第一話 己
肉体も、知能も、容姿が全てを決める。
美しい者を美貴、醜い者を醜下と呼び、美醜によって人生が左右される世界。
醜下として産まれた「己」は、常に絶望を内在しながら生きてゆくことになる。
美貴として産まれた姉。実らぬ努力。届かぬ悲鳴。
殺人鬼との出会い、戦争が発生し、否応なく変革を迫られてゆく。
蔑まれ続けた者が見出した希望は何か
ああ、苦しい。己を卑下するほどに、希望は遠のいて、ぼくは夢想に逃げる。
空の日輪は躰に熱の与え、しゃがみ込む理由を与えてくれる。干乾びた蚯蚓がまた逃走を補助してくれる。手を額の添え、地に向かって、ああ、苦しい、という表情をする。やがて両手で顔を抑えて深呼吸を一つ。思考に膜が張られたように、呆けたように目の前にことに逃避する。
己の苦しみは今のこの状況のよるためと納得する。己を嫌いになる。他人の弱きや悪意ほどに敏感な己を。いくら日輪に目をやれば燃えるというかと言って、空すらも見上げられない卑小に絶望する。根底にあるのは、嫉妬なのかもしれない。絶望を感じ津ということは希望を抱いていることの証左なのかもしれない。まだ生きているということは、やがて報われるとまだ思っているからかもしれない。何もしていないというのに。
恨みの矛先は姉に向けられる。憎悪の叫びは自傷となり現れる。天の炎熱に焼かれる。焼き殺せと思う。殺せるものなら殺してみろ。誰にも理解されない。理解できるわけがない。一笑に付せられるのみだ。姉を睨む。他人の視線は怖い。己を見られるのが耐えられない。泣きそうになる。不甲斐ない境遇を百篇も繰り返し思い出す。とてつもなく重い何かが肩を押して俯かせる。家に帰り布団に包まりたい。やっぱり今のこの瞬間、一秒一秒の時に耐えることはできない。
天は地に光を齎した。魍魎が蔓延っていた世に、理と、そして美を体現する者らを使わせた。その者らを「美貴」と言う。この世の正しい統治者であり、価値の支配者である。
蝉の鳴き声が煩わしい。考えないでよいことをまた考えてしまう。巡り巡り、とめどなく、現実を書き変えるためにどれほど幻想を創り出しても、森の木の葉の一葉も消すことは叶わない。 現は強く、幻は弱く、過去は敵で、未来は、未来はかつては仲間であったがとうに裏切られた。日に焼ける青い肌は、やがて千の羽虫が散ったようにぽつぽつと汚れを顕現させる。日光によるものか土埃のものか、泥を這ったからか、その泥すらも食ってきたから。そんなものは違う。理由は明らかだ。馬上に乗れぬのは、煌びやかな帯を纏えぬのは、自明のことだ。
醜いからだ。醜さは宿命であり罪であり、悪である。ああ、ああ、あああああああ、己は醜い。天より美貴が着て浄化するまで、世界を汚し続けてきた血だ。ただの醜い下郎ーー醜下よ。かつての侮蔑は他でもない己を見ている。
天より来迎した美貴は地に降りるや顔を顰めたことだろう。彼らの眼に映る生き物は、果たして生きる価値があるのかと。その時、天を眺めた醜下はさぞ驚愕したことだろう。思わず顔を俯け額を地にこすり付けるほどに。
眼前に映る景色はその数千年前の過去と被る。馬に跨り先導をする女。純粋たる醜下である己にとって、美貴の姿は太陽と同義である。光の強さに目をそらし、ただ崇めるしかない。
美貴と醜下の出会いから変わらぬ関係。そんな当然のことが苦しい。喉を掻き切って死んでしまいたいほどに。血とはなんと残酷なもの。醜下の血。己が血は連綿と醜いものどもの卑下と侮蔑の記憶である。そこに、僅か一滴だけでも貴きものがあればあらゆるものがひっくり変えるだろう。そして……目の前の女人は、その証左である。
眼に映るのは羨望と羞恥であった。赤子の万能感が抜けきれぬ幼子が抱いた大志は、大いにその環境に影響される。己の最も近くにいたその女は、確かに己との違いをはっきりと自覚していながら、愚かな願望を早々と積んでしまうのではなく、こうして理性を持つ年齢となりて絶望するまでに育て上げたのだ。それは果たして愛であるのか。女が己を見る目は確かに母の如きもの。最も、本当の母はそんな優しい目を向けてくれたことなど一度もない。
