第一章 ・争乱篇 「初段 残影」
此処は、都より遥か東方に離れた奥之国と呼ばれる辺境の地である。
季節は収穫の時期を迎え、夜になれば心地良く風がそよぎ、人々の心からも「戦」という文字が忘れ去られようとしていた時期の事である・・・。
奥之国は四方を山々に囲まれ、当に天然の要害と呼ぶに相応しい地である。
遥か南を眺めると、国境にこの島国で一番高い山が青く聳えているのが美しい。
奥之国は、他の国々の中で一番広大であり、先の戦の折、天虎将軍に任ぜられた五神大将の一人、甲斐信虎が治めている。
盆地のはぼ中心にある山の頂には居城が築かれ、周囲には砦が幾つか点在している。
その山城の周囲には、小規模ではあるが城下町も形成されていた。
国土の殆どは田畑であり、善政が敷かれてきたため、民の生活は比較的豊かな地である。が、この国の更に東には「蛮地」と呼ばれる魔物が棲むとされる未開の地であり、人々が貧しかった時代には、所謂口減らしのために子供や老人を捨てに行った奥が知れぬ程広大な森林が拡がっている。
そんな理由からか、他国の人々が近づくことは少なかった。
・・・サーッ・・・
この季節にしては珍しく、強い風が吹き荒れ山野の草木を激しく揺らしていた。
空には雲が強い風に煽られて絶え絶えに流れ、その雲間から時折下弦の月が、ほの白い光を地上に注いでいる。
こんな夜分に静々と砦に向かう大集団があった。
戦は終結し、平和が保たれてはいたが、まだ、主君を家臣たちが護衛するという習慣が残っているのである。
騎馬千、※雷火(※らいか・鉄砲の様な物)五百、投射と軽兵二千五百総勢四千の堂々たる軍勢である。
この国で現在これ程の兵力を持つのは、甲斐家の一門衆しかいない。
だが、これ程の軍勢にもかかわらず、皆無言で一様に下ばかりを見ながら進んでゆく。
疲れているのであろうか、兵達の顔色にも冴えがない。
それどころか、まるで野辺送りの様に見える。
程なくして、集団は、壱の砦の門へ辿り着いた。
この砦は、城を守る一番初めの砦であると同時に出城の役目も果たす比較的大き目のものであった。
周囲には、堀や柵が幾重にも設けられており、堅固な造りとなっている。
その奥にある石を巧に組み合わせた壁に囲まれた門は、大きな金属製の重厚な物である。
閉ざされたその門の前に軍団は整然と並び止った。
少ししてその中から騎乗した男が一人徐に進み出てくる。
「きっ、木曽近信である!交代のために参った!」影は妙に緊張した声を放った。
楼上に居た衛兵は居眠りをしていたらしくビクリ、とその声に反応する。
「・・・木曽殿でありますか?交代にはまだ少し時間が早いようですが・・・」
松明を掲げながらその門外にいる声を発した主の顔を確認している。
声の主も兵数名に松明を掲げさせ、自分の顔がはっきりと判るようにしている。
「今回は※轟雷火(※ごうらいか・大砲の様な物)の交換もある。交代時間より早めに参上致した。」
後ろに控えた、四頭の馬に引かせた鉄の大きな筒を指差して続ける。
「判りました。今門を開けますので暫くお待ちくだされ。」
衛兵達はすぐさま砦の門を開け始める。
ギッ、ギィィ・・・・木材の軋む大きな音とともに、ゴォという大きな別の重低音が辺りに響き渡り、重厚な砦の門が開いてゆく。
「夜分、ご苦労である。」近信は、そそくさと門を通過して行った。
その後に続々と続く無言の兵士達・・・
「雷火、軽兵二百五十づつ此処に残れ。」砦の内に兵士達が全て入ったのを確認すると、近信は、五百の兵に砦内に待機するよう命令を下した。
砦の中には、元々百人程の衛兵達が待機している。
「こんな夜更けに何事だ?」開門の大きな音に、待機していた兵達が起き出して来た。
「おう、久しぶりだな」目を擦りながら知った顔を見付けて声を掛ける。
「あっ、ああ」
「何だ、久し振りに会ったのに元気無いな」
「あぁ、もう、夜更けだから疲れてるだけだ」久し振りに顔を合わす者が多く居たが、あまり多く言葉を交わそうとしない彼等に少し違和感を覚えたものの、衛兵達はさしてそれを気に止める事も無く再び待機所に戻りはじめた。
