第一章 ②教室がホテルに
遠くで雷が落ちたような音がした。
いや、今はそんなことを気にしている場合じゃない。
ちくしょう。変な男に絡まれたせいで完全に遅刻だ。担任の小杉先生に平謝りするしかない。とにかく申し訳なさを前面に出す作戦でいこう。なんなら教室の扉を置けると同時に謝るくらいがちょうどいい。少々大げさなくらいがちょうどいいはずだ。そう考えているうちに教室の前まできた。
よし。謝罪には勢いが大切だ。
教室の扉に左手をかける。しかし寸前で臆病風が吹く。
ああ逃げたい。できるものなら遠くへ行ってしまいたい。しかしそれはできない。男として避けては通れぬ道ってーもんがある。だから俺は、この窮地を自らあみだした技で乗り切るのだ。
俺は右手で顔を覆う。
申し訳なさ感・悲壮感・誠実さ・少々の爽やかさ。全てが絶妙に混ざり合った時、俺の芸術的ともいえる技が完成する。
見るがいい!
俺の『エクストリーム・アポロジャイズ』を!
タイミングを見計らって、左手に力を込める。くっ、気が引けるせいか扉が少し重い。だが、さらに力を込めて一気にあける。
「しゅ、しゅみませんでしたぁぁあ!!! 」
俺は教室の扉を開けるとともに声を張り上げ、頭を下げた。しかし予想していたようなざわめきがない。ひどく静かだ。
うむむ。おかしいな。正直ひと笑くらいはとれると思っていたんだがな。少し声が大きすぎたか?
そう思い、俺は恐る恐る顔を上げた。上げるとともに俺は目を疑った。
顔を上げた俺の視界に入ってきたのは、担任や友達がこちらを見ている教室の一場面ではなく、全く予想だにしなかった情景だった。
そこはホテルの一室だった。こぎれいダブルサイズのベットが一つ。それに洋風の家具とその上には四十インチの液晶テレビが置かれている。床には赤いスーツケースが転がっている。ベッドの上には女物の黒いロングコートが無造作においてある。
な、ななななんだ? どういうことだ?
俺はひどく混乱して、しばらくその場で茫然としていた。おそらく口をあんぐりとあけて、たいそう間抜けな面だっただろう。二十秒くらいはその場で固まっていた後、ようやくあたりを見回す余裕ができた。まず、自分がどこにいるかを再確認した。部屋には入らず、とりあえずあたりをキョロキョロを見回してみると、あることに気付いた。俺を境にした後方、つまり教室の扉の後ろ側は、やはり学校の風景そのものなのである。しかし、教室の扉の先だけが、どういうわけか見知らぬホテルの一室に早変わりしているのだ。模様替えをしたというようなレベルではない。教室の大きさや形まで全く違っている。奥行きも違う。俺の知っているはずの教室はせいぜい扉から窓までの距離は十メートルもないくらいだ。しかし、その部屋はそれ以上あり、突き当たりには、窓が見える。そして窓の先には街並みが見えるのだ。教室は二階のはずだが、その窓から先に見える風景は明らかにそれ以上の高さから見た風景だった。通常ならとっくに窓の外にあるであろう位置が部屋の空間として存在していて、その先に。その窓の先に高層ホテルからの展望が広がっている。手前には扉があり、別の部屋があるようだ。ここが本当にどこかのホテルの一室なのだとしたら、ちょうどバスルームかトイレがあるような位置だ。
俺は恐る恐る足を踏み出そうとした。そのとき、手前の扉があいた。そして中から若い女の人がでてきたのだ。
しかもハ・ダ・カ!!
濡れた髪をバスタオルで拭きながらその女は扉を開けて、ベッドの方向へ向かおうとして、俺の気配に気づいたのだろうか、なにげなく左を見た。そこで俺と目が合う。綺麗な人だった。茶髪に染めたセミロングの髪の毛が濡れて艶やかに揺れている。風呂上がりですっぴんだったが、整った顔立ちと大きな目で、化粧したらさぞかし美人なのだろうと想像した。が、その顔は俺を見るなりわなわなと困惑と恐怖の顔に変わっていき、次の瞬間、金切り声と共に悲鳴に変わった。
「きゃあああああ!誰かあああ! 」
「す、すんません!! 」
俺は反射的に謝りながら後方へ後ずさりし、扉をピシャリと閉じた。
な、なんてことはしでかしてしまったんだ俺は。図らずも若い女性の部屋に無断侵入し、のぞきを働いてしまった。つい、ほんの出来心だったんです。わざとじゃないんです。魔が差したんです。
そんな言いわけを考えながら、はたと我に返る。いやいやいや。どう考えても俺に非はないだろ。むしろこの状況が異常なだけだ。
気を取り直して右手でそろりと扉を開けてみる。と、その瞬間今度は部屋の中からガッと手が伸びてきて扉が乱暴に開いた。
ひっ! すみません!
俺はまた謝った。
「平山遅刻だぞ! いったい何時だと思っているんだ! もうとっくに授業ははじまっているぞ! 」
え、あれ?
みると担任の小杉が立っていた。小杉が立っているその後方には、いつも見慣れた教室の風景がのぞいていた。くすくすと奥で笑い声が聞こえる。
「なに、ぼーっとしているんだ。早く中へ入れ」
そう促され、俺はフラフラと教室に入り、席に着いた。
え、あれ? なに? 俺は夢でも見ていたのか? そんなショート・ドリームなんてあります?
釈然としなかった。が、しばらくして冷静になって、俺は自分の置かれた状況にこみあげてくる怒りでわなわなと震えていた。
な、なんてことだ。なぜこんなタイミングなんだ? 神様なぜなんです?
俺は自分の境遇に悲観した。
ひ、ひどすぎるぜ神様。心の準備もなにもあったもんじゃない。人生に『初めて』は数多くある。その一つ一つがきらめくような思い出として残るんだぜ。なのになんですかあの仕打ちは。
家族以外で女の人の裸を生で見たのはそれが初めてだった。