面影行き
文学フリマ短編小説賞への応募作品です。
ただ、この賞を知ったときには、既に締め切りが明日に迫ってました。
仕方ないので、昔書いた短編を引っ張りだし、ちょっと手直しして投稿。果たしてこれで良いのだろうか。
じりじりと、線路が焼ける真夏の日。
いつもの時間、いつもの駅。私、夏橋 日景は、駅のホームで、一人電車が来るのを待っていた。行先は面影橋。荒川線の都電に乗って、ゆらゆらと揺られながら向かうのが日常である。
遠くで、そして近くでも、蝉の鳴き声が響き渡っている。前を向けば反射光が目に入り、思わず目を伏せてしまう。そして、きゅっと目を瞑れば、赤色の光が広がっていく。
何でもない、夏の日常。
何でもない、私の日常。
全てが、いつも通り。変化があるのは、時間くらいだ。とある文芸雑誌の編集会社に入ってから、数年目の夏である。
別に、今の日常に不満があるわけではない。けれど、満足しているわけでもない。ただただ、代わり映えのない毎日を淡々と過ごすだけ。大きな感情の起伏もなく、昨日、上司にも「お前は真面目だが、何か欠けている」と言われてしまった。
その前にも、上司に「恋愛小説特集」の企画リーダーを任命されそうになり、断ってしまったことときは、「まだまだ若い乙女だろうに……」と言われてしまったこともある。
ただ、そう言った類の経験は、今まで一切なかったのだ。参考資料としていくつか恋愛小説を読んだが、いまいちピンとこない。
そのため、「青春時代の恋愛の甘酸っぱさとか、分かるでしょ?」といわれても、「分かりません」としか言えないし、ましてや、「女の子なら恋愛の一つや二つしてる筈だろう」なんて言葉は、軽い言葉の暴力に思えた。
若い乙女なのに、恋のこの字も分からない。それは、確かに普通とはズレているかもしれないが、「分からないものは分からない」のだ。どうしようもない。そのことについて幾度も言及されても、私はただ辛いだけだ。一応、「気が変わったら、いつでも言ってくれ」と言われ、保留の形になったが、多分、ずっと変わらないと思う。
ちなみに、上司だけではなく、後輩や先輩と上手く付き合えていない。特に嫌われているわけではないけれど、何となく距離を作られているというか、「近寄り難い」と思われているようである。
企画の件もあって、昨日は、そのことを学生時代からの旧友に相談したのだが、「確かに、昔に比べて無愛想になったかもね」と言われてしまい、その言葉は妙に私の胸に突き刺さったものだ。それからずっと、モヤモヤした気分が抜けていない。
私は、一体何が欠けているのだろう……。考えても分からない。いや、正確に言えば、考える気が起きない。感情までも、年々淡白になりつつあるようだ。
「……はぁ」
思わず、ため息が一つ。視界も足元へと向けられ、地面と、レールと、去年買った黒いハイヒールが目に入る。
私は、暑さから逃げるように、日影から少しはみ出した椅子に深く座り、眼を瞑って、静かに電車を待つことにした。
そして、暑さと陽炎に満ちた空気を揺らすように、彼方からガタンガタンという音が響いた。私は顔をあげ、音のする方へ顔を向ける
段々と音は近付き、見えたのは一両の電車。電車が来るまで、まだ数分ある筈だが、どうやら少し早めに到着したらしい。
電車は、どんどん駅へと近づいてくる。やがて、その姿がはっきりと見えるようになり、そこで私はあることに気付く。……7500形。昔使われていた、都電のデザイン。今この駅に近づいてきている電車は、そのデザインだったのだ。レトロとまではいかないが、懐かしい雰囲気を漂わせている。
私は、そんな光景に非日常を感じつつ、どこか惹かれていた。電車は私の目の前で停車し、ゆっくりと扉が開く。乗客は一人もおらず、乗っているのは車掌さんだけだ。その車掌さんも、帽子を深く被っていて表情が分からず、口元くらいしか良く見えない。
気付けば、懐かしい雰囲気はより鮮明になっており、私に「乗れ」と誘っているようだ。行先には、「面影橋」の「橋」が擦れて、「面影行き」と表示されている。
電車のドアは、まだ閉まる気配を見せない。私は、恐る恐る椅子から立ち上がり、ゆっくりと電車へと足を運ばせる。そして、中に入るや否や、ドアは閉まり、ガタンと電車が揺れた。まるで、私が乗るのを待っていたかのようである。