「・・・火の手が上がったら、速やかに動き砦を制圧せよ・・・」
近信に耳打ちされた軽兵長は無言でやや俯きその場を立ち去った。
他の兵達は、すぐさま次の砦を目指して進み始める。
「上手くゆきましたな・・・」砦から少し離れた所で馬を近づけ声を掛けて来たのは息子の為信であった。
「何を抜かすか、問題は次じゃ・・・よりによって今回はあの頑固爺めが守っておる・・・。」薄らと額に汗を滲ませ、狼狽の色を窺わせている。
「父上、ご安心なされませ。道長殿も手筈通りもう周囲に兵を伏せておりましょう。」
焦る父親を何とか落ち着かせようと言葉を続ける。
「そうでなくては困る。まさか、道長め話を仕掛けておいて裏切りはせんであろうな。吾等の命が危うい・・・」
「なぁに、一門衆の吾等が裏切るとはまさか思いますまい。それに夜襲するのですから、まず失敗は無いかと。それに、あの虎盛を討ち取れば、父上の名声は大きく上がりまする。大事の前に此れ位の危険はつき物です。上手くいった暁には父上は国主になられまする。」
「こっちも命懸けなのじゃ、それ位の見返りは当然の事じゃ・・・」近信が夜空を仰ぎ見ると大きな雲が空一面に広がり始めていた。
「天の助けか、それとも破滅の予兆か・・・」ぽつりと近信が漏らす。
「天の助けにござりまする。」為信はすぐさま返した。
休む間もないまま二人は次の砦へと急ぎ兵を進め始めた。
為信の言葉通り、その頃砦の周囲や国境付近には黒尽くめの大集団が既に到着し、周囲の山林に身を潜めて物音一つ立てない。
全ての光や音を吸収してしまう闇のように異様な光景が広がっている。
無論、気付く者など一人も居まい。
そして、砦から見えるもう一つの山の頂きに黒い陣幕が張られていた。
それとて夜陰に紛れて判る筈も無い。
陣幕の中心には、一人の男がどっしりと椅子に腰掛け身構えている。
側近と思われる細身の長身の男一人の他は誰の姿も見当たらない。
「近信では心配ですな・・・」冷たい声の響きである。
表情も無く、身動ぎもせず、中心の人物に向かい視線を送る。
「捨て駒に用はない。手筈は整っておろう・・・」やはり表情も無く、身動ぎもせず、ぼそりと呟くよう返す。
長身の男より更に冷たい全てが凍てつくかのような声色が響く。
「程無く頃合かと・・・」声と同時に細身の男は、陣幕より風のように消えていた。
男は言葉も無く静かに視線を送っただけだった。
夜風は一層強さを増し、木々を揺さぶり始める・・・。
「雨か・・・」男は、鋭い眼光を一瞬一切光の無い夜空へ向けた。
それは、あたかも自分がこの闇の根源であるかのように不気味、否、戦慄さへ憶える光景であった。
音、光、この世のありとあらゆるもの全てを飲み込むような一点の光も無い虚ろな瞳。
この男の前では、全ての生有る者が希望を失い、男から逃れる唯一の方法が死である事を一瞬にして悟るであろう。
かくも恐ろしき男が直ぐ足元まで訪れていようとは、ここに居る誰が予想出来たであろうか・・・。
近信達が砦の門に到着した頃、突如激しい雷雨となった。
「父上、当に天の助けです!」為信は狂喜の表情で囁く。
だが、近信は、心中気が気では無かった。「これでは雷火が使えぬ・・・剣での戦となればこちらが不利となるやも知れぬ・・・」
近信は、徐に馬を進めると、「虎盛殿!近信只今到着致した!早く門を開けて下され!」あらん限りの大声を張り上げる。
「今日は、何時もより大分早いのぉ。」楼上からこの激しい雷雨の中はっきりと聞き取れるとても老人とは思えない声が返って来た。
「見て判らぬか!?この雨じゃ!兵達を休ませたい。早く開けて下され!」
楼上の老人はじっと此方を窺いながら、「なぁに、もうじき止むであろう。そんなに慌てる事は無い。老体はそんなに早く動かせぬわい。」手にした剣を杖のように突いて見せながら、馬鹿にした返事を返してきた。
近信の顔に明らかに狼狽の色が見え始めた。キリキリと歯を食い縛っている。
「何故の仕打ちか!」近信は吐き捨てるように言い放った。
「何時もの近信殿とは違って、今日は大分慌てておられるのぉ。」百戦錬磨の老人は近信のそんな様子を見逃さなかった。
