5話【納豆】
私と先生、犬神さんは客間で会議をしていた。もっとも実際には対して話し合うこともないので、くつろいでいるようなものだった。
結局犬神さんとその部下5人が屋敷中を探し回ったらしいが、手紙の差出人と思しき人物の姿やその人物が何かを仕掛けた痕跡は発見できなかったらしい。
「たばこやめてくださいね」と犬神さん。
先生が懐から出した煙草を吸おうとしたのを諌めるものだった。
先生は舌打ちしながら渋々煙草を戻す。
「相変わらずの嫌煙家だな。大体なんでお前にそんな指図をされにゃならんのだ」と先生。その割にはあっさり戻してたけどな。
「私の鼻が使い物にならなくなったらどうしてくれるんですか」と犬神さん。
「それに煙草は今のうちにやめておいたほうがいいですよ。健康にも悪いですから」
「健康のためなら死んでもいいってか。アメリカ人じゃあるいまいし」と先生。
「でも今の時代喫煙者で居続けるのも楽じゃないでしょう」と私。現都知事は都内の公共空間の禁煙化に力を入れている。それに煙草に付随する税金もどんどん上がってきている。たとえば都内の大学は全面禁煙になるという話も出ているぐらいだ。
「特に未成年の喫煙には厳しいですよ。都知事。先輩も少しは和泉ちゃんに気を使ってあげないと」
「わかってるよ。一応こいつの前では吸わないように気を付けてる」と先生。
なんと。それで随分あっさりと引き下がったのか。先生にそんな思いやりがあったのか。考えてみればそこそこのヘビースモーカーらしき先生だが、私が事務所に勤め始めてからこっち3か月の間一度も私は目の前で喫煙している姿を見たことはなかった。
先生は喫煙できそうな場所を探しに立つついでに、どうせ宗像だっていつもすぱすぱやってんじゃねえか、と悪態を吐く。しかし大体普通は人の家の客間で許可なく煙草吸わないでしょとカウンターを食らわされ早々に退散した。
私は犬神さんと2人残される。どうしよう。間が持つ気がしない。
「どうやら真行寺先輩、君のことを随分大事にしてるみたいだね」と犬神さん。
え? と私。
「私が最後に会ったときなんかは、なんていうか、他人を寄せ付けない雰囲気だったからさ。君が彼の助手だと聞いたときは驚いたよ」
「それは私が押し掛けたみたいなものというかなんというか」と私。
「昔のあの人だったらそれでも受け入れなかったよ。――頼むよ。わかると思うけど、あの人はいつどこに行ってしまうかわからないような危うさがあるからね。君に手綱を抑えておいてほしい」
このときの私は犬神さんが何を言っているか、まだわからなかった。
煙草を吸い終えたらしい先生が帰ってくる。
そのときのことだった。
「真行寺先生、犬神先生、大変です」
伊古野さんが大慌てで駆け寄ってきながらそう叫んだ。
彼女の様子を見ればそのただならぬ様子はおのずと伝わってきた。彼女は全身を水で濡らしていた。その艶やかな長い黒髪はおびただしい量の水滴を滴らせている。
話を聞くより見た方が早いと、伊古野さんと一緒に私たちは駆け出した。
伊古野さんに連れて行かれたのは屋敷内にあるプールだった。
プールサイドには水着姿の善三さんが横たわっている。遠目から見ても意識がないことがわかった。善三さんには長男の吾浦君が横で呼びかけているが反応らしきものは見られない。
我先にとプールサイドにあがった先生は善三さんの様子を観察しはじめる。いつもの先生の緩慢な動きからは想像もできない俊敏な動きだった。
善三さんは意識を失しており、その皮膚には蕁麻疹のような発疹があった。
「伊古野さん、一体何があったんですか」と先生。
「どうやらプールで遊泳中に溺れてしまったようでして。なんとか引き上げたんですが」と伊古野さん。「今由香里さんが救急車を呼んでくれています」
ちょっと失礼、と言って先生は善三さんの気道を確保する。
「息はしているな」と先生は呟く。
