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山羊に語られる未来

作者: 伊藤 楓

 森の中で眼の前に一人の男が現れる。

 男は結構な歳に見える。少し長めの真っ白な白髪がその頭にはあり、顎には山羊のような白く長い髭が蓄えられている。じっと、こっちを見ている。僕も見ている。

 僕は彼の山羊のような白く長い髭を見ていると、段々とその男が本当は人間ではなく山羊なのではないかと思えてくる。そう思っていると彼はゆっくりと前に倒れ、そして、手を地面に付けて四つん這いになる。そして、手だと思っていたものは前足になり、指は無くなり蹄に変わる。服は無くなり、全身から白い毛が生え、短い尻尾も生える。しばらくして、メェーと鳴く。何度も鳴く。

 何度か鳴いているうちにそれが「メェー」ではなく、ちゃんとした言葉を発しているんだと思った。僕は彼の言葉に聴き入る。

 「随分、傷ついているんだね。しかも疲れている」

 僕は頷く。「あなたは山羊ですか?」

 「すごくストレートな質問だ。でも、君がそう思うならきっと私は山羊なんだと思うよ」

 彼の声は音源がなく、どこからともなく聴こえてくる声のように聴こえる。

 「僕はきっとあなたが山羊なんだと思います。僕が知ってる限りで一番あなたに近いのは山羊です。でも、僕が知ってる山羊は話したりしない」

 「ほぅ。君の知ってる限りの話なら君の知らないところで山羊はしゃべるかもしれないね」

 僕はそれを聞いて変に納得してしまう。彼の話し方や声の質には僕を妙に納得させるところがある。

 さて、と彼は言う。「さて、君は何をしにここに来た?」

 僕はその理由を考えようとしたが何も思い出せない。僕は僕の目の前で話す山羊と出会うまでのことが全く思い出せない。僕は自分がまるでその山羊と出会った時点で突然、存在を現したもののような感じがする。今までそこになかったのに突然そこに現れたもの。大体のものは何か起因があって、過程があって存在を現す。でも、僕の場合は起因も過程もない。ゼロから1とか2とか、いくつでもいいけど、とにかくゼロから。

 「分からない」と僕は答える。「何も思い出せない」

 「かわいそうに」と山羊は同情するように言う。

 山羊は突然、右の前足で森の床を踏み鳴らす。タンッと音がする。ちょうど木槌で土の地面を叩いたような音だ。

 「君たちの言う山羊について教えてくれないかい?」

 僕はよく分からないがとにかく山羊について話す。

 こんな森の中にいるイメージはあまり無いです。広々とした牧草地にいて、ゆっくりと動きます。羊よりも数は少ないんじゃないかなあ。ミルクは牛乳に比べて少し臭みがあります。好む人は好むし、嫌いな人は嫌いだし。そんな対照的な味がするんだと思います。山羊座と言うのが十二正座に組み込まれていて、確か夏生まれの人がそれに該当すると思います。

 「君たちが好きな『定義』と呼ばれるものだね?」

 僕は軽く頷く。「僕たち人間はルールを作るのが好きな生き物なんです。そのルールを

守るために人々は言い合いをしたり、時には争ったりします」

 山羊はにっこり微笑んだ。僕は彼が何故微笑んだかが全く分からない。

 「山羊についてもう少し聞かせてくれないかい?」

 僕はまた頷いて話を始める。

 確か西アジアが原産だったと思います。そこから遊牧民によって各地に広められたはずです。そして、紙を食べます。小さい頃に僕ら日本人は大体、山羊が紙を食べる歌を習います。そして、歌います。

 「歌ってくれないか?」と山羊は言う。僕は少し戸惑ったが不思議と彼に聴かせてあげようと思える。

 

しろやぎさんから  おてがみついたくろやぎさんたら  よまずにたべたしかたがないので  おてがみかいたさっきのてがみの  ごようじなあにくろやぎさんから  おてがみついたしろやぎさんたら  よまずにたべたしかたがないので  おてがみかいたさっきのてがみの  ごようじなあに


山羊はそれを静かに聴いていた。そして、聴き終えて笑顔を見せる。

「なるほど。我々は確かに紙を食べる。でも、知らないんだね。我々は紙を食べると、その紙に書かれていることを全て脳にインプットしておくことができるんだ。字であっても絵であっても。人間は我々が字を分からないと思い込んでいるんだろうが、我々はしゃべれないだけであって、理解できないわけじゃない。しかも、もしかしたらしゃべれないと言うのも人間が思い込んでいるだけかもしれない」