女の名前はエミという。己と同じ母親の血を持つ者で、姉としてこれまで慕ってきた。
醜下は美貴に支配される。かつていた村の風景は禿げた山の褪せた橙色の荒野のようで、幸福を知らないことを一番の幸福として、土に戻ることを待つだけの生活であった。みな均質で、一様に税の苦しみを分かちあっていたが、そこで、母はさぞ異様な存在であったことだろう。容姿は醜下そのものである。だが、美貴の手がついた、という歴が、女の世界を一変していた。
思い浮かぶのは土埃が染みついた小屋の壁の前でしんと正座をしている母の姿である。朝から日が沈むまで視線は空を眺め続けている。その目には村も父も、己も入っていない。あの方にもう一度お会いしたい。母はことあるごとにそう言っていた。微動だにせず。父はそんな母をよく殴った。殴打の音は、今でも己の心臓を縮める。夜は幼き妹を腹に抱えて蹲って寝ていた。
気づけば、女ーーエミは馬を返し、目の前まで来ていた。日の光を女と馬の影が遮り、微かな清涼が女の肌から齎されるのを感じてしまう。とても悔しい、けれどとても嬉しい。絶望が頭を隠す。
エミの纏う鎧は最近の天の機嫌を示すように赫々とした赤である。このような鮮やかな色を村にいたことは見たことがない。醜下に過ぎるもの。女の父の美貴たる血が、己との違いを鮮明とする。くすんだ茶の己のものとは余りに違う。やはり影を差す。己を見てくれるのは当たり前だと思っていた。けれど姉の目に映る弟の姿は、そこいらの醜下と違わないはずだ。
姉は何かしらの励ます言葉を述べて水筒を渡してきた。その心配は当たっていた。太陽の日に焙られ続けた身体は悲鳴を上げていた。
だが、周囲の目が痛い。この場に女に付き従う数十人の兵らの視線が、その水筒に手を伸ばすのを妨げる。少し躊躇った姿を見せると、女は押し付けるように差し出してきて、思わず受け取ってしまった。一度受け取ると、我を忘れるように蓋を開けて、濁りのない透明の甘美な液を飲み込んだ。そこらの水溜まりとは舌ざわりが違いすぎる。無我夢中の視線の先で、女が親類としての優しい笑みを浮かべていた。
醜下には過ぎたもの。この水も、その笑顔も。
女が去ると、背中を押され、転げた。女の部下であり、同輩である周囲の兵に己に好意を抱いているものはいない。彼らも醜下であり、そうであるからこそ、身の程を弁えぬ恩恵を受ける者を許しはしない。美貴にすれば蟻の大きさの違い程度であるが、醜下にも個体差がある。巨体な者も居れば、脆弱な者もおり、そして己は脆弱の最たる者である。本来であれば十年前――姉がその時のことを決まって"十年前"というのでそれに倣っている――の飢饉を超えれなかった肉体が美貴の庇護のもと生き永らえたに過ぎない。
天を見上げた。頭が沸騰しそうになる。死ぬ勇気すらない己に、救いというものはあるのだろうか。否、そもそも救われる価値などありはしない。美貴とまぐわった母がいて、その結果生まれた姉がいて、姉から溺愛されて育った純なる醜下は、いつしか己も姉のと同等になれるのではないかと妄想を抱いてしまった。
ああ、でもこの酷暑では一度醒めてしまった夢に溺れてみるのも悪くないのかもしれない。このままどうしようもなく、どうにもならずに這いずり回るのなら、絵空事に夢中になることも救いの一つなのかもしれない。
胸の奥から、突き上げてくる振動を感じた。隊列から出て近くの草むらに駆けた。熱さと苦味が口中に広がり、勢いよく吐瀉物が口から溢れた。嘲笑が声なき声として背にのしかかる。その笑いを甘んじて受け入れるように、いっそう激しく吐瀉物を散らした。
強い日差しが体を焼く。終わらない嘔吐が喉を焼く。そうしてーー。
一つ埋まったと、思った。
汗と土と吐瀉物。
日輪は遮る薄雲を払い散らし、灼熱をこの不浄の地に降ろしている。
生きている。いまこそ、生きている。朦朧とした頭で、穢れた口から出てきたのは、そんな言葉だった。




