3話【香取家の人々】
朝、事務所に向かっているときも少し暑いとな感じたが、日中になるといよいよ猛暑日の様相を呈してくる。今日の最高気温は30度を超えるらしい。
私と先生は最寄り駅から車で10分ほどいったところにあるという香取邸までタクシーで向かっていた。しかしこういうお金は一体どこから出ているのだろうか。
香取邸につくと、宗像さん言うところの富豪という表現に似つかわしい洋風の豪邸であった。
私たちがその豪奢さに呆気に取られながら見つめていると、後から私たちに声をかけてくる人物がいる。ぼさぼさの髪に中性的な端正な顔立ち、すらっとした体躯。ブルーのパンツスーツにつばの丸い帽子をかぶっている。メディアで見た通りの雰囲気、今年5番目に事件を解決しているという探偵の犬神遼子さんだ。
「やぁ先輩、まさか先輩と一緒にまた仕事することになるとはね」と犬神さんはやれやれといった風に言う。
「嫌そうだな、犬神」
「そりゃ先輩電波野郎ですからねえ。自分のこと天に定められた名探偵とか言ってたし」
犬神さん、残念ながら今でも言っています。
「お前、随分恩知らずだな。新人の時に鍛えてやったのを忘れたか」
「覚えてますよ。先輩のやり方は独特すぎて何の参考にもなりませんでしたが」
「先生って犬神さんや宗像さんと同じ事務所だったんですね」
「はるか昔の話だがな」
犬神さんはおもむろに私のあごに手を当てて、瞳を覗き込むように目を合わせてくる。同姓だというのに、こんな凛々しいまなざしで見つめられてしまうと。なんだか心なしか自分の心拍数が上がっている気がする。
「ところで先輩、先ほどから気になっていたんだけどこのかわいいお嬢さんは?」
「うちの助手だよ。名前は出水」
「へえ、まあこの人は人でなしだからね。ひどい扱いをされたらぜひ我が宗像探偵社への転職を考えるといいよ」「気を付けろ。そいつは両刀だ」「違いますよ!」
今日二度目の誘いだ。冗談なのだろうけど。私は引きつった笑顔でありがとうございます、と返す。
洋館のなかに入るとリビングのような部屋に3人の人物がいた。2人は女性、1人は男性であった。男性と言っても年齢は高校生か、中学生ぐらいだろうか。
腰ほどまであるロングヘアーを揺らしながら挨拶をしてくれた女性の名前は香取伊古野というらしい。善三さんの長女ということだ。善三さんはすでに60を少し超えたところだと聞くが、この伊古野さんはいくつぐらいなのだろうか。パッと見は女子大生でも通じるような若々しい魅力のある人である。
男性――正確には少年といったところか――の名前は香取吾浦というらしく、香取家の長男であり第二子――つまりは伊古野さんの弟――であるという。おっとりとした魅力のある伊古野さんとは対照的に快活そうな雰囲気のある少年だ。
もう一人の女性は三嶋由香里と名乗った。画家を職業としており、善三氏の弟子のような立場にあるという。伊古野さんとは対照的にショートカットで、ボーイッシュな美人という雰囲気だ。
今日はようこそお越しくださいました、と伊古野が言う。宗像さんの話では、先生を指名したのは父親の善三さんらしいが、そもそも宗像探偵社への依頼は長女の伊古野さんによるものらしい。
「父は今アトリエにいると思います。由香里さんあとでご案内をお願いしていいですか」
「お任せください」とショートカットの画家は言う。
「その前に真行寺さんには見ていただきたいものがございまして」
そう言って伊古野さんはテーブルの上にある封筒をこちらへと差し出す。先生はそれを見ると、すぐには受け取らず犬神さんの方に視線を向け、手のひらを見せる。
「大丈夫ですよ。素手でも。すでに指紋の類は採取していますから。もちろん、何の成果もありませんでしたけどね」と犬神さん。
なるほど。先生の仕草は犬神さんに素手で構わないかと確認を取るものだったらしい。
「まあこんなところに指紋を残してくれるような間抜けな犯人であれば楽だったんだですけどね」と犬神さん。
犬神さんの了承を得た先生は封筒の口を広げ逆さにする。中からは三つ折りにされた便箋が降ってきた。
先生がその便箋を広げると、私も斜め後ろからそれを覗き込んだ。
背景
香取蒼然さま
世界的に著名な画家である貴殿におかれましては、時下ますますご隆 盛のこととお喜び申し上げます。