「なっ、何を言っておられる、わしは、ちっとも急いでなどおらぬ!」何とか取り繕おうと必死になる。
「なら、老人はもう一眠りするわい。」と虎盛が後ろを向いて歩き始めた時であった。
ヒョウッ!空を切る一筋の音が近信の頭上を通り過ぎて行った。
驚きの余り振り返ると、馬上で投射を構える為信の姿があった。
焦った為信は、投射で射掛けてしまったのだ。
虎盛は、何事も無かったかのように、体を半分捻っただけで投射をかわして見せた。
「やはりな・・・老いたりとはいえ、まだこの眼は節穴にはなっておらぬわっ!」虎盛の怒号が響く。
「むぅっ!何たる事じゃっ!馬鹿者が焦りおって!」隣に出て来た為信を殴りつける。
その勢いで為信が落馬した瞬間、ドゴゥッ!という雷鳴のような轟音と共に凄まじい地響きと大気の振動が近信達の脇を走り抜けたかと思うと、砦の門が粉々に吹き飛んだ。
驚嘆したまま近信達が振り返ると、轟雷火の周囲に居た兵達が、余りの衝撃に吹き飛ばされたのが目に入った。
「なっ!」不意に襲った凄まじい衝撃に、虎盛は後方へ跳ね飛ばされ、「ぐはっ!」肺の中の空気が全て押し出される程の衝撃で後方の壁に激突し、床へ転がる。
だが、ミシミシと音を立てながら、直ぐに床は崩れ始めた。
必死に体勢を立て直そうとする虎盛の目に口から煙の立ち昇る轟雷火が映る。
「ぐぅ!ぬかったわ!」虎盛が声を発しながら立ち上がるのと同時に、一面に土煙が立ち込め、轟音と共に砦の門は崩れ去った。
周囲の視界が土煙によって奪われ一瞬の静寂が訪れる・・・
近信父子も、兵士達も、何が起こったのか全く解らずに硬直したままだ。
そんな中、始めに我に返ったのは、為信であった。
「ちっ、父上今です!早く突撃の合図を!」腰から剣を引き抜くと前方の城へ刃を振り翳す。
近信は、慌てて采配を取ると、震える手でそれを振るった。「ぜ、全軍突撃じゃっ!」
呆気に取られていた兵士達は、為信が馬で走り出したのを見て釣られて走り出す。
やがて、ワーっ!兵士達から突撃の声が挙がり始めた時だった。
ビュンっ!という音と共に、立ち込めていた土煙を巻き上げながら、何かが物凄い速度で走り抜けて行く。
すると、先を駆けていた兵士達の声が急に止み、次の瞬間、土煙の中の兵士達の影が真っ二つに裂けてバタバタと倒れた。
豪雨により消えつつある土煙の中から、現れた人影の発するただならぬ気配を感じ、後退りを始める兵士も見える。
「この刃の錆になりたい者はかかって参れっツ!」虎盛であった。
とても、老人の発するものとは思えぬ気迫に、兵士達の動きは完全に止まった。
「・・・こ、これが百歩斬か・・・」為信は、初めて目にした光景に呆然とした。
実戦を経験した事の無い為信にとっては、余りにも大きな衝撃である。
原虎盛は、甲斐家一の老将であるが、甲斐家弐拾四神将の一人に数えられ、多くの戦で先陣を任された「鬼虎」の異名を持つ、一騎当千の豪の者である。
その凄まじい剣圧は、百歩離れた敵さえも切り裂く程と言われ、敵から「百歩斬」と恐れられていた。
「参る!」腰の剣に手を掛け、近信父子に向かって虎盛が走り出した時、凄まじいばかりの殺気が、一瞬にして張り詰めた。
虎盛の足が止まった。
「むぅ!」俄かに虎盛の表情が曇り、くるりと背後へ振り返る。
崩れ去った門の瓦礫の中から黒く細い長身の人影が現れた。
「久しいのぉ・・・」厳しい表情のまま虎盛は口を開く。
「・・・まだ死に切れずにいたか・・・」感情の欠片など微塵も感じられない冷たい声色で、長身の男が答える。
「暗黒道へなぞ堕ちおって・・・。今日こそわしが引導を渡してやる!」虎盛は腰の剣に手を掛ける。
「・・・死に切れぬなら、ここで引導を渡してやろう・・・」長身の男も剣を抜く。
すらりと細身の冷たく輝く刀身が現れると同時に、虎盛の首筋に細い光の筋が走る。
ギンっツ!鈍い金属音が響き渡り、虎盛の剣が、素早く細い光の筋を遮った。
長身男は全く動いてはいない・・・否、動いていないように見えるのだ。
「剣が止まって見えるぞ、昔より腕が鈍ったのではないか?風斬りの名が泣いているな。」虎盛は、挑発した。
「ほざけ・・・」長身の男の殺気が増大してゆく。
