第四話「善悪相殺」
二人の乗り込んだ電車内は、まだ座る席が残っているくらいには乗客の数は少なかった。
前の座席には眠そうにあくびをするスーツ姿のサラリーマンや、スマートフォンに夢中な学生、目を閉じて居眠りする初老の男性が座っている。
「この時間帯でも上りと下りじゃえらい違いだな」
「そうだな。だが、大宮に近づくにつれて乗客は結構増えるぞ」
白澤の予言通り、駅に停車する度乗客は増えていった。空いていた座席はすぐに埋まり、席に座れない乗客が発生する。
浦和まで来ると一度に乗り込んでくる人数も多く、吊革もどんどん埋まっていった。
「なぁ、後少しだよな?」
「次の次だな」
言いながら、白澤は電車内の乗客の様子を観察する。特に理由があったわけじゃないが、職業柄とでも言うのだろう。
……何か、あるかもしれない。そんな気がしていたのだ。
(あれは……)
白澤の座る席から見える、ドアの横。
席に座れなかったのか、手すりに捕まって立っている大人しそうな女子高生。
そしてその女子高生のすぐ後ろに立つ、マスクをした男。
(……あの男、妙だな)
不審に思い、白澤はマスクの男と女子高生をよく見てみる。
男の表情はマスクをしていてよくわからない。だが、女子高生の表情はハッキリとわかった。
……羞恥と恐怖と動揺の入り混じった表情。
周りの誰かに助けを求めるように怯えた眼を忙しなく動かしている。
マスクの男の手の行方を目で追う。男の手は女子高生のスカートの中へと入り込んでいた。
(痴漢か。俺以外、誰も気づいていないのか……?)
何も出来ず、ただ時間が解決してくれることに期待して耐え続ける女子高生。
しかし、時間が経過するにつれ状況は悪化する。相手が抵抗できないと悟ったマスクの男の痴漢行為は、より大胆になったのだ。
恐らく、もうすぐ電車が駅に着くという理由もあるだろう。ドアの近くにいるのも、すぐ逃げられるようにするためだと考えられる。
スカートの中を弄る男の手付きは激しさを増し、女子高生は目に涙を浮かべながら唇を噛んでいる。
(さて、どうするか)
周囲をよく見てみると、誰もが痴漢に気づいていないわけではなかった。
面倒事に巻き込まれたくないから、気づかないフリをしている者。
単に勇気が出せず、助けを求める女子高生から目を逸す者。
人数は少ないものの、痴漢に気づいている者も確かにいる。しかし、女子高生を救おうとは動いていないのだ。
白澤はそんな者たちを責める気はなかった。
助けようと動けなくて、当たり前だ。ましてや見ず知らずの他人など、関わって得することの方が少ない。
皆が皆、自分たちの生活がある。会社や学校へ行き、やるべきことをやり、やらなくていいこともやる。
ただでさえ色々な面倒事を抱え、それらを解決しながらまた新たな面倒事を抱え込み一日を過ごしていかなければならないのだ。避けられる面倒事があれば避けるのが普通。
もちろん白澤も、例に漏れず避けられる面倒事は避けたい人間だ。
他人の心配より自分の心配。自己中心的と思われようが構わないと思っている。
だからこのまま痴漢に遭っている女子高生を見て見ぬ振りしよう。
……とはならなかった。
(痴漢の証拠は確実に押さえておくとして、あの女子高生になるべく注目を浴びせず事を収めるにはどうすればいい?)
白澤は正義感から女子高生を救おうとしているのではない。これは一種の強迫観念のようなものだ。もうずっと前から白澤を苦しめ続ける呪いとも言うべき思考の癖。
感覚としては、誰も見ていなければ信号無視をして横断歩道を渡るのに、幼い子供の見ている前では信号無視をして横断歩道を渡れないのと似ていた。
自ら大きな罪を重ね続けているにも関わらず、白澤の胸に芽生えた小さな罪悪感が悪行を見過ごすのを許さない。
(とにかく痴漢を止めさせるのが先か――)
そう考え、白澤が席を立とうとする直前のことだった。
「理解できねえな……」
白澤の隣に座っていた黒須が、そう言って席を立ったのだ。
「黒須……?」
席を立った黒須は、マスクの男の元へと真っ直ぐ進む。
黒須の接近に気づいたマスクの男は痴漢を止めて、何事もなかったかのように装う。
(……そうだな、俺が気づいて黒須が痴漢に気づかないわけがないか)
白澤と同様、黒須も痴漢に気づいていた。同じじゃないのは、気づくだけじゃなく痴漢を実際に止めさせた点。
「おい、そこのマスクのおっさん」
「な、何ですか……?」
「痴漢、してただろ」
「何を、言って――」
マスクの男が否定するより先に、黒須は自身のスマートフォンを取り出した。
「悪いけどよ、撮らせてもらったぜ。画像はもちろん、動画もな」
「なっ…………!」
