ひとつめの懸念事項
結局リンは、布団に潜り込んだ後も、殆ど眠れないまま朝を迎えた。
あれから散々悩んだ挙句、昨晩聞いた話を、オルハとシャンの二人にのみ伝えた。シャンは驚いた顔をしながらも、「警戒しましょう」と同意を示し、オルハは普段と変わらぬ冷静な顔でただ頷いた。
コノハに対しては、遺跡周辺に居るやもしれぬ、魔族の件のみ伝えておいた。
僅か二日ほどの間で、コノハの情はすっかりルティスに移ってしまっているし、加えて彼女は感情が直ぐ表にでるタイプなので隠し事ができない。ルティスに対してぎこちない対応をされた日にはいささか不味い。
ルティスが魔族としての素性を隠していたとしても、あるいは、全てが自分の勘違いであったとしても、みんなが疑いの眼差しを向けている、と悟られることにメリットは存在しないだろう。
禁忌の場所にたどり着くまでの道中は、おおよそ半日といったところ。野営をするための準備と、数日分の食料とを持っていよいよ出発だ。
懸念事項の一つ目。
遺跡周辺の森で目撃されたという魔獣とは、意外とあっさり遭遇できた。
鬱そうと生い茂る森の中に入って数時間もした頃合だったろうか。木々の隙間に身をひそめていた『それ』は、唐突に襲い掛かってきた。
老人の顔にライオンの胴体。背中に一対の蝙蝠の翼を持ち、蛇の尻尾を持つという禍々しい姿。魔術によって生み出された合成獣のひとつ、『マンティコア』だ。
高い知性を持ち、強い魔力をも兼ね備えた難敵ではあったが、慎重に戦えばヒートストロークの一行が遅れをとる程の相手でもない。
リンが果敢に接近戦を挑んで魔獣の攻撃に対して矢面に立ち、シャンは追撃する機会をうかがいつつも支援と癒しの魔法に集中。その間に、オルハの弓とコノハの魔法による遠距離からの攻撃が、確実に魔獣の体力を奪い去っていく。
第一、魔獣の魔法による攻撃がリンに致命傷を負わせられない時点で、戦いは既に雌雄を決しているも同然だった。
ライオンの爪による重い一撃も、牙による噛み付きも、段々と勢いを失い──退路を塞ぐように接敵してきたシャンに矛先を変えるも、やはり標的をとらえるには至らない。
やがて魔獣は断末魔の咆哮を上げ地に落ちる。十数分に渡る戦いは、ここに終結した。
「いたたた……」
それでも、危険な魔獣と正面から渡り合ったリンは、無傷という訳にはいかなかった。魔法で開いてしまった傷口は、シャンが癒しの奇跡を神に祈り治療した。
修道僧であるシャンは、素手による格闘戦闘能力を持っていると同時に、神に祈りを捧げることにより様々な奇跡を願うことができる。負傷者の傷を癒したり、怪物からの攻撃を防ぐ障壁を展開したりと、パーティのサポート役を一手に担う存在だった。
「魔獣の正体がマンティコアとは、少々意外でしたね。人工的に造られた魔獣であるマンティコアが、人里にほど近い森の中に生息しているとは少々考えにくいのですが」
塞がったリンの腕の傷を確認しながらシャンが言う。
合成獣であるアンティコアは、確かに魔術で生み出された産物なのだが、生成技術の大半は遠い過去の時代に失われてしまっている。現在においては同じ魔獣を作り出すのは非常に困難であるし、たとえ再現できたとしても粗悪品にしかならないだろう。
どう考えても、人里近い場所に出没するような魔獣ではない。この事実は、マンティコアが、何者かの手によって放たれた可能性が高いことを、暗に示していた。
間髪入れずに魔族による襲撃があるんじゃないかと一行は警戒を強めたが、以後、何物かと遭遇することはなかった。
◇◇◇
森を抜けると開けた平原に出る。残暑を感じさせる、じめっとした湿気をおびた風が頬を撫でるなか、草地の上を進んで行くと、やがて小高い丘陵地が見えてくる。丘のふもと、その一角に、巨大な扉の姿が見えた。大きさは、人の背丈の三倍ほどはあるだろうか。
光沢のある、黒い石材でできた重厚な扉。想像以上の大きさに、初見ではないリン以外の全員が圧倒されていた。
そして、扉の中央部分に掘られていたのは、ルティスの手首にあるチップに浮かんでいるものと同じ紋章。
やはり間違いなさそうだな、とリンは思う。
「……罠があると危険ですから、合図をするまで近づいてはダメですよ」
遺跡の探索は、しかけられた罠を発見し、また解除するスキルに長けた盗賊の独壇場だ。オルハは扉の側まで警戒しながら近づくと、扉と周辺の探索を始める。見て触れて時には軽く押してみたりと、視覚と触覚を頼りに丹念に調べていく。
その間、手持ち無沙汰になったリンたちは、オルハの作業をただ見守っていた。はしゃいでいるのは、ルティスの手首を握り締め、宝石と扉の紋章を対比させて歓声をあげるコノハくらいのもの。
五月蝿いですね、と言わんばかりにシャンが眉をひそめて胡坐をかいた。
一通り調査を終えたのか、オルハは立ち上がるとみんなの方に顔を向けた。
「……そうねぇ……罠はないみたいねぇ。ただ、扉を開けるためには何段階かに渡ってかけられている鍵を外さないとダメみたい。なかなかに手の込んだ仕掛けだわ」
オルハいわく、複数の仕掛けをある決められた手順で操作し解除していく必要があるようで、一つでも順番を誤ると、全て振り出しに戻ってしまうらしい。
眉間に深く皺をよせ、なおも作業を続けるオルハ。こんなに真剣な表情をみせる彼女を、久しく見た記憶がないな、とリンは思う。
幾度となく失敗を繰り返したのだろう。十数分にも及ぶ格闘の末、扉の仕掛けは解除された。
「おお~」という感嘆の声がコノハから漏れる。
「……でも、問題はここからよ」
「え、どういうこと?」
「……魔法の鍵が、かかっているの」
オルハが扉を押してみるが、動く気配はない。
「解錠の魔法を、使えばいいの……あ」
コノハの声と同時に、全員の視線がルティスに集中した。
「血の封印」
「……そういうことです」
オルハの声に応じ、ルティスが扉の側に立ち手のひらをかざしたその時だった。
〝ヴン……!〟という音とともに、扉全体が淡い光を放ち始めた。
おお、とコノハが歓声をあげる中、ゴゴゴ……と先ほどまでびくともしなかった扉が開いていった。
「ルティスに反応して扉が開いた? やはりこの扉は師匠が言うように、血の封印とやらで封じられていたみたいだな」
リンは呟きを落とし、同時にこう思った。ということはつまり、ルティスは封印を施した者たちと何らかの繋がりがあるということ。
そんなリンの不安を他所に、数百年閉ざされ続けた扉が開いていく。それはまるで、ルティスの帰りを待ちわびていたかのように。