僕は彼の言葉の意味を理解しようと努める。漠然と分かったような気がする。とても曖昧に。でも、何故か納得してしまっている自分がいる。僕らが思い込んでいるだけで、実はそうではないものがたくさん世の中に存在するのだろうと思う。

そこで、僕は気付く。先程まで何も思い出せなかったが、僕は山羊のことに関する知識を思い出し話していたことを。そして、山羊の歌の歌詞もきっちり憶えていることを。僕は突然、ここに現れたわけではなく、起因と過程があってここにいるのだろうと考える。

 「あなたは山羊として僕に言及しました。やっぱりあなたは山羊なんですね?」

 山羊は困った顔をする。

 「うーん。君を怒らせるかもしれないけど、私は山羊であり、山羊ではないんだ。君は自分が人間だと言いきれるかい?そう思っていたけど、よく考えるともしかしたら人間の姿をしている他のものかもしれないと少しは考えたりしないかい?」

 「いいえ、考えたこともありません」と僕はきっぱり答える。

 「考えたことがないからだよ」と山羊は僕を諭すように優しく言う。

 森の中を一陣の風が通り抜けて、葉が爽やかに音を立てる。木々の生い茂ったこの森にそんな風な爽やかな風が吹くことを僕は初めて知る。そして、気付けば鳥たちの囀りも聴くことができる。とても平和な気持ちになる。でも、その平和さに僕は不安を覚える。体が震え、心臓が高鳴る。辺りは随分涼しいのに自分が汗ばんできたことを感じる。

 山羊はその僕の様子を見て言う。

 「どうやら記憶が少しずつ戻ってきたようだ。何もかも思い出すのも時間の問題だね。君はそれらを思い出すべきだ。そして、君は無事に帰らなくてはならない」

 「無事に?」と僕は聞き返した。聞き返しながら僕はその質問の答えが自分で分かっている気がした。もう、僕は色んなことを思い出し始めている。僕は無事に帰らなくてはならない。

 「そう、無事に」と山羊は言う。「君には待ってる人がいる」

 「何故、そんなことまで分かるんですか?」

 山羊は少しすまなそうな顔をした。

 「君の胸元に大事そうに入っていた手紙を私は食べてしまった。それで色んなことが分かったよ。君について」

 僕は自分の胸元を確かめた。僕はがっちりとした上着を着ていてその上着の内側にしっかりとしたポケットが付いていた。その中を確かめる。そこにあったはずのものが無い。僕はさっきまでそこに手紙が入っていたことをはっきりと思い出す。

 「本当にすまないことをした」

 山羊は深々と頭を下げた。僕は溜息を一つ付く。

 「いいですよ。もし、あなたがこんな風に僕に話しかけなければ僕は色んなことを思い出さなかったかもしれませんし。もしかしたら、僕は無事に帰れなかったかもしれない」

 山羊はそれを聞きながら、頭を上げる。彼の表情はこの上なく優しく明るいものである。そして、にっこり笑う。僕もにっこりと笑い返す。

 少しの沈黙が流れる。お互いはお互いに色んな物事を整理しているようでもあり、あるいは何も考えず時間を共有しているようである。僕はその両方だった。

 「そろそろ帰るかい?」

 「そうですね、そろそろ」

 「さっき会ったばかりなのに寂しいよ」

 「ええ、僕もです。でも、僕には待ってる人がいる」

 「そう。君には待ってる人がいる」

 そう言っている山羊の姿が少しずつ色を失っていく。ゆらゆらと揺れ始めている。

 「じゃあ、お別れだね」と山羊は寂しそうに言う。「君は無事に帰れるよ」

 「はい」

 目の前の山羊はほとんど見えなくなっている。薄い靄のように空間に佇んでいる。

 「あなたは山羊ですか?」

 「きっと山羊だよ」と言って山羊は消えた。



 眼を開けると一匹の山羊が僕の胸元でムシャムシャと何かを食べている。僕は驚いて起き上がったが、僕のポケットにあった恋人からの手紙はすでに山羊に食べられてしまった。

 僕は「仕方ないなあ」と一言言う。山羊は何事も無かったように僕の方をじっと見ていた。

 僕は現状を把握する。僕は森の中で倒れていた。よく敵兵に気付かれなかったものだ。僕はもう諦めていた。このままここで僕は終わっていくのだと思っていた。でも、僕は無事帰らなくてはならない。ニッポンに帰らなくてはならない。僕には待ってる人がいる。

 僕は歯を食い縛った。

 そして、僕は森の中を慎重に、でもできる限り急いで歩き出した。

 僕は自分が無事に帰れることを知っている。

 それは僕が知らないだけでとっくの昔に決まっていたことなんだと思う。

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