白澤の席からは黒須の持つスマートフォンの画面に何が映っているのかわからない。
しかし、マスクの男が画面を見て青ざめていることから、黒須が痴漢の証拠を掴んでいるのだと白澤は理解する。
「ぼ、僕ははそんなこと――」
「いや、流石にこれ見せられてしらばっくられるのは無理があるぜ。まあ、落ち着けよ。俺だって鬼じゃない。おっさんにチャンスをやるよ」
「は……?」
思ってもいなかった言葉にマスクの男は目を丸くする。内心、白澤も驚きを隠せなかった。
(チャンスだと……? 黒須のやつ、何を考えてやがる)
マスクの男が驚いても一切気にすることなく、黒須は続ける。
「痴漢は犯罪。お前はもちろんそのことを承知で痴漢をした。お前はその女のケツが、触れただけで男を社会的に抹殺できるケツだと理解しながらさわさわと触ったわけだ」
黒須のおかげで痴漢から解放され安堵の表情を浮かべていた女子高生も、黒須の発言を聞いて眉根を寄せる。
心底がっかりしているのだろうと、白澤は女子高生の心中を察する。
「俺は正直、老若男女関係なく世界中の誰のケツだろうとそんな価値があるとは思わねえ。だから触ろうとも思わねえ。俺はそれなりに馬鹿だけどよ、何のメリットもないのにリスクを冒すような真似はしねえ」
黒須が何をマスクの男に言いたいのか、白澤にはイマイチわからない。
お前の考えがどうだろうと痴漢は犯罪だし、触る価値が云々も関係ないだろ。痴漢は価値があるからケツを触るわけじゃない。
「でもお前は違う。もしかしたら社会的に抹殺されるかもしれないと知りながら女の尻を触った。尻だけにな。つまりお前は、その女のケツにそれだけのリスクを背負うほど価値があると認めて触ったわけだ」
マスクの男は黒須の言葉を聞きながらも、ドアに意識を傾けていた。
もうまもなく、電車がさいたま新都心に止まろうとしているのだ。マスクの男はいつでも逃げられるように準備をしている。
「おっと、チャンスをやるとは言ったけど、今は逃さねえぜ?」
「ひっ……!」
もちろん黒須もマスクの男が何を企んでいるのか気づいていた。マスクの男が逃げ出さぬよう、その腕をしっかりと掴む。
「俺はよ、純粋に知りたいんだ」
「はっ、離せ、この……!」
マスクの男は掴んできた手を必死に振り払おうとするが、黒須の腕は微動だにしない。よほど強い力で掴んでいるのだろう。
「い、痛い痛い痛い痛い痛い……!!」
「――痴漢の何がそんなに最高なのか。一体どういった部分に価値を見出しているのか。俺には到底理解できそうにないし、これからも理解するつもりはねえけどよ。もしかすると、俺が納得できるような理由をお前が言ってくれるかもしれねえ」
電車がさいたま新都心に停車し、ドアが開く。
先程より多くの乗客が電車内に乗り込んでくるが、乗り込んですぐに異様な空気を感じ取ったのか、黒須たちの近くに立つ者は誰一人としていなかった。
黒須は周りに増えてきた人などお構いなしに、マスクの男へ向かって話し続ける。
「もし俺が納得出来るような理由をお前が言えたら、この手を離してやる。それがお前にやるチャンスだ。制限時間はこの電車が大宮に着くまでな」
ドアが閉まり、再び電車が動き出す。この電車が大宮に着くまでに残された時間は、およそ三分。
「ほら、さっさと何か言わなきゃブタ箱行き確定だぜ? 俺はそれでも全く構わねえけどな」
「はっ、反応を……」
「反応?」
「反応を見たくてやったんだ!」
何を血迷ったのか、マスクの男は黒須のチャンスとやらを真に受けて語り始めた。
「いい反応が見られると、生きる活力がギラギラと湧いてくる。僕にとって痴漢は生きがいなんだ!」
「へぇ、そうかよ。生きがいがあるのはいいことだ」
「そうだろう? 君もきっと、痴漢の良さをわかってくれるはずだ。よく考えてみてくれ。僕が何もしなかったら、その子はなんの反応も見せず表情を変えることもなかった。僕がその子のあんなにも可愛らしい反応を見ることは未来永劫叶わなかったんだ」
「まぁ、そうだな」
痴漢行為を自白するマスクの男に注目が集まっていく。
侮蔑や好奇の込められた眼差しをマスクの男へ向ける乗客たち。中にはスマートフォンのカメラで撮影している者までいる。
こうなっては、黒須が本当に掴んだ手を離したところでマスクの男は逃げられないだろう。今まで女子高生を救おうと動けずにいた者も、味方の多いこの状況下では動けるはずだ。