突然ですが私は貴方と因縁があり、浅からぬ恨みを持っております。簡単に言えば相応の復讐を考えております。
とはいえ、貴方のような偉大な画家の筆が絶たれることは日本美術界の観点から見てもとても悲しいことです。
ですので、警察にでも探偵にでも相談した自衛なさってください。それでも貴方が自衛しきれないのならばそれこそ貴方の天命となるでしょう。
もし許されたいのなら、貴方の抱える罪の告白をせよ。
草々
夕凪の水
慇懃無礼。それが手紙を読み終えた私の最初の感想だった。一見丁寧な口調だし、画家としての善三さんの業績に敬意を払っているように見えるが、その実はとても失礼な手紙である。
相応の復讐。その具体的な内容は手紙のなかでは明らかにされていないが、筆が絶たれる、という表現から殺害する計画があることを予期させる。
手紙はワープロで印字されているようで、これでは筆跡を鑑定することもできない。
先生が封筒を裏返すと、そこには郵便局の消印が押されていた。
「こちらの郵便局は?」と先生が尋ねる。
「どうやらここから一番近い郵便局らしいです」と犬神さん。
つまり犯人はわざわざこの近くまで来て手紙を郵便局で出すなり、ポストに投函するなりしたということになる。この屋敷にでも下見に来ていたのだろうか。
この周辺の人ではないような気がする。この周辺の人がこの手紙の差出人だとすればわざわざ自分が近隣の住民であることを教えて絞り込ませるだけだからだ。
「さっき一応指紋の鑑定はしたと言ったな。それは警察がやったのか」と先生。
「いや伊古野さんたちは一応警察にも連絡したらしいんだけど、大したことはやってくれなかったようだね。まあ一応不審人物がこのあたりをうろついていないか。しばらくは警戒してくれるってことだったけど。
まあこんな悪戯めいた予告状一本で実際には何の事件も起こっていないんじゃ、いくら高額納税者相手と言えども警察もやりようがないよね」
「つまり指紋はお前たちが鑑定したということか。結果はどうだったんだ」
犬神さんは鑑定結果が書かれた用紙をこちらに見せつつ説明してくれる。
「いくつかの指紋は取れましたよ。もちろん手紙の受け取り手である善三さんの指紋。それにポストから手紙を取り出した伊古野さん。ほかにも無数の指紋が付いている。
このうちの一つはこの家にあるほかの郵便物についている指紋と合致した。おそらくは同じ配達員の持ってきたものだから同じ指紋が付いているんじゃないかな。流石に我々探偵では郵便局員に指紋を提供してもらうことは難しいから確かめてはいないけど
あと警察に見せに行った時も警察の方は素手で封筒や手紙に触れていたらしいから彼らの指紋ももちろん着いているだろうね。
封筒がこんな感じ。まあ手紙も同じような状態だけどね。もちろん手紙は封筒のなかに入っていたわけだからこちらには郵便局員のものと思われる指紋は付着していない」と犬神さん。
手紙、封筒共に無数の指紋が付いており、その上に善三さんの指紋が付着している。さらにその上には伊古野さんの指紋だ。そしてさらにそれらの上からいくつかの指紋が付いている。
これでは仮に犯人の指紋が付いていたところで判別できるはずもない。
「じゃあこの夕凪の水っていうのは」と先生。それに答えたのは善三さんの弟子である三島さんだった。
「夕凪の水というのは先生の代表作の1つですね。夕暮れに沈む湖を描いた作品です。かなり若いころの作品でして、先生を画壇において有名にした作品と言ってもいいと思います」
「それを名乗るわけか。なかなか挑戦的な奴だな」と先生は言う。
確かにその通りだ。なんならこのような手紙を送りつけてくる時点で十分挑戦的と言える。香取善三氏に何らかの危害を加えたいというのならばこんな手紙は送らずに不意打ちで犯行を行ったほうが余程成功率は高いだろう。
「ちなみにこれといって何か心当たりのあるような出来事はまだ何も起きていないんですよね」と言って先生は3人に確認を取る。
3人はいずれも心当たりはないということだった。
「それでは由香里さん、早速お二方をアトリエのほうまで案内していただけますか」
「承知しました、伊古野さん」と言って三嶋さんは頭を下げる。