙って座るのはさすがに横柄すぎるような気がして、メイリールは男に声をかけた。
男はメイリールにちらっと目線を投げると、何も言わずまた炎をじっと見つめる。
とことん愛想の悪い男だ。
もうこの際何も言われなかったことは肯定と受け止めて、メイリールは軽くため息をつき、荷物とルークを降ろして自分は火のそばに腰を下ろした。
ルークは壁際へ寄ると、大人しく羽繕いを始める。
炎は魔族にとって親しい存在だ。
炎を見つめているうちに、心がほぐれていくのを感じる。
どうやら、自分が思ったよりも疲れているようだった。
ふと、メイリールの視界の隅に白っぽいものが映り、ぼんやりと炎を眺めていたメイリールは顔を上げた。
「……使うか」
男が、手に持った布を差し出していた。
これで身体を拭け、ということだろうか。
深く張りのある男の声は、心地よい響きだった。
「……あり、がとう」
無愛想で、こちらにはなんの興味もないと思っていた男の意外な行動に面食らいながら、メイリールは素直に布を受け取った。
乾いた布は、髪の毛や身体に残る水分をみるみる吸い取り、おかげでだいぶ不快感が改善された。
布はごわついていて硬く、自分が魔界で愛用していたものとはお世辞にも比べ物にならなかったが、今は何よりもありがたかった。
外は相変わらず雨がひどい。
次第に暗くなってきているところを見ると、もうすぐ夜になるようだった。
炎を見つめていると、急激に体が重たくなるような感覚に襲われる。
朝からずっと緊張していた反動だろう。
ルークの方を見やると、こちらは主より一足早く、背中の羽に頭を突っ込んですでに夢の世界へ旅立っていた。
ふわ、と小さいあくびをひとつして、メイリールは向かいに座って相変わらず火を眺める男の顔を盗み見る。
先ほどは髪の毛に隠れてよく見えていなかった顔が、炎に照らされて今ははっきりと見てとれた。
濃い眉毛は凛々しく、すっきりとした鼻梁に続く薄い唇は、今は硬く結ばれている。
歳の頃はいくつくらいだろうか。
青年と呼ぶには落ち着きがあり、成熟した男の色気も感じられる。
生気の感じられない虚ろな瞳はそれでも美しく炎を照り返し、もしこの瞳が生き生きとした光を灯したら、どれだけの美丈夫になるだろうと思わされた。
身体つきは戦う男のそれであったが、その表情、所作からは粗野なところが感じられず、それなりに地位の高い人間であったことがうかがえる。
こうして改めて見ると、最初の印象とはかなり違って見えた。
こうなると、メイリールの悪い癖が頭をもたげてくる。
眠気も手伝い、無性に甘えたくてたまらなくなってきた。
この逞しい腕に囚われて、その厚い胸板に顔を埋めたら、どんな感じがするだろう……そう思ったら、メイリールの身体にはあっさりと火が灯る。
「そっち、行ってもいい……?」
とっておきの表情で、メイリールは男に視線を送る。
視線がぶつかった先の男の目に一瞬怪訝な色が浮かんだが、また興味を失ったようにふいと視線を逸らされた。
それはもちろん、メイリールも計算済みだ。
拒否しないなら、こっちから行くまで。
この手の駆け引きには、メイリールは絶大な自信を持っていた。
四つん這いになって男の隣へ移動し、腕にそっと頬を寄せる。
久しぶりに感じる他人の体温に、思わず熱いため息が漏れた。
だが、男はメイリールを払いのけこそしなかったが、なんの反応も示さない。
焦れたメイリールは、少々大胆な行動に出ることにした。
あぐらをかいて座る男の膝に乗り上げて、正面から男の瞳を覗き込む。
「ようやく、こっち見てくれた」
微笑んで、メイリールは両手で男の顔をはさんだ。
男の淡いグリーンの瞳に射られ、メイリールはゾクゾクするような興奮を覚える。
ゆっくりと顔を近づけると、メイリールは男の唇にそっと自分の唇を重ねた。
乾いた男の唇を潤すように、何度も何度も、角度を変えて口付ける。
だが、やはり男の腕が自分を抱き返すことも、口付けを受け入れる様子もないことに、やがてメイリールは苛立ち半分悔しさ半分で顔をあげ、男を睨みつけた。
——これで落ちない男なんて、1人もいなかったのに……!
これまでメイリールが籠絡してきた男たちは、みんなさらさらと流れるその綺麗な黒髪と、月色の大きな瞳をほめてくれた。
小首を傾げ、じっと見つめて瞬きをすれば、みんな物欲しそうな顔になってくれた。
自分の魅力は、自分が一番よく知っているつもりだ。
それが相手にすらされないなど、メイリールのプライドにかけて、許せなかった。
そんなメイリールの胸中を知ってか知らずか、一瞬、男の表情が少しだけ緩んだように見えて、メイリールは瞬きをした。
男はだらりと下げたままだった腕を上げると、メイリールの頭にそっと触れ、まるでぐずる子供をあやすように撫でた。
びっくりして固まったままのメイリールに、男は呟くように言った。
「もう日が暮れた。お前はもう寝ろ。俺も寝る」
呆気に取られて動けないメイリールを、男は片腕で軽々と抱え上げると、空いている方の手で壁際に寄せてあった男のものと思われる荷物の中から、毛皮を何枚か出した。
それを持ち、メイリールを抱えたまま、男は洞窟の奥に向かって歩き出す。
奥には、横へ折れるように広がるこじんまりとした空間があった。
そこをメイリールの寝場所として使わせようということだろうか。
「一緒に、寝て、くれないの……」
毛皮を床に敷いて、その上にメイリールを降ろし、布団がわりの布をかけて立ち去ろうとする男に、メイリールは思わず、すがるように言葉をかけた。
身体に灯っていた火は、もうとっくに萎んでいる。
ただ、どうしてか、置いていかれることがすごく嫌だった。
本当に、幼い頃に返ってしまったような、そんな気持ちがした。
男は無言で少し目を細めると、もう一度メイリールの髪の毛を撫でて、そのまま立ち去ってしまった。
自分の誘惑に全く動じなかった男に対しての気恥ずかしさと、自分は今何者でもない、ただのひとりの魔族になってしまったことを実感した心細さに、メイリールの目に、少し涙が滲む。
炎の立てるパチパチという音に耳を傾けるうち、メイリールはいつしか眠りに落ちていった。