とりあえず、座席に腰をおろし、景色を眺めながら揺られてみる。いつもと変わらぬ街の景色は、とうに見飽きているが、この電車に満ちるノスタルジックさは、何となく、このいつもの街並みさえも、懐かしくしてくれる気がした。
と、そんなことを考えつつ、しばらく窓の景色を眺めていると……。
「あら?」
突如、くらりと景色が霞んだ。一体何事だと目をこすり、再び窓の外を凝視する。
すると、そこには――
「嘘……。このビル、ずっと前になくなった筈じゃ……」
信じられない光景が、広がっていた。まるで、タイムスリップしてしまったかの如く、窓の外の景色が「昔見た景色」に戻っていたのだ。電車はなおも進んでいき、そのたびに懐かしい景色が目の前に広がっていく。
何が何だか分からないまま、私はその光景に釘付けになっていた。そして、ふと硝子に反射した自分の姿に、更なる衝撃を受ける。
「えっ、こ、この格好……。それに、背も、顔も……。な、何よこれ!」
気付けば、自分の姿までも昔の頃に、少女の頃の姿に戻っていたのだった。もう、懐かしいとかそういう話しではない、夢と疑っても何らおかしくない状況だ。ただ、それにしては意識がはっきりしているし、頬を抓れば、痛覚もしっかり働いた。
景色はどんどんと遡り、私の姿もそれに合わせて変わって行く。そして、遂には小学生の頃までに戻ってしまい、服装もその頃によく着ていた、白いワンピース姿になっていた。
そんな、あまりにも信じられない事態に、私は思わず車掌さんのもとへと駆けだしていた。操縦室への扉を叩き、大声で叫ぶ。
「あ、あの! これ、どういうことなんですか!」
声も、すっかり少女の時分のものになっていた。そんな声に、車掌さんはゆっくりとこちらを振り向く。
「……どうかなさいましたか」
「あ、あの、ですから、これは一体」
「……この電車は、あなたの面影を辿る電車ですから」
「な、何を言って……」
「……これ以上のことは、お答え出来ません。危ないですので、座席にお戻りください」
そう言い放って、車掌さんは再び前を向いてしまった。その背中には、「何を聞かれても応じない」という意思が宿っている気がして、私は何も言えず、すごすごと席へ戻ることしか出来なかった。
信じられない事実に混乱しながら、私は座席に座る。電車は未だに揺れ、進み続けているようだ。窓の外を見てみれば、何も映っていない、真っ白な景色が広がっていることに気付く。それは、雪のような純白ではなく、強く眩しい太陽の光に満たされているような白さだった。
やがて、白い景色はぼんやりと歪みだし、それと共に、ノイズのような音が耳に流れ込む。音は段々と明確になっていき、やがて少女や少年たちの声であることに気付く。賑やかに笑いあうその声は、どこか懐かしい。
気付けば、窓の外の光景も変貌していた。等間隔に並んでいたものをバラバラにしてしまったかのような、机と椅子。落書きだらけの黒板。【今月の目標】と書かれた張り紙。ロッカー。……そして、そこで賑やかに話し合う、子供達。
いつしか、私の目の前には、その当時通っていた小学校の光景が、広がっていたのだった。どことなく見覚えのある顔もあり、今でも付き合いがある知り合いに関しては、面影をはっきりと感じられる。
当然、その中には私も居た。廊下側の端っこの席に座り、女友達と笑顔で会話している。どんな話をしていたかは思い出せないけれど、あんな笑顔をしているからには、とても楽しんで会話をしているのだろう。
別に、今だって笑うことは出来るけれど、今の私の笑顔と、この頃の私の笑顔とでは、まるで比べ物にならない、決定的な違いがある気がした。もっと屈託がなく、純粋に、心の底から、笑う……。今の私には、それが出来ない気がする。
思えば、この頃の私は、一体どんな未来を想像していたのだろうか。少なくとも、満足も不満足もない淡々とした日常を送ることになるとは、微塵にも思っていなかっただろう。
「あぁ……。そうだ。確か、お花屋さんとか言ってたかな」
今思えば、子供らしい、可愛い夢だ。確か、お花摘みが好きで、花の栞とかを良く作っていた気がする。
そうそう。そして、その栞を、父親の本棚から適当に選んだ本に挟んで、皆に見せたんだった。皆が作り方を聞いてきて、ちょっとだけ自慢げになったのを覚えている。
「懐かしいなぁ……」