「ただ何もせずに望んでいるだけじゃ、彼女たちは僕の期待する反応を見せてくれない……。だったら僕自身がアクションを起こすしかないじゃないか! そうすることで、僕は様々な反応を見ることができる。たくさんの元気を分けてもらえるんだ……! 勇気を振り絞って踏み出した僕の一歩が、僕の人生に充実感を与えてくれる。僕の手によって、僕は満たされる。他では味わえない達成感を味わえるんだ。映画や小説では得られない本物の感動を、自分自身の行動によって得ることができる……! 最高だと思わないか?」
熱く語るマスクの男に対し、黒須は心底冷めた表情で、
「悪い、何言ってるのかよくわかんねーし、もう飽きたわ」
「は……!? は、話が違うじゃないか……!!」
「いや、違わねえよ。とりあえず痴漢の良さはわからなかったわ。おっさんとはどうも住んでる惑星が違うらしい。次で降りような、おっさん」
電車が大宮に到着し、ドアが開く。ドア付近にいた黒須は、マスクの男の腕を掴みながら下車する。
一斉に電車を降りていく乗客に流されないよう注意しながら、白澤も黒須の後を追う。
「おい、駅員さん。こいつ痴漢な。ちゃんと証人もいるし、証拠もあるぜ」
「は、離せ! 僕は何も……」
「い、いいえ! こっ、この人です……! この人が、痴漢してきたんです」
見てみると、どうやら黒須は駅員にマスクの男を突き出しているようだ。そこには被害者の女子高生もいて、必死に真実を訴えている。
「……わかりました。ちょっと事務室まで来てもらおうか。君と……そこのお兄さんも一緒に来てくれるかな?」
疑う余地なしと判断したのか、駅員はマスクの男を連れて行こうとする。
証人として駅員に同行を求められる黒須だったが、
「悪いけどよ、俺はこれから急ぎの用事があるんだわ。なあ、白澤」
「あ、ああ……」
白澤の姿を見つけた黒須が同意を求めてくる。白澤は同意するしかなかった。
「そうですか。君は一人で大丈夫かな?」
「はっ、はい……。あの、駅員さん、事務室に行く前にちょっと時間いいですか?」
「えっと、どうしたのかな?」
「私、まだお礼を言ってなかったんです」
と言って、女子高生は黒須の方へ体を向け、頭を下げる。
妙ちくりんな発言をしていた黒須でも、彼女にとって恩人なのに変わりはないようだ。
「あの、助けてくださって本当にありがとうございました……! 私、怖くて怖くて何も出来なくなって……。あなたが助けてくれなかったら、私……」
「別に、そんな感謝してくれなくてもいいぜ。当たり前のことをしたまでよ」
「でっ、でも……。何か、お礼を……。ただ言葉で伝えるだけじゃ、私の気が済みません」
「俺に何かするくらいなら、産んでくれたカーチャンと大地の恵みに感謝しとけ。さ、行こうぜ白澤」
訳のわからない捨て台詞を残し、黒須は女子高生の元を去る。
黒須と白澤は改札へ向かうべく、人混みに合流する。
「一体何のつもりだ、黒須」
黒須と横並びになった白澤は、先程の出来事について問う。
「何のつもりって、痴漢を捕まえたことか?」
「そうだ。お前、そんなことするやつだったか?」
「ああ、たまにするぜ? 俺はよ、自分にルールを課しているんだ」
「ルールだと?」
「俺は今さっき痴漢に襲われていた女子高生を助けてやった。これは良いことだよな」
「まあ、そうだな。あのおっさん個人にとってはともかく、世間一般的には良いことだ」
「だよな。つまり俺は良いことを一回した。これで俺は一回悪いことができるってわけだ」
「……は?」
「俺が自分に課しているルールだよ。一回良いことをしたら一回悪いことができる。反対に、一回悪いことをしたら一回良いことをしなきゃならない」
「ま、待ってくれ……。お前がそのルールを自分に課しているのはわかった。だが俺の見ている限り、お前は良いことをあまりしていない」
「残念ながらそうかもしれねえな」
「それどころか、悪いことをたくさんしている。となると、お前はまず良いことをたくさんして積み重ねてきた悪行を打ち消すことから始めなきゃいけないだろ」
「残念ながらその通りだな」
と、全く残念じゃなさそうに黒須は言う。
「ま、死ぬまでにプラマイゼロになれば万事オーケーってこった」
「適当なやつめ……」
「てかよ、痴漢に襲われていた女子高生を助けるだなんて、良いこと十回分くらいの価値あるだろ。今までにした悪いこと十回はチャラだな」
何てガバガバなルールなんだと白澤は思う。もはやツッコむ気にもならない。
(それにしても……)
黒須はなぜ、そんなルールを自らに課しているのか。実際にルールを守っているか否かはともかく、白澤としてはそこが気になっていた。
もし、白澤の抱えている強迫観念に近いものを黒須も抱えているのだとしたら。相方は相方に似るとでも言うのだろうか。
(そのうち訊いてみるか……)
今はとにかく、大宮まで来た本来の目的を果たすのが先だ。ここは目撃情報のあった場所。気を抜いてはいられない。