9話【推理】
私と先生、犬神さんは客間で事件の取りまとめをすることにした。犬神さんはあのあとずっと吾浦君の相手をさせられていたようだ。
警察の皆さんも今日はもう引き上げたらしい。
「先輩たちが聞いてきた話を鑑みると伊古野さん、吾浦君、三嶋さんにはいずれも動機らしきものがないことはなさそうですね。もちろん、想像力をたくましくすればですが」
犬神さんは近所のコンビニで仕入れてきたカップラーメンをすすりながら言う。
伊古野さんは画家になる道の引導を渡されたこと、三嶋さんは普段厳しくされていること、というわけか。
「あれ、でも吾浦くんは?」と私。
「女をめぐる争い、ということだろ」と先生。
「ええ。古来より幾度も繰り返した古典的な殺人の動機の一つです」
「女ってのは三嶋由香里か」
「もちろん。父と息子の女をめぐる争いですよ。出水くんの見立てじゃ吾浦くんは三嶋さんに恋慕の情を抱いているわけでしょう?」
「――女ってのは想像力がたくましいな」
「それ、問題発言ですよ」と犬神さん。先生は意に介す様子はない。
「となると他殺か、事故か、あるいは自殺か。それを判定するためにはどうやって殺したか、を考える必要があるな」
「しかし先輩やけに他殺説に拘りますね。普通に考えればこの件は事故ですよ」と犬神さん。
「この俺が関わっているんだ。ただの事故なはずがないだろう」
それでは読者が納得しないだろう、とでもいうかのようだった。私と犬神さんは思わず唖然としてしまう。
「まあそれはそれとして、どんな可能性の低い説でも検証しておく必要はあるだろう」と先生。
「……じゃあとりあえずその説で検討しますか。まず、納豆を仕込んだとして善三さんを殺すことができる確率はどのぐらいあるのでしょうか」と犬神さん。
「その過程に則った場合、犯人はどうして善三さんが納豆アレルギーだと知った、あるいは推測したことになる?」
「その点については、まず善三さん自身がアレルギーを知っていたのかが問題になりますよね」と犬神さん。
その瞬間、こんこん、とドアを叩く音がする。私は返事をするとほぼ同時にドアを開いた。ドアの前にいたのは吾浦君と話したあと先生が頼みごとをした刑事だった。
「ええと……」と私。
「中込です」と刑事。「頼まれていた指紋の件。簡単にですが調べておきましたのでご報告させていただきます」
中込刑事は犬神さんに向かって言う。犬神さんの指示だと思っているので仕方ない。しかし実際には先生の独断なので犬神さんは何の話だ、という顔をしている。中込刑事がそれに気付く様子はなかった。
「木枠には三嶋由香里の指紋がかなり多くついてましたね。香取善三と思われる指紋、香取伊古野の指紋もいくつか検出できました。ペットボトルには全く指紋が付いていませんでした」と中込刑事。
「全くというのは、それはふき取られていたとかそういう意味かい」と先生。
「その可能性もありますが、鑑識の話ではそもそもプラスチックなどに付着した指紋は2,3か月。それも今回のように日光が当たるような場所だともっと早く消えてしまうそうなんです」と中込刑事。「精密な検査をしたとしても、まず判別できるような指紋は採れないだろうと、星名鑑識がおっしゃっていました」
「星名というのは星名大吾鑑識かい」と先生。
「知ってる方なんですか?」と私。
「まあ昔ちょっとな。凄腕の鑑識だよ」と先生。
「星名さんは鑑識生命をかけてもいいとおっしゃっていました」と中込刑事。
「そうか。星名さんがそこまで言うのであれば間違いはないだろう。助かったよ。ね、犬神探偵」と先生。犬神さんは一瞬きょとんとした顔をするが、すぐに真顔に戻って中込刑事にお礼を言う。
中込刑事が去ると犬神さんはやれやれという具合に嘆息する。
「先輩、人の名前を勝手に使いましたね」と犬神さん。
「いいじゃないか。その方が早いんだから。しかし随分急ぎでやってくれたもんだな。お前随分偉くなりやがって」
「どうも。じゃあ事件の検討を再開しましょうや」
「伊古野さんに先ほど聞いたが善三さんのお薬手帳にもアレルギー歴などは無となっていたらしい。家族の誰も知らなかったしな。加えて納豆としらす干しのサンドイッチを一口食べた時点で自分が納豆を食べたのは自覚しているはずだ。にもかかわらず善三さんは8切れ中6切れを口に入れている。おまけに水泳までしている。アナフィラキシーショックが起こり、水泳中に意識を失えばどうなるか。これは小学生でもわかる理屈。