流れ込む記憶に、私は思わずノスタルジックに浸ってしまっていた。現実離れしているはずのこの状況に、すっかり順応しているようだ。
窓の外の景色は、再び変化していく。小学四年生の頃だろうか? 少しだけ背が伸びた私の姿が映し出されている。それに合わせて、私の姿も、向こう側の自分と同じ姿になっていた。
「これ……。合唱コンクールの練習かな」
体育館の舞台の上に並び、大きな声で歌っている子供達。そう言えば、クラスに一人凄く音痴な子が居て、どうしようということになったっけ……。結局、ピアノが少し弾けるから、そっちを一生懸命練習して、本番にはしっかり演奏出来るようになってた筈だ。
今では、こんなにたくさんの人と歌う機会なんて、まずないだろう。こうして振り返ってみると、学生の頃にしか出来なかった、貴重な体験だったんだと思える。大勢の人と協力して、何かを成し遂げるなんて、今だと会社の企画くらいしか思い浮かばない。
景色は再び変化し、今度は卒業式だ。私は全く泣いていないし、他の子も泣いていない。とは言え、小学校の卒業式なんて、こんなものだろう。むしろ、泣きそうなのは私の担任だった女の先生だ。とても感情豊かで、優しい先生だったのを覚えている。
流れるように景色は変わり、今度は中学の入学式。私の格好も、当時着ていたセーラー服になっていた。景色の中の私も、同じ格好をしている。背も小学生の頃よりはずっと伸びているようだ。
そのまま場面は変わり、今度は掲示板の前にたくさんの生徒が集まっている光景が映し出される。どうやら、クラス割表らしい。様々な生徒が一喜一憂し、当時の私も、同じクラスになった友達と、手を繋ぎ合って喜んでいる。
まだまだ景色は変わる。今度は授業風景。小学生の頃よりずっと難しくなった授業に、新鮮さと不安が混ざった感情で臨んでいる。初めての中間試験にも、緊張したのを覚えている。
そういえば、この頃から文系だけは得意で、良く本を読んでいた。作った栞を使いたかったこともあり、小学生の頃から、読書は良くしていたのだ。……きっと、ここから今の私の仕事に繋がっていくのだろう。
どんなことが未来に繋がっていくかなんて、そのときは結構気付かないものだ。こうやって、明確に思い出を振り返って、初めて気付くことが出来ることも、多いのかもしれない。
「色々、忘れてるんだなぁ……」
文芸部の部員たちと笑いあっている自分の姿を見つめながら、ぽつりと呟く。過去のことなんて、気付けば陽炎のようにぼんやりとしてしまっているものだ。思い出したくないこともたくさんあって、その過去を消すと共に、巻き込まれるように消えてしまうのだろう。
勿論、全て忘れてしまっているわけではない。そうではないけれど、やっぱり、ほとんどの過去が幽かな光景とでしか映し出されず、具体的な内容だって、ほとんど分からない。
「面影を辿る……かぁ」
車掌さんは、確かにそう言っていた。この電車が普通の電車ではないことなんて、とっくに分かっていたことだけど、改めて、不思議な出来事に遭遇してしまっているなと思う。
今更騒ぐのも馬鹿馬鹿しいし、このまま大人しく面影を振り返らせて貰おう。電車は進み、景色もまだ変わっていく。
初めて友達とお泊まりをした光景。
部活で必要もない合宿にいった光景。
数学で赤点をとってしまい、補習を受けることになった光景。
体育祭で、僅差で準優秀になってしまった光景。
友達と、喧嘩して、仲直りするまでの光景。
たくさんの思い出が、
たくさんの忘れていたことが、
窓の外の光景となって、流れていく。
気付けば、もう高校生の頃の面影まできていた。紺色のブレザーに身を包み、今の私と同じように、電車に乗って揺られている。
あまり上の高校には入れなかったけれど、友達も何人か入学して、交友関係に困ることはなかった。授業は相変わらず、文系しか良い点をとれない。部活は中学と同じ文芸部に入り、文字を書くよりも、他の部員の書いた小説を読んで、評価することが多かった。
恐らく、この頃に、私の将来の道はほとんど決まったのだろう。何となく、文章関係の仕事に就くことを考えていた筈だ。
ただ、それは夢と言うよりも、もっと現実的な理由でなろうと思ったものだろう。小学生の頃とは違い、思考はずっとリアルになり、漠然とした夢を語るのは、何となく、憚られていた気がする。
