第三話 血刀
翌朝、牛車に乗ったナリトを護衛して別根院へ戻る。その男は都から醜下の供回りを二人連れてきていた。
昨日の丑三つ時に別根院から至急の使いが訪れ、エミは二三の部下を連れて院へすでに発っていた。使いの者が掲げる紋は飛翔する火の鳥で、それは領主在真シウミから直接の報せであることを物語っており、緊迫した何かがあったことの証左である。故に、美貴を護衛する一団の中に、彼らの長の姿はない。
今日も空が熱い。どろどろと濁った汗が噴き出ている。酷く足が重い。
エミが率いる隊に新たに京の美貴が加わった。けれど、それで何か変わる分けでもない。一刻も歩けばそっと耳元で囁く声が聞こえてくる。灼熱にいまの苦しみを思い、未来の過酷を見て、過去の地獄を思い出す。もう足を止めてしまってもよいではないか。この人を殺す炎暑はあるいは世界の最後の慈悲なのではないか。
昨日の貴き者の頬に伝うものは、己に何か致命傷を与えたようであった。鎧は怠惰と諦観の重みを加えて、重く、重く。倒れてしまえば楽になる。横になって日に焼かれるままにしていれば、きっとこれまでにない幸福を得ることができる。誰も己のことは見ていない。見ていたとしても、誰が興味を示すだろうか。
視界がぼやけ、現実が遠くなるなか、最愛の姉の笑顔想いだす。
美しい女は、足が止まることを許してくれない。何もよりも残酷である。生きるのか、死ぬのか。苦しいのか、逃げたいのか。負の感情が躰中を巡る。何かを求めていた。このまま絶望に朽ちていくのは嫌だと思った。現状を変えてくれるものを。殺すなら、殺してほしい。じりじりと焙られるいまを変えてくれる何かを。
そうして、道の先にそれを見た。
それは当初、黒の点であった。影が何百、何千も重ね合わせられたかのような、朧げでありながら確かな存在感を持って異質さを周囲に放っていた。
それを見たのは己だけでなかった。前を歩く一団の誰もが一目見て立ち止まった。
異常に冷たい風が一団の横を駆け抜けた……気がした。恐怖とも畏敬とも取れない感情をそれに抱いていることに気づいた。それは徐々に近づいてくる。
互いの顔が視認できる距離になると、影ではなく黒色の鎧であることを理解した。その鎧は一寸の隙もなく全身を覆っていて、正体は様として知れない
弛緩した空気が一団に流れた。異様で不気味な怪物を、悪夢から覚めるように現の針が想像の膜を突き破り晴天の元に曝け出したかのような感覚である。
目の前の黒は正体不明であるものの、単独あることは明らかで、そうなれば配下のいない醜下の可能性が高く、美貴たるナリトを護衛する自分らが憶する必要もない。
いつの間にか黒鎧は駆けていた。こちらへ。絞り切って放たれた矢のように、駆けたと思うと同時に、もう目の前にいた。
――赤が宙に散った。遅れて先頭にいた兵の首が舞った。銀に輝く剣は血に濡れることを構うことなく、次の獲物へと振り下ろされた。
黒鎧が殺す、殺す。
二人目の兵は一同が驚愕の淵のいる時に脳天から真っ二つに裂かれた。三人目の兵は剣を抜いた瞬間に剣を抜くも刀身ごと胴体が折れた。赤に塗れた臓器が散乱する。醜下の醜さの限界を突破するように、皮の剥がれた躰は目を背けるほどの穢さを表す。彼らの愚かで悲惨な人生を一括りにして一つの鍋の中で蒸したような吐き気を催す刺激臭が、しかしこれほどに親近感が沸くことがない臭いが、真夏の天下に満ちる。
牛車の牛が嘶き、その場で大きく身震いするように暴れた。黒鎧が供回りの一人のこめかみに剣を刺した時、籠の中のナリトが転げ落ちてきた。
滑稽に腰を抜かし戦慄した表情で叫ぶ美貴が顔は、なお美しい。だが、美しき貴き者の目の前でまた一人、最後の供回りが心臓を一突きに斬殺された。
黒鎧はその供回りの躰に剣を刺した状態で止まった。まるで操り人形の糸が切れたかのように。黒鎧の膝が折れ地に着いた。剣先が食い込んだ躰からゆっくりと大粒の血が刀身を伝い、柄に当たり軌道をそれ、落ちた。
