愛について考えてみる。
「恋は求めるもの、愛は許すもの」(ニュアンスのみ引用)みたいな標語を見かけて、ずっと喉に小骨が引っかかっているような感覚だったので、愛について考えてみる。
goo国語辞典から引用すると、
「1 親子・兄弟などがいつくしみ合う気持ち。また、生あるものをかわいがり大事にする気持ち。「―を注ぐ」
2 異性をいとしいと思う心。男女間の、相手を慕う情。恋。「―が芽生える」
3 ある物事を好み、大切に思う気持ち。「芸術に対する―」
4 個人的な感情を超越した、幸せを願う深く温かい心。「人類への―」
5 キリスト教で、神が人類をいつくしみ、幸福を与えること。また、他者を自分と同じようにいつくしむこと。→アガペー
6 仏教で、主として貪愛のこと。自我の欲望に根ざし解脱を妨げるもの。」とある。
最初の標語が恋と対比的に表現されていることから、この場面における愛とは上記2の解釈、もしくは2から変化して他項の意味として使われているようだ。しかし、愛とはそのようなものなのだろうか。
ここで疑問としてあげておきたいのは、
「その『愛』とやらをアガペーのような綺麗なものにしたいだけではないのかね?」
ということだ。確かにアガペーも愛の一部であるようだが、この場合並び立つものとしてエロスが比較にされる。端的に述べれば、アガペーは神からの愛、見返りを求めずに降り注がれる愛であり、エロスは性愛、肉欲的に求め合う愛とされる。
さて、原点に立ち返り、「恋は求めるもの、愛は許すもの」(ニュアンスのみ引用)は何を示唆しているのか。例えばこのような状況はどうだろう。
初めてのデートは、あまり私は好きじゃない中華料理だった。それでも前から気になっていた彼に誘ってもらえたのが嬉しくて、精一杯のおめかしをして出かけた。
彼は出会い頭に
「その白いワンピース、とても似合っているね。でも中華料理は服につくと落ちにくいから、僕のカーディガンでも羽織ってそのワンピースを守ってね。」
と、紺色のカーディガンを差し出した。そんな優しい彼にすぐ惚れ込んでしまったけれど、二回目のデートも中華料理だったのは理解に苦しむ。初めてのデートの時に私があまり食べなかったのは、緊張ではなくてただただ好きじゃないから箸が進まなかっただけなのに。三回目のデートの誘いの時にはさすがに「中華料理はやめてね。好きじゃないの。」と伝えた。
あれから3年、彼は三ヶ月に一回程度は相変わらず中華料理に誘ってくる。私は相変わらず中華料理が好きではないけれど、彼が美味しそうに大ぶりのエビを頰ばる姿を見ると、それ以上頻度を下げるよう要求する気もなくなって、彼の紺色のカーディガンを羽織るのだった。
このような状況は長く交際しているカップルにはありがちだと思う。確かに最初は許せないこと、「なんで気付いてくれないの」と憤ることも、後々には許すようになることは、日常茶飯事だ。しかし、それは愛なのか?それこそが愛なのか?
愛着が湧くには多くの時間を費やす。逆に言えば、多くの時間を費やしさえすれば愛着は湧く。愛着も広義の愛には含まれるとしても、「愛着が湧いたり、こちらが寛容になったり、それで相手を許せるようになることこそ愛なんだよ」。これはあまりに暴論である。まるで「許せない場合は愛ではない」とでも言わんばかりではないか。
本来のごく動物的な欲求から出発するならば、恋愛感情もつがいを探すための欲求であり、繁殖に対する欲求である。これを理性とやらで崇高なものとして欲から切り離そうなどとしてきた哲学は多々あれど、人間が生命体である以上はこの欲求と切り離したところに恋愛を置くことは不可能である。しかし、欲求はそんなにも否定されるべきことなのか?
閑話休題。
サルトルの著書「存在と無」ではマゾヒズムの項目に愛についての解釈が登場する。マゾヒズムは自己愛的ではあるが愛のある上品な嗜好であることは、谷崎潤一郎やマゾッホの著書から読み解ける。そこには許すだけでない、降り注ぐだけでもない、求め求められる愛が描かれている。
私たちの日常の中で愛を感じる瞬間は、許される瞬間だけでなく求められる瞬間も含まれるはずだ。「うんうん、君はそういうところがあるからね。君の気が済むまで旅しておいで。」というのもある種の愛かもしれない。「もう、危ないでしょ。ご飯作って待ってるんだから、早く帰ってきなさい。」も愛ではないか。恋愛感情に関わる愛ならば、むしろ「今ここにいて。会いたい。一緒にいたい。」の方が適切に思われるのだ。なぜなら、後者の方が共に生きようとする一対一の人間であることがより鮮明だからである。