「水をはかせたりしなくていいのでしょうか」と伊古野さんが尋ねる。
「息が止まってはいないので、とりあえず。無理に水を吐かせるとかえって気道を塞いでしまいかねません」
ただ溺れただけならいいが。いやもちろんよくはないのだが。この蕁麻疹のような発疹を見るに何か毒物を盛られた可能性も否定はできない。
「まさか善三さん金槌ということはないですよね」と私。
「マリンスポーツも楽しんでいますから。一緒に海に行ったことなどはありませんから正確なことはわかりませんが。まさか金槌ということはないと思います……」と伊古野さん。
「では何か持病の類は?」
「普段からこのように鍛えていましたから。おかげさまで今年の4月に受けた健康診断でも健康そのものだったそうです」
先生は善三さんの口のなかを指でぬぐうようにする。
「危険じゃないですか。何か毒物かも」と私。
「善三さんはまだ息がある。それならば指で少しぬぐったぐらいで死ぬことはないだろう」
先生が指をひらくと、吐しゃ物のようなものが付いていた。私は思わず目をそらしてしまう。
「これは……?」と犬神さん。
「嘔吐したんだろう」と先生。
「水で溺れて嘔吐しますかね」と犬神さんが尋ねる。
「吐き気を催したせいで溺れたのかもしれない。それにこの蕁麻疹。俺はアレルギーじゃないかと思う」
「伊古野さん、何か心当たりはありますか」と犬神さんが尋ねる。
「いえそういったことも含めて父は健康体だったと思います。強いて言うなら最近膝が痛むとは言っていましたが、それぐらいのもので」
先生は吐しゃ物のなかから何か拾い上げる。それは小さな豆のようなものだった。
「真行寺先輩それは?」と犬神さん。
「納豆だろう。善三さんは確か関西のほうのお生まれでしたね」
「大阪の、確か四天王寺あたりの生まれだったはずです」と伊古野さん。
「では香取家ではあまり納豆は食卓に出なかったのではないですか」と先生。
関西人がほかの地域の人に比べて納豆の消費量が少ないというのはよく知られた話だ。最近の若い人はそうでもないという話も聞いたことがあるが。
「そうですね。母も関西の生まれでしたし、2人とも嫌いだとは言っていた覚えがありませんが、習慣として身についていないのか。我が家で納豆が食卓に上ることはほとんどなかったように思います。私も嫌いではありませんが無意識に買い揃えておくようなことはないです」
「それがどうしたんですか、真行寺先輩?」と犬神さん。
「善三さんは納豆アレルギーかもしれません」と先生。
「納豆アレルギー、そんなものがあるんですか」と伊古野さん。
「納豆アレルギー。確かにあります。遅延性アレルギーの一つで摂取してから5時間から12時間ほどしないと発祥しないのであまり知られていませんが」と犬神さん。
「比較的最近わかった話らしいんだが、サーファーなどのマリンスポーツをたしなむ人には納豆アレルギーの人が多いと言われてるんだよ。納豆アレルギーを持つ人の8割ぐらいはサーファーだと言われている」と先生が述べる。
「それは初耳ですね。でもなんで」と犬神さん。
「聞いた話だが、納豆の粘り気の成分であるPGAという物質が納豆アレルギーの原因物質らしい。これは実はクラゲの毒にも含まれていて、マリンスポーツ中にクラゲに刺されることによって納豆PGAに過剰反応するようになるらしい」
「じゃあ真行寺先輩は善三さんは納豆によるアナフィラキシーショックを引き起こし、溺れたと考えているんですか?」
「あくまで。可能性の話だがな」と先生。
救急車が来たのはそれから15分後のことだった。先生の見立てではまだ予断は許さないとのことだったが。もちろん。家族2人と弟子の三嶋さんには絶対に助かるはずです、などといっていたが。
ちなみに警察が来るまでの間、先生の指示のもと私たち6人はプールサイドを1人も離れることはなかった。つまりなんらかの証拠を隠匿する隙はほぼ皆無であったことをここに記しておく。