1
クラリサは押し倒されていた。
豪奢な天蓋付きベッドの、金糸がおられた臙脂色のシーツの上で。
倒れた反動で視界の端に白いものが舞い上がる。
主人付きのメイドがベッドの上に、香をたきしめた花びらか何かを散らせたのだろう。
狼の獣人であるクラリサは少々鼻が効き過ぎてしまう。
酔いそうになる程甘い香りに、クラリサは眉をひそめた。
「殿下、酒は控えろと度々申し上げたはずですが。殿下はけして酒に強いという体質ではございません。酒を飲むたびに翌日体調を崩しているでしょう。今も酔ってらっしゃるご様子。大体、歯を磨いてから物を口にしてはいけないとあれ程……」
「ほ、他の話をするな。僕の話をちゃんと聞け」
「しかもわざわざ香まで焚いて酒の匂いを消そうとするなんて……僭越ながら殿下は酒なんかよりもまずニンジンを召しあがれる様にならなくては」
「だからそういう話じゃないって言っているだろ!!ちゃんと僕の話を聞け!!お前なんて僕に逆らったら、すぐ死刑に出来るんだぞ!!」
そう叫ぶと、自分より七つ年下で十センチも背が低い主人は、クラリサの顔に震える息を落とした。
押し付けられた唇は、朝露を乗せた桃の花びらの様にしっとりと柔い。
微かに甘く流れ込んだものは、主人がクラリサに隠れて飲んだ蜂蜜酒の味だろうか。
「お前は、僕の犬なんだ!一生、僕の側にいるべきなんだ!!」
二秒ともたずに唇を離した主人の顔は真っ赤に茹で上がり、クラリサの手首を握る指は小刻みに震えている。
それを引き剥がすのは容易い。
有事の際は獣人特有の爪と牙で敵を切り裂くクラリサにとって、のしかかる十六歳の少年の重みなど、子猫が戯れている様なものだ。
なのに抵抗出来ないのは……主人がクラリサの尻尾を膝で押しつぶしているせいだろうか。
それとも、彼の翡翠色の瞳が差し込む月明かりの加減で濡れて見えるせいだろうか。
昔から尻尾は弱い。主人の涙にはもっと弱い。クラリサはため息をついた。
「申し訳ございません、殿下。クラリサはヒト族の発情期について些か勉強不足でした。そろそろ時期かとは思ってはいたのですが、陛下に妾として頂いた女性の方にも興味を示されなかったので……雄の方に興味があるのでないかと心配していたのです」
「お前は一体何を言っているんだ???」
「いえ、ヒト族は生育を重んじる我々獣人とは違い、同性に発情する個体もいるのだと聞いた事がございまして。クラリサは殿下が雌に興味を持てる様になった事、そして殿下が発情期に入られた事、心より嬉しく思います。これで我が国も安泰ですね」
幼い頃から仕えていた主人の成長ぶりに、クラリサは思わず涙ぐんだ。
遠い東の国ではめでたい事があった時、赤い米を炊くらしい。
赤い米とはどんなものだろう?米に炎の魔法でも纏わせれば良いのだろうか?
「っっお前は!!僕を馬鹿にしているのかっ!!」
主人は暫く頬の色を目まぐるしく変えた後、憤然と彼方に思考を飛ばすクラリサの襟を引き下ろした。
その拍子に主人の指がクラリサの鉄製胸当てにぶつかり、鈍い音を立てる。
痛い音だ。
「ああ、この胸当ては後ろから外すんです。申し訳ございません、クラリサが気の利かないばかりに。お怪我はございませんか?」
「………」
「見せてください。ああ、少し赤くなっていますね」
悶絶する主人の姿が居たたまれず、その白く細い指を口に含む。
獣人の唾液はヒト族の唾液よりも高い治癒効果があり、少しの傷ならば舐めるだけで治せる。
クラリサに跨る主人は、行儀よく硬直していた。
「もう大丈夫ですよ、腫れる事もないでしょう」
「……お前は、自分の行動を理解しているのか?」
何かを堪える様に主人が低く言う。
「いえ、そういうつもりでは。ただ、一つだけ申し上げたいのですが、クラリサと交尾するのはあまり薦められません。やはり、今晩は妾にと頂いた方々の所に行かれては如何でしょうか」
正直な気持ちを伝える。
「まぁご命令なされるのでしたら、殿下のお世話も致しますが」とも、付け加えておいた。
主人の護衛騎士として仕える様になってから早七年。
クラリサは常日頃から忠実な騎士だと自負している。
三回回ってワンと言えと言われたら、トリプルアクセルした後にワンと言える。三回連続バック転も出来る。
だから業務外の任務……夜間の残業にも十分対応出来る筈だ。
「……お前、本当に、分からないのか?」
「はい?」
クラリサの言葉に、主人は暫く頬を青くしたり、赤くしたり、白くしたりした後、憤然と言った。
「僕が、貰ってやるって言ってるんだっ!!」
「……?この間、私が王妃様から賜った菓子の事ですか?あれは流石に差し上げられませんよ、腐りやすいので、当日中に食べてしまいました」
「そ、そうじゃないっっ!!だから……お前を正室にしてやっても良いって言ってるんだ!!」
「なにゆえ」
クラリサには、七年近く仕えている主人の考えが心底理解出来なかった。
主人は、この大陸で一二を争う程大きな国の王と正妃の間に生まれた唯一の王子だ。
次の王として、愛に恵まれ、尊敬を集める、王国で最も尊い存在。
そのため些かワガママな所があるが、長い時間を共に過ごす内に、大抵の考えは分かる……筈だった。
つい最近までは。
「……近頃、殿下のご様子が少々おかしい事は私も気づいておりました。殿下は連日、陛下の政務をお手伝いになっているので、少しお疲れなのではないですか?御典医を呼びましょう、お風邪を召されているのかもしれません」
「お前は、これでも分からないのか。それとも、分からないふりをしているのか」
何かを抑える様に、主人が低くつぶやく。
返答に困り黙っていると、彼は暫く後、クラリサの手首を力なく離した。
のしかかっていた重みがゆっくりと消えていく。
クラリサは豪奢なベッドから降り、素早く身を起こした。
「もう、今日は出て行け」
「はい、かしこまりました。いつも通りお部屋の外に控えておりますね。具合がよろしくない様でしたら、すぐにお申し付けください。……良い夢を」
主人はクラリサに目もくれず、ベッドの端に立ちすくんでいる。
縦長の窓からたっぷり入り込んだ月明かりが、彼の白に近い金髪を照らした。
光を受けて細く輝くそれは、さながら太陽の色。
この国では髪の色が明るく薄い者程、高貴な血筋とされている。主神である太陽神に血が近いのだ。
踵を返した時、クラリサの一つに編んだ髪が少しほつれて、顔にかかった。
色は黒。
これで良い筈だ。
扉の閉まる音に隠したクラリサの小さなため息は、夜のしじまに溶け消えた。