血の粒が地に落ちた時、確かに水面に落ちた石と同じ音を聞いた。黒々とした池に波紋が広がり、真加髪ナリトを輪の中に入れ、そして己もまた輪に入った。
黒鎧の兜が不器用に上に動いた。淵より覗くその目。鎧よりもなお黒い瞳孔が血よりもなお赤い血管の蠢きの中にある。
目は腰を抜かす美貴を凝視していた。睨まれた美は声すら出せず、ただ荒く息を吐き出していた。不思議と、目の前に広がる惨状は、その対の姿の前に霞んだ。黒鎧のその目は狂気の住人であった。醜下の嘆きも、熱暑の苦しみも、狂気を狂気と判別する時点において、いまだ正気の此方であることを突きつけてくる。
己は動かなかった。動けなかったのではない。逃げることを忘れていた。魅せられていた。
供回りの心臓から剣が抜かれた。死骸となった体は正面から倒れた。黒鎧は剣を鞘に納め、一歩、一歩、と真加髪ナリトに近づいた。美しい男は尻もちをついた状態で後ずさりをした。
しかし、その姿はまだ美しい。
黒鎧の手がナリトの顔を正面から掴み、離した。存分に血に塗れた手に掴まれたナリトの顔は赤に染まった。その血は無論、先に殺された醜下のものである。醜き者の醜いものである。
しかし、その姿はまだ美しい。
黒鎧の手が天を呪うように高く上げられた。そして、そのまま酷く緩慢にナリトの頭を掴んだ。目から鼻から口から、美貴は液体をとめどなく流している。口周りは泡で溢れている。
しかし、その姿はまだ美しい。
その時を見ていた。ナリトの目が飛び出るほどに見開かれた。その広がりは止まることはなかった。黒鎧は微動だにしない。頭に掛けたその手にどれほどの力が加わっているのか。ナリトの両手が頭上の手を離さんともがいたが、無駄だった。口から甲高い音が飛び出た。鶏が絞められる時の音であった。
耳はそれを聞いた。鈍い音を。指が頭蓋に食い込み、やがて頭が、割れた。
しかし、その姿はまだ……いや、もう、もはや。
黒鎧は鼻から上がないナリトを仰向けに寝かせた。剣を抜いた。痙攣するナリトの喉に突き刺し、一直線に下に引き裂いた。
その剣、その刃。それは兵士が扱う、人を殺すための剣ではなかった。
姉から聞いたことがあった。かつてはそれを使用していた者もいたが、軍制が整えられ、兵と農民の間に明確な線引きが行われ、兵士がより戦に特化した存在となったいまとなっては絶滅したに等しい。……両刃の剣。剣戟の最中、刃が敵だけでなく己に向くそれは元来殺すための道具ではなかったという。その後のための道具だ。殺した獲物の皮を上下左右に切り裂くために使われた、解体具だ。
ナリトは真っ二つに裂かれた。
また冷たい風が吹いた。死臭が頬を撫でた。黒鎧は変わり果てたナリトをやや見ていた。否、観察していたといった方が正しいのかもしれない。 ふと、彼の眼がこちらを向いた。黒が己の姿を収めた。
動悸が激しくなった。恐怖からではなかった。奇妙な歓喜であった。もしかすれば、恋をした人に見つめられたらこんな感情を持つのかもしれない。
彼はナリトに目を戻した。その所作は目の前の惨状を自慢するように思えた。
そして、去っていく。鎧の軋む音が歩に併せて聞こえる。足元に転がる肉片を踏みつぶし、その方向は、巨体を横たえている別根院へ。
天が地を焼く。力の入らない足でナリトの前に立った。誰もいなかった。蜘蛛の子を散らすように、醜下の兵らは姿が見えなくなるほどに逃げ散っていた。頭を抑え、胸を抑えた。世界が沸騰しているように思えた。
しゃがみ込み、裂かれたナリトの贓物の中へ手を入れた。吐瀉物を吐き出した。ナリトが、美貴が己の汚物に塗れた。
美貴だと。美貴だと。こんな醜いものが。
喉から臀部へ、裂け目をなぞっていく。笑いが止まらない。もっと吐こう。もっと吐こう。
天を見上げた。空を愛でた。
日輪は輝く。目が焼かれる。視界が死んでいく。目の前の死んだ美へ倒れこんだ。汗と土と吐瀉物と、血と死体。ようやく、全て埋まった。そう思うと同時に意識を失くした。