大人になるということは、現実に向かっていくこと。私は、そう思う。何だか、子供の時間と言うのは、夢のようなものであって、大人に近づくたびに、段々とその夢から覚めて、最後には現実と向き合うことになるのだ。
私は今、そんな現実の中に居て、満足も不満もない毎日を過ごしている。……いや、不満は、あるのかもしれない。こうやって面影を振り返っていくごとに、私は今の私と過去の私を、比べているのだから。
もし、私に欠けているらしい「何か」が見つかれば、今の淡々とした毎日から抜け出せるのだろうか? 現実に打ちのめされているわけでも、立ち向かえているわけでもない「今」から……。
流れる面影の景色を眺めながら、私は心の中でそう期待していると、
「あら?」
急に、電車の揺れが収まった。景色も変化を止め、最初の真っ白な光景に戻ってしまっている。一体何事かと思っていると、不意に運転室の扉が開き、中から車掌さんが現れた。
「え、えっと、どうしたんですか? 電車、止まっちゃいましたけど」
「……ここから先の面影は、あなたが“置いていった“もの”です」
「お、置いていったもの……?」
「……忘れようとしたもの、思い出せないようにしたものです。もし、この面影を辿れば、それを思い出してしまいます。それでもよろしいですか?」
「えっ、そ、そんなこと、急に言われても」
私が、思い出したくない記憶……。もし、今までの流れで行けば、高校二年生の記憶になるだろう。私の二年生の頃は、確か――、
「確か……あ、あれ?」
「……置いていった記憶は、思い出すことは出来ません。そしてそれは、あなたが望んだことでもあります」
「わ、私……が?」
そんなこと、記憶にない。けれど、それさえも忘れていると言うのなら、仕方ないことなのだろう。
思い出せなくなることを、忘れることを、望んだ記憶。それは十中八九、良い思い出ではない筈だ。本来なら、このまま思い出せないままで、忘れたままでいたほうが、良いのだろう。
けれど、私には「欠けている」ものがある。もしかしたら、それはその置いていったしまった記憶が関係しているのではないだろうか? 根拠はないけれど、何となくそんな気がする。
「……どうしますか。無論、どちらでも構いません。あなたが自由に決めてください」
「……わ、私は」
「…………」
「お、思い、だしたいです。その、置いていってしまった記憶を」
「……かしこまりました」
そう言うや否や、車掌さんは運転室へと戻っていってしまった。しかし、電車は動かないままだ。そのことに、思わず首を傾げていると、
「え……?」
気付けば、目の前の座席に、鏡映しのように“私”が座っていた。
それだけはない、その隣には、一人の男子生徒が座っている。お互い、何か会話していおり、“私”はとても楽しそうで、男の方はそんな“私”を、優しい表情で見つめている。
彼は、一体誰なのだろう。全く覚えがない。ここまで仲睦まじく話しているのだ、余ほど親密な関係だったのだろう。そんな人物のことを忘れそうにもない筈なのだが。
「あ、そっか。……これが、置いていった記憶なんだ」
それなら納得だ。今、目の前で繰り広げられているこの光景が、私の置いていった記憶。思い出せないことを、忘れることを、望んだ記憶。
……けれど、どうしたこんな光景を、置いていこうとしたのだろう。もっと辛い記憶だと思ったのに、何だか妙に幸せそうだ。
いや、実際にそうなのだろう。だって、こんな楽しそうな“私”の笑顔なんて、今まで振り返った面影の中でも一度もない。一体、どういうことなのだろう。どうして、こんな幸せな記憶を、置いていってしまったのだろう。
「……あ」
思わず、声を漏らした。
そのあとに訪れたのは、暫くの放心。目の前の“私”を見つめたまま、動けない。そして、ようやく我に返ったのは、それから数秒だったのか、それとも数分だったのか。どちらにせよ、一つ確かなことがある。
……思い出した。
置いていった記憶。そして、置いていった理由。
その全てを、思い出した。
そう、確かに私は、幸せだった。彼とは、中学になって知り合った仲だった。文芸部に入ったことで知り合い、何となく気があって、よく一緒に会話したり、帰ったりしたのである。
