ボクのこと、忘れないで
「くっそ、こいつ!」
路地裏から襲い掛かってきた魔物の一匹が、タケルの左腕に噛みついた。鋭い牙で肉が裂け、鮮血が飛び散る。激痛に顔を歪めながらも、彼は返す刀で魔物を切り伏せた。
咄嗟のことだったため刃を当てる角度が悪く、根元付近から刃が折れてしまう。それでもダメージは充分だったようで魔物は動きを止めたが、牙が食い込んだ左腕の傷も深かった。
「大丈夫ですか!」
カノンはタケルの側に駆け寄ると、傷口の状態を確認する。治療薬を使おうと考え腰に手を伸ばして──それが、最後の一本であることを把握した。
「すいません。どうやらこれが、最後の一本みたいです」
カノンは治療薬を塗った後で、傷口を包帯でぐるぐる巻きにした。
「悪いね、お嬢ちゃん」
「……いいえ、これくらい、わけないです」
「それはそうと、ぶっちゃけ、戦況はどうなのよこれ?」
痛みが軽くなった左腕を擦りながら、タケルが周辺を見渡した。深夜から始まった魔物との闘いは、すでに数時間が経過。太陽は山間から顔を覗かせ、薄明を地上に投げていた。しかし、朝日の美しい煌めきとは対照的に、ブレストの街は荒廃していた。
火災による煙が所々で上がり、倒壊した家屋や、道端で息絶える犠牲者の姿が見受けられる。立ち込めている煙の匂いと負傷者の血の匂いが混じりあい、陰惨な空気をかもし出していた。それでも、さすがは冒険者の街とでもいうべきか、犠牲者の数は思いのほか少ない。とはいえ襲来する魔物の群れは途切れることを知らず、犠牲者は確実に増え続けていた。果たして何時まで持ちこたえられるだろうか。また、火災が次第に広がっているようなのも気がかりだ。
「残念ながら、そろそろ限界ですかね」
悲痛な顔で呟いたカノンに、タケルも頷きで返した。
「俺も同感だ。色々と、覚悟を決めておかねばならんのかもしれん」
その時、新たな脅威がこちらに迫っているのをカノンが感じとる。
一拍遅れて気がついたタケルも、周囲に視線をめぐらした。
「囲まれちまったみてぇだな……。数は、三つか四つ。……いや。どうやら、そんなもんじゃなさそうだ」
舞い降りてきた魔物の姿を視認すると、タケルは折れてしまった刀を捨てさり脇差しを抜いた。そうですね、と苦笑混じりに呟き、カノンも魔術師の杖を両手で構えた。
「さて……と。最後の足掻きを、させてもらいましょうかね!」
カノンとタケルが背中を預けあい臨戦態勢を整えたとき、異変は起こった。包囲の輪をじわじわと狭めてきた魔物たちが、突然硬直するように動きを止めたのだ。
そのまま糸が切れてしまったように、前のめりになって倒れこむと、輝く光の粒子となり雲散霧消してしまう。
「なんなんだ、これは」
きょとんとした顔でタケルが顔を上げると、柔らかな金色の光が降り注いでくるのが見えた。雲の切れ間から陽射しが射すように、不思議な暖かさすら感じられる光が、ブレストの街全体を包みこんでいった。
幻想的な光景ね、とカノンは思う。誰かの、慈しみの心を感じるようだとも。
魔物が消えてしまうという不可思議な現象は方々で起こっているようで、そこかしこから歓喜の叫びが聞こえてきた。
「いったいこれは、どういうことなんだ?」
言いながらタケルは気が付いた。先ほど負った左腕の傷が消えて無くなっていることに。それだけではない。これまで負った傷の全てが、跡形も無く消え去っていた。
「傷が……」
目を丸くしたカノンに頷く。
「ああ、無くなっちまった。さっぱりわけがわからんが、どうやら、俺たちは勝ったらしい」
乾いた声で笑いながら、脱力したように座り込んでしまうタケル。
「そう、みたいですね」
「に、してもだ。なんで魔物たちは消えた? 突然降ってきた、この光のせいなのか」
街全体を覆い隠している、幻想的な金色のカーテンに目を配る。
「そうとしか、考えられません。自然ならざるものは、消え去る運命──ということなのでしょうか」
でも、とラガン王国がある方角に目をやり、言い知れぬ不安をカノンは感じていた。
* * *
魔族を打ち倒した直後、浮遊都市全体が大きく傾いた。魔力による保護を失ったことで、街の外周部分から崩落が始まったのだろう。
「ここから地表までかなり距離がある……! 間に合うか!」
リンの声に頷くと、全員が走り始める。
だが、色を完全に失い、真っ黒に変色した浮遊石を見つめるルティスの足は動かない。
「ルティス?」
不安げに足を止めたコノハに微笑で応えると、ルティスも駆け出した。
「いいえ、なんでもないのですよ」
さようなら、兄さん。父さま。それから――五百年もの間抱え続けてきた、私の後悔。祖国の姿も、これでもう見納めなのね。様々なしがらみが、背中から追いかけてくる。が、断ち切るように唇を噛んで、ルティスは走り続ける。もう二度と、振り返ることは無かった。
王城を飛び出した一行は、亀裂が入り始めた大地の中、無数の瓦礫を縫うように飛び移って移動する。来た時と同じようにリンとコノハが飛べない二人を抱えると、そのままラガンの大地を脱出した。
地面に降り立ち振り返ると、ほどなくしてラガン王国の大地がブレスト郊外の地表と接触する。地鳴りのような激しい音を立てながら都市の表層は崩壊し、やがて斜めになって止まった。