つまり善三さんは自身が納豆アレルギーであることを知らなかった。これは9割以上の蓋然性で真と言っていいのではないか」と先生。
「そうなると犯人はどうやって知りえた、あるいは推測したんでしょう」と私。
「善三さんがどこかで納豆を食べると体調が悪くなることを観察なり本人の言から知りえたか。あるいは先輩と同じような知識を持っていたか」
先生の話では、納豆アレルギー患者の8割はサーファーなどの日常的に海に潜る人であるという。
「つまりは」と私。「善三さんが納豆アレルギーである確率×納豆アレルギー患者がアナフィラキシーショックを発症する確率ってことになりますよね。決して可能性が高いとは言えないと思いますが」
「加えてアナフィラキシーショックが遊泳中に起きるとは必ずしも限らない。もちろん、遊泳中でなくとも十分危険なことは間違いないがな」
「でも忘れていませんよね、先輩。この家では以前に少なくとも2つの不自然な出来事が起きている」
「ああ、これは十中八九プロバビリティの犯罪だ」と先生。私はプロバビリティの犯罪? と聞き返す。
「江戸川乱歩の定義した言葉だ」
なんと。かの江戸川乱歩が。
「乱歩は1954年の『犯罪学雑誌』という学術誌の19巻5号で次のようなことを言っている。
『「こうすれば相手を殺しうるかも知れない。或いは殺し得ないかも知れない。それはその時の運命に任せる」という手段によつて人を殺す話が、探偵小説には屡々描かれている。……
うまく行けばよし、たとえうまく行かなくても、少しも疑われる心配はなく、何度失敗しても、次々と同じような方法をくり返して、いつかは目的を達すればよいという、ずるい殺人方法を、私は「プロバビリティーの犯罪」と名づけている。「必ず」ではなく「うまく行けば」という方法だからである。』とな」
「ああ、確かあれとかプロバビリティの犯罪ものですよね」と犬神さん。
「そこまでだ。犬神。推理小説のネタバレは殴られても文句は言えない愚行だ」と言って先生は犬神さんを制する。
犬神さんははっと気づいたような顔をして押し黙る。推理小説は驚きありきのジャンル。ネタバレを知って読むのと知らずに読むのとではその面白さが大きく違うと言われている。
私の通う大学にも推理小説研究会が存在するが、聞いた話では重大なネタバレが会員間であった場合には、ジュース2本を奢り、さらにはネタバレを聞かせてしまった相手のおすすめの小説を2冊読まなければいけないらしい。
「すでに善三さんの周りでは今回の納豆アナフィラキシーショックのほかにいくつかのプロバビリティの犯罪と思しき兆候が見られる」と先生。
「1つは」と犬神さん。「ネジが緩んでいた杖ですよね」
「もう1つは」と私。「階段に転がっていた画材の缶ですか?」
「その通りだ。だが未だその力を発揮していない2つのトリックが水面下でも進行中なことを俺は確認している」と先生。
「でも先生、どうやって殺したか。その推測が付いたとしても、|誰がこのトリックを用いて善三さんを殺害しようとしたか《フーダニット》なんてわかるんですか? ましてやそれを客観的に証明するのは至難の業のような気がしますけど」
「まあ、それがプロバビリティの犯罪の厄介なところですもんね」と犬神さん。
「心配いらねえよ」と先生。「成功してもしなくてもいい、そんなトリックを幾重にも積み重ねるのがプロバビリティの犯罪。しかし犯人は今回少なくとも一つ決定的なミスをした。スマートなやり方じゃないが、犯人の尻尾は確実に掴む
それと犬神ちょっと連絡して欲しいやつがいるんだが」
「いいですよ、一体どなたですか」と犬神さん。
「三枝だよ。アイツまだ宗像探偵社にいるんだろう?」
「ええ。でも捕まるかな。今うちのサイバー部門のエースですからね」
「マジかよ。どいつもこいつも偉くなりやがって」
「ま、先輩の頼みなら三枝は自分が動けなくても他人を手配するなりなんなりしてやってくれると思いますよ」
「そうか。とりあえず連絡頼むよ」
まだ全ての謎に答を出すことのできるヒントは提示されていません。今読者諸兄が知りえたことから解かるのは以下の3つ。
Q1 真行寺が見つけたあと2つのトリックとは何か。
Q2 犯人は誰か。
Q3 真行寺が言う犯人のミスとは何か。