そして、当然と言うか、いつしか私は、彼に恋心を抱き、その想いを中学の卒業と同時に伝えた。同じ高校に入れないことを知り、もう二度と会えなくなる前にと思って、とった行動だった。
告白は、見事に成功した。私と彼は付き合うことになり、高校に入った後も、付き合いは続いた。今、目の前にある光景のように、放課後待ち合わせをして、よく一緒に帰っていたのである。
本当に、
本当に、幸せだった。
……けれど。
それは、今日みたいに、陽炎が揺れる夏の日だった。夏休みに入り、その日は彼とのデートの日。いつもより気合を入れて、おめかしをして、幸せ一杯の気持ちで、待ち合わせ場所に向かった。
でも、彼はいつまで経っても来なかった。いつもなら、待ち合わせ時間ピッタリにつく彼が来なかった。
いつまで経っても、
いつまで経っても、
ずっと、ずっと、ずっと。
永遠に。
事故だった。待ち合わせ場所に向かう途中だったのだろう。信号無視の車に轢かれて、彼はいってしまった。即死だったらしい。
そのことを知って、私はどれだけ泣いただろう。それは、流石に思い出せない。思い出せないけど、きっと、もう二度と泣くことは出来ないんじゃないかと思うくらい、泣いたに違いない。
そして、実際に、私はもう泣くことはなかった。
だって、全部思い出せないようにしたのだから。
全部、忘れてしまったのだから。
「……けれど、今、全て思い出せましたね」
「……あ。車掌さん」
気付けば、車掌さんが私の目の前に立っていた。目の前で広がっていた“私”の光景も、いつの間にか消えている。
「……この電車のことも、思い出せましたか?」
「はい。全部」
そう、この、不可思議で、夢幻のような電車のことも、私は知っていた。忘れていた。
この電車に乗ったのは、今日が初めてではない。あの時、私が彼と死別した次の日に、私はこの電車に出会い、乗車した。
そして、その直前、私は自殺をしようとしていた筈だ。けれど、この電車に出会い、乗車して……“私は記憶を置いていった”。
「……この電車は、人々の思い出したくない記憶を、【駅】として置いていくことが出来ます。……そして、その記憶を必要としたときに、再びその人の前に現れ、思い出すことが出来るのです」
「この記憶を……必要とする?」
「……ええ。あなたは、自分でも気付いているように、“何か”が欠けている。そして、それはつまり」
「この記憶、なんですね……」
ずっとずっと、私に欠けていたもの。私が、忘れていたもの。それは、死を選んでしまおうと思ったほどの、絶望の記憶だった。もう、とっくに過ぎ去ってしまった、色褪せた記憶だけれど、私の胸には、傷が、痛みが、再び滲みだしている気がした。
こんなことなら、思い出さない方が良かったのだろうか。けれど、必要としたのは私なのだ。満足も、不満もない、でも、心の奥で不満がある日常の中で、無意識に。
「……本当に、記憶ですか?」
「え?」
車掌さんの意外な言葉に、私は思わず振り返った。相変わらず表情が分からないが、雰囲気はどこか優しげだった。
「……あなたに欠けていたものです。確かに、記憶もそうでしょう。けれど、本当にそれだけですか?」
「え、えっと、違うんですか?」
「……記憶は、あくまで忘れていたものです。欠けていたものは、もっと別のもの。よく、考えてみてください」
私からは以上です。そう言って、車掌さんは踵を返してしまう。
欠けていたものは、もっと別なもの……。どう言う意味なのだろう。予想外の言葉に唖然とする中で、私は考える。記憶以外に、失ったもの。記憶と共に、失ったもの。
――思いだす。
今までの日常を。あの日から過ごした日常を。私は何を望んだだろうか。何が足りなかったのだろうか。何が理由で、満足も不満足も得られなかったのだろうか。どうして、心の奥では、不満がチラついていたのだろうか。
愛しい人と死別し、幸せな毎日が壊れ、全てを投げ出そうとしたあの日からの日常。
この電車に出会い、そのことを忘れ、そんな日々を振り返ることなく、淡々と過ごした日常。
忘れていたのは、彼との思い出。彼に抱いていた想い。
とても、とても幸せだったから、それを失ってしまったとき、あまりにも辛くて、耐えきれなくて。いっそのこと、忘れてしまった。
じゃあ、どうして、また必要としたのだろう。どうして、また、彼への思い出を、彼への想いを、私は……。
……あれ?