素早く動き回る二人の周囲からは、鈍い金属音と、剣圧による衝撃が無数に伝わって来るだけである。
太刀筋など二人の他の誰にも見えはしないのだ。
周囲の兵士達は、何が起こっているのかさえ分からず、ただ呆然と立ち尽くしその光景に見とれていた。
「信虎を殺せっツ!」長身の男は、低く呻く声で鋭く叫んだ。
為信はハッと我に返ると、「父上、城に攻め込みますぞ!」とやはり近くで呆然としている近信に声を掛け、近くの兵士達を率いて城へと突撃を開始した。
「おのれ!近信っ!」虎盛は大喝し追いかけようとする。
「・・・貴様の相手は俺だ・・・」長身の男は、薄ら笑いを浮かべてその前に立ちはだかった。
「貴様に追いつかれるとは、わしの足も、随分遅くなったものだ。」虎盛が辺りを見回すと、虎盛の兵は轟雷火の一撃によって殆どが瓦礫の下敷きとなり、残った者達も満足に動ける者がほとんど居ない。
「爺、よそ見をしている暇など無いぞ・・・」間髪居れずに剣が走る。
「ならば早々に決着をつけるまでよ・・・。」それを受け流す虎盛の表情が戦人のそれに変わった。
その頃、最初の砦で待機していた近信の兵達が遠くから響く音に気付いた。
密かに見張りをしていた近信の兵隊長が音のした方角を見るとうっすらと夜空が赤く染まり始めたのが見える。
ピィー 隊長は鳥の鳴きまねをして合図を送る。
それに呼応して近信の兵達が素早く動き砦の各所に向かって行く。
「うわっ!な、何だ!」まさかの事態に虎盛の兵達は抵抗する暇も無く瞬く間に砦は制圧され開門された。
虎盛の兵達を一ヵ所に集め、近信の兵隊長が「お前達を皆殺しにしろと命令されているが、抵抗しなければ私は殺すつもりはない!」と声を上げた時だった。
「誰がそれを許すと言ったのだ…」その声を打ち消して砦内に低く冷たい声が響き渡った。
兵達が振り返るといつの間にか砦の中に入り込んだ黒尽くめの大集団が雷火の口を兵達に向けている。
サッと黒尽くめの男が手を挙げた瞬間雷火が一斉に火を噴いた。
「殿ぉ!」同じ頃、城内では、寝所までの廊下を熊谷房春が疾走していた。
「何事か?」轟雷火の音を聞きつけた信虎は既に起き上がっている。
「敵襲でございますっツ!」房春は戸を開け放ったと同時に声を張り上げた。
「敵襲か・・・」信虎は微動だにしない。
「殿、早くお逃げ下されっ!」
「何者か?」
「家紋より木曽殿かとっ!」
「木曽か・・・」信虎は目を閉じ暫し沈黙した。
「殿!早くお逃げを!岩山城まで逃げ切れば!」
この皐月ヶ崎館から最も近い岩山城は、甲斐四名将の一人春日昌信が守る城である。
「否、無駄じゃ。近信一人では動くまい。必ず誰か内通する者がいるはずじゃ・・・それより房春、隼人を頼む。」
「いえ、なりませぬ!ここはこの房春にお任せ下さりませ!殿は若と奥方を連れ早くお逃げ下され!」
「房春、これはわしの死に場所であろう、なぁ、朝子よ・・・」
何時の間にか妻の朝子が寝所に来て剣を差し出している。
「奥方様も!早くお逃げ下されっ!」朝子も表情一つ変えない。
「私は、甲斐家の女です。何処までも殿にお供致します。それより房春、隼人を頼みます。」これ以上の美しさは無い、凛とした空気に包まれた女の顔がそこにはあった。
「なれば、この房春もお供仕りまする!」
「それはならぬ、これは最後の命令じゃ。房春よ、お前は隼人を守ってやってくれ。隼人が生きてさえ居れば大丈夫じゃ。それに、まだ死ぬと決まった訳では無い。あの虎盛砦におるであろう。何やら昔を思い出して血が滾ってくるわ。」若き日の信虎を彷彿とさせる笑顔がそこにはあった。
「お館様・・・房春しかと承知致しました、我が命に代えまして・・・。」房春は込み上げるものを抑えながら、二人の顔を見て覚悟を決めた。
房春の返事が終わるのと同時に入って来た者があった。
「何をしているのです!父上も母上も早くお逃げ下さいっ!」隼人であった。
「隼人、お前は岩山城へ逃れよ。」一振の剣を差し出しながら信虎は言った。
「父上!何を仰せになりますか!出来る訳がありません!共に戦いまするっ!」隼人は苛立ちを顕にしながら叫んだ。
「房春・