第四話 追憶
――かつて、その時。
己は何の変哲もない農民の子であった。土地は痩せていたが、例え豊穣な土であったとしてもその分だけ税として献上をする必要があったため、他の村とも貧しさの具合で言えば極貧という点で同じであった。
夜明けと共に父母と田へ向かい、夜明けまでいるのが日課であった。妹が産まれるとその世話も課せられた。
母は天を見上げていた。父は不機嫌に鍬を持っていた。妹は泣くことすらなく己の人差し指を握っていた。父から殴打を浴びる母の絶叫は、夜は不気味な声色に変わっていた。深呼吸をすると宙に舞う土埃に口内がざらついた。己もよく父から殴られた。
幾年も天が曇り、雨が降らぬ日々が続いた。それは思い返せば日が傾き夜が更けるように、ある種の予兆を出しながら忍び寄った。夜露を当てにして地に這い出てきた蚯蚓が干乾びていくのと同様醜下は絶命していった。
税を上げるお触れが出された。当時は知らなかったが、その年の凶作は国の全てに及び、朝の蔵も空が目立つようになったのである。贅の質を落とすことを迫られた美貴は、その代わりに醜下の命を差し出した。
不作は人為による飢饉へと落ちた。
飢えの波は村々を飲み込み、海の底へ底へと沈めてゆく。時は夏。こけた躰に注ぐ熱射に日の出から入りまで死人が続出した。無気力に家や木の陰に座っているだけだった。
噂が飛び交った。
近隣の村々が天へ手を伸ばした。近隣の村々の男たちが集結し、一揆の軍勢として美貴の蔵を襲ったという。翌日届いた報は当然の帰結であった。集結した数千の醜下の軍勢は僅か数十の美貴に葬られたというものである。
美は知であり、力である。
美貴とはその美しい外見に見合った知能と膂力を兼ね備えた存在である。あらゆる事柄において一の美貴は数十の醜下を凌駕する。名実共に貴き者。それが美貴だ。
故に、一つの美しき者の命は百万の有象無象よりも尊い。母はいつまでのかつての美貴の助けを待っていたようであるが、とうに忘れ去られているだろう。
無知無力を悟らされた者どもの絶望の怒りは、飢えの苦しみに醸成され内へと向けられる。
ある者は鉈を取った。ある者は鋤を取った。すでに野も山も、食せる実や草や蟲は刈りつくされていた。限られた糧を巡り、そして糧そのものを新たに生むための、共喰いが始まった。
父が妹に目を向けた。
本能によるものか、これまで見向きしなかった母が咄嗟に庇ったが、殴り殺された。どんよりと泥の沈殿したかのような目で我が子を絞める父と、顔を赤黒く変色させた妹、その傍らに転がる母。
父の背を見ながら、存在を消すように隅で膝を抱えていた己は、静かに、影が伸びるように立ち上がった。壁に立てかけてあった鋤を取った。そして、背を丸めて一心に妹の首を絞める父の、その首筋を――。