五百年の永き眠りから目覚めた王国は、ついにその役目を完全に終え、再び永い眠りについた。もう二度と、覚めることのない眠りへ──。
* * *
その変化に、一番最初に気づいたのは、シャンだった。
ルティスの身体が淡い光に包まれ始めると、後ろが透けて見えるほど、彼女の姿が色味を失い始める。
「ルティス、その体……」
「もう、時間みたい。そろそろお迎えが来たようです」
シャンの問いに、ニッコリと微笑みを返すルティス。
「ごめんなさい。ボクはもう一つだけ、嘘をついていました。ボクが人間の女の子に戻る、なんてことはありません。ラガンの魔力が造り出した自然ならざる存在の全ては、この国と一緒に消え去る運命にあるのです」
「そっか。やっぱり、それも嘘だったんだ」
涙混じりの声で、それでも、覚悟していたようにコノハが応えた。
「はい」
「だってさ、普通の女の子に戻る人が、あんなに辛そうな顔をしているわけがないもん」
「はい……」
「私、ずっと前から気付いてた。ルティスは嘘をつくとき、相手の顔を真っすぐ見ない癖があるから。そういう癖がある人、私、あなたの他にも知っていたから」
コノハの脳裏に、死んだ祖父の姿が蘇る。
「でも、今回の嘘だけは許さない! ……だって、私と約束したじゃない。一緒に帰るんだって、私と約束したじゃない!!」
悲痛な彼女の叫びに、ルティスは辛そうな顔で首を振った。
「ごめんね、コノハ。……でも、それはダメなのです。これが、ボクの辿るべき道なのですから。ボクは元々、この世界から消えるべきだった存在」
それからルティスは、みんなの顔を順々に見渡した。全身を包む光は益々強くなり、半面、彼女の姿はどんどん薄くなる。
「リン。あなたがボクを受け入れてくれたから、今の生活が始まりました。とても強くて、毅然としていて、でも……ちょっとだけ、弱いところを見せるあなた。痛みを知っているからこそ、誰にでも分け隔てなく接する優しさが、ボクの心の拠り所でした。これからも優しい人でいてください……と言いたいところですが、無理をし過ぎないように。どうか、時には自分のことも、いたわってあげてくださいね」
「ばかやろう。また勝手に決めやがって。なんでもかんでも一人で背負い込みやがって……」リンが唇を噛みしめる。
「シャン。弟のためであれば、どんな困難に対しても立ち向かっていけるのが、あなたの強さ。ボクにもシャンと同じだけの強さがあれば、この世界の景色も、もっと違ったものに見えていたのでしょう。でも、たまには立ち止まって、仲間を頼ってみてください。そうすることであなたは──今よりももっと、強くなれるはずですから」
「リンの言う通りですよ。全員が顔を揃えて戻れないことを、リリアンやレンにどう説明したらいいんですか?」いつものように皮肉を言いつつも、シャンはルティスと目を合わそうとしない。
「オルハ。……物静かだけれど、誰よりも強く、そして、みんなを優しく見守ることができる、柔軟性と包容力を持っているあなた。聡明なあなたはもうとっくに気づいていることでしょうが、リンもコノハも、ボクと同じで思ったより強くないんです」
そうしてえへへ、と自虐的に笑ってみせるルティス。
「ボクみたいに、誰かの心が折れそうになった時は、そっと……彼女たちの力になってあげて下さいね」
「……後日談というのはですね、みんな揃っていなければ、意味がないんですよ」
いつも柔和な笑みを絶やさないオルハも、いまばかりは涙を流していた。
「最後にコノハ。ボクとたくさん遊んで、たくさん話をしてくれてありがとう。あなたは、この世界でできたボクの最初の友達。ボクの心が折れそうになった時、いつもあなたが隣に居て支えてくれたから、最後まで頑張ることができました。本当にありがとう。あなたのことを──ボクは絶対に忘れません」
「──だよ」
一様に俯き、涙を流しているそれぞれの顔を、もう一度ルティスは見渡した。
「大丈夫。ちっとも、寂しくなんかないよ。一人で消えるはずだったボクの運命を、変えてくれた仲間がここに居るから。……だから、最後は笑ってお別れです」
「嫌だよ……!」
コノハの嗚咽が聞こえる。
「そんなの嫌だよ……それに……、寂しくないなんて嘘だよ! だって。だってルティスは……そんなに泣いてるじゃない!!」
コノハの叫びに、ルティスは知らず知らずのうちに自分が泣いていることに気がついた。視界が涙で滲んで、よく見えない。
その時、ちらりと雪が舞い降りてきた。この地方に、冬がやって来たことを告げる粉雪。
「コノハ……」
「いなくなるなんて言わないでよ! そんなの嫌だよ! ……ルティス!!」
コノハが必死に両手を伸ばす。
しかし、空から舞い落ちる雪にかき消されるようにルティスの姿が見えなくなると、彼女の両手は虚しく空を切った。
──ありがとう。
それが──ルティスが残した最後の言葉となった。彼女の頬をつたい零れた一筋の涙が、大地の上に小さく染みをつくった。
コノハの叫びが、雪舞う空を引き裂いていった。
こうして、冒険者グループ『ヒートストローク』と不思議な少女『ルティス』が綴った三十日間弱の物語は、幕を下ろした。
柔らかな金色の光と雪が降り注いで、四人の周囲をゆっくりと包み込んでいった。
ラガン王国第一王女。アデリシア・ルティス・フィンブレイド。いま──ここに、永眠す。