……想……い?
「――っ」
頭の中で、パチリと何かが弾けたような気がした。
ああ、そうか。
そういう、ことなのか。
確かに、そうだ。私は、それが決定的に欠けていた。あの日からずっと、欠けていた。だから私は、満足も不満も得ず、でも、心のどこかで、不満を持っていたのだろう。
そのことに気付いた瞬間、ガタンと電車が揺れた。そして、ゆっくりとスピードを上げ、電車は再び動き出す。徐に運転室の方へと顔を向けると、車掌さんの背中が目に映った。
それと同時に、私の意識は徐々に霞んでいき、まるで陽炎の中へ身を投じている気分になっていく。じりじりとした暑さが身を包み、蝉の鳴き声が微かに頭に響きだして、ああ、戻っていくんだなぁ、と、まどろみの思考が頭に過りだした。
と、そんな朦朧とした意識の中で、ふと車掌さんがこちらを向いた気がした。そして、帽子に手をかけ、脱いだときにようやく見えた顔は……。
――遠く、色褪せた、あの笑顔にそっくりだった。
「……ん」
きゅっと瞑った目に、赤い光が満ちる。私はそっと目を開き、夏の眩しさに目を細める。うとうとした頭はやがて覚醒し、自分の居る場所が、駅のホームであることを認識する。
時計を見れば、電車が来るまで、あと一駅くらい。どうやら、時間はほとんど経過していなかったらしい。
結局、あれは夢だったのだろうか。それは、分からない。けれど、私の心の中には、確かに残っており、あの日の記憶も、しっかりと思いだせるようになっていた。彼の笑顔が何度も脳内に映し出されて、その度に、胸の奥が苦しくなる。
やっぱり、思い出さない方が良かったのだろうか? ……いや、そんなことはない。確かに、苦しい。辛い。なるべくなら、思い出したくない。けれど、その代わり、大切な感情を思い出せたのだ。
きっと、この感情があるかないかで、この世界の見方は大きく変わっていくに違いないだろう。だから、思い出すべきだった。忘れるべきでは、なかったのだ。
と、そんな感慨にふけていると、突如携帯の着信音が鳴り響いた。見れば、会社の上司からだ。私は急いで電話に出る。
「はい、もしもし」
「ああ、夏橋さん。悪いね、いきなり。ちょっと相談があってね……」
「はぁ。何でしょうか」
「ほら、前に断られた、恋愛小説特集の件。悪いんだけど、やっぱり夏橋さんに企画リーダーを頼みたいんだよ。ほら、恋愛経験なくてもさ、若くてなお且つ仕事に慣れてるのって、君しかいないんだよ。だから――」
「……構いませんよ」
「どうにかお願い出来ないかなって……うん? 今、何て?」
「ですから、構いませんよ。恋愛小説特集ですね。任せてください」
「ほ、本当かい? いやぁ、助かるよ! しかし、随分あっさり了承してくれたけど、何かあったのかい?」
「そうですね……。ふふっ、まぁ、色々と」
「ははっ、なんだい。何だか、性格も少し変った気がするねぇ」
「そうですか?」
「うん、前よりも、声が明るいよ。まぁ、じゃあ、ぜひとも頼んだよ!」
「はい!」
と、そこで電話が切れた。
私は、携帯をしまい、夏に陰る線路と駅のホームを一瞥し、ゆっくりと目を閉じる。
いつもの時間、
いつもの駅。
向かう先は「面影橋」。
やっぱり、何でもない、茹だるような真夏の日だ。
けれど、変化のない日常は、今の“私”になら、少しだけ輝いて見えるだろう。
恋の花は、きっともう、咲かないかもしれないけれど。
私はようやく、“私”に戻ることが出来たのだ。
閉じた瞳をそっと開き、時間を確認して立ち上がる。
――そして、
ガタンガタン、と
遠くから、電車のやって来る音が、聞こえてきたのであった。