悪魔召喚
突然、何の前触れもなくおれは召喚された。
最初におれの目に映ったのは、錬成陣の前に立つ黒い髪の少女。
その円陣は小さめで、さまざまな構築式がびっしりと書き込まれている。
おれの周囲を囲む大円陣から約一メートルの距離。
少女は見たところ、十代後半ってところか。大きな黒い瞳が妙に印象的だ。
「おれを召還したのはおまえか」
「そう」
少女はそっけなく答えた。あまりおしゃべりが好きなタイプではないらしい。
おれとは対照的だ。だが、たんにおれの存在にびびっているだけなのかもしれない。
よし、ちょいと驚かしてやるか。
そう思って、パチッと指を鳴らすと、青い炎が小さな錬成陣の外側に放たれた。
炎はそのまま内側にそっていき、彼女を捕まえようとするように、勢いよく燃え上がった。 が、彼女が動揺する様子はない。
ちぇっ、残念! 円の中にいれば安全だってことを知ってやがるのか。
おれは心の中で舌打ちした。
かわりに青い炎を消して、硫酸でもふりまいてやろうかとしたところ、さっきと変わらずそっけない口調で彼女は言った。
「遊びはいい。お前に命令を下す」
「誰にいってるのか、わかってるのか」
おれはわざと太くて低い、魔王みたいな声で言った。どこからともなくひびいて、この生意気な女の首筋を逆なでるような声で。
「メフェストフェレス」
少女の声に、おれののどがびくっと震えた。
これは、これは。
まったくの命知らずってわけでもなさそうだな。こいつはおれがだれで何者かちゃんと分かっている。 たぶん、おれの評判も。
少女は目をつぶると、また口を開いた。
「お前に聞く。おまえはその昔、ファウスト博士に呼ばれて魂の契約を交わしたあのメフェストフェレスか?」
まったくしちめんどくさい少女だな、こいつは。おれのほかに誰がいるってんだ?
おれは少しばかり声量をあげた。窓にはりついた氷が、おれの波動を感じてバリバリと割れた。
薄汚れたカーテンがこきざみにゆれている。少女はぎょっとした顔をした。
「おれはメフェストフェレス! 大悪魔にして、大天使。 常に悪を欲して、しかも常に善をおこなう者とはおれのことだ!以前はファウストとかいう奴と契約を交わしたこともある。あいつは欲望の権化だった。そのせいで最後は破滅したがな。
さてと……娘、今度はお前が答える番だ。おれを呼んだお前こそ誰だ?」
「……うるさい」
少女はそういうと、さも不快そうにおれを見た。
なんだよ、グッと来るセリフだったろう?
この言い回しは何千年も使っているんだぜ、これでうるさいと言われたら今までカッコイイと思っていたおれはいったいなんなんだ。
「この魔法陣円のかせと、種々の構築式により、わたしがおまえの主人だ! わたしの命令に従え!」
ほざきやがって。
この手のおきまりのセリフを小娘の口から聞くことぐらい嫌なものはない。
しかもきれいな高い声で。
おれは一発どなりつけたい思いをぐっとこらえて、なるべく冷静に答えた。
とにかく早いとこ切り上げよう。
「それで、お嬢様。ご命令は?」
この時点でたしかにおれは驚いていた。ふつうの人間なら、まずおれたちの姿を見て、それから質問してくる。相手の正体を確認し、自分の呼びだしたものが合っているのかを確認し、それでも気が小さくてなかなか命令など出せないもんだ。
ファウストは例外だったが。
それにだいたい、こいつみたいな小娘が、おれみたいな大物の悪魔を呼ぶこと自体信じられない。
小娘は小さく咳払いした。さてと、いよいよか。ここまで研究を積み重ねて、やっとこの瞬間にこぎつけたんだろう。
彼女はこの時を何年も夢見てきたに違いない。
ふつうなら、おしゃれをして街を闊歩する年ごろだろうに。
おれは険しい目つきで小娘の可愛い命令を待った。
さあ、いってみろ! 物を空中に浮かせてくださいか?
それとも、部屋の模様替えをしてくださいか?
どれもよくあるパターンだ。興味本位でおれを呼び出し、結局おれを目の前にしてくだらない願いしか言えないやつは多い。
そうなりゃおもしろいかもしれない。彼女の命令をちょいと曲解して、泣かせるのも手だ。
「わたしの魂をおまえにわたす。だから、わたしを『不老不死』にしてくれ」
「なんだと?」
「わたしの魂を……」
「それはわかってる!」
せっかちな言い方をするつもりはなかったが、つい言葉が飛び出した。
おまけにせっかくの重々しい声もうわずっちまうし。
「なら、はやく!」
「ちょっと待った!」
胃のあたりがむかついた。予想外の願いってやつだ。この娘はとんでもないことを言い出しやがった!
「おまえ、自分が何言ってるかわかってんのか?」
「わたしはお前の意見を聞く気も、話し合う気も相談する気もない。それに機嫌を取る気も交渉する気も、公にする気も、それから……」
「もういい! こっちだって雛と議論する気はない。だからその丸暗記したようなくだらんセリフはやめてくれ。 誰かにあやつられてるんだろう。 だれだそいつは。お前の師匠か? 子供を盾にした、とんだふぬけだな」
おれは煙の量をおさえて、自分の姿をさらけ出すと、暗がりにぼんやり浮遊した。
「おまえ、火遊びにもほどがあるぞ。このおれを呼びだした上に、『不老不死』をその若さで望むなんてな。いったいここはどこだ? 東アジアか?」
少女は首をふった。
「じゃあ、どこだ? 東南アジアか? 南アジアか? その肌と髪から言って
東洋人なんだろ」
少女はまたも首をふった。
「もとは日本人だが、いまはちがう」
「じゃあ、いったいなんなんだよ?」
「…天界人だ」
ふーん、なるほど。ここは『天界』の気味悪い屋敷か。
これですべての謎は解けた。
そもそも人間の小娘がこのおれを呼べるわけがないのだ。
だが、天界人なら不可能ではない…か…。
おれは硝酸の煙越しに部屋を見まわしてみた。低い天井。はがれかかった壁紙。色あせた絵の油彩がひとつだけ壁にかかっている。
オランダの画家フェルメールの『合奏』か。
小娘にしちゃ渋い《しぶい》趣味だな。
ふつうならアイドル歌手やイケメン俳優のポスターでも飾りそうなもんだが……天界人ってのはたいがい堅物だ。死んだ時からそう。
「ああ、なげかわしい…」
おれはわざと沈んだ声を出した。
「一度死んでいながら、まだ死を怖れるのか」
「お前に何がわかる? 命令は伝えたはずだ。はやくしろ」
二回目の契約命令。今度は腹の中を塩酸がのたくりまわっている気分。
おれのからだが揺らめき始めた。こいつ強制的にやるつもりか。
まだ子どものくせに。
「お前がこわがるべき相手は『死』じゃない。少なくとも今はな。だが、天帝議会が悪魔と契約を交わしたとわかれば、ここへ乗り込んでくるだろう。 女だからって容赦はしないぞ」
「命令にしたがえ」
「わかった」
もうお手上げだ。やつはゆずらない。 ほんと大バカ者だ。
小娘の魂の波動が聞こえる。 そして気づいた。
『あいつ』の魂の波動ととても似ていることに。
おれはしょうがなく、自分の魂のプロテクトを解いた。
もうカッコつけてる場合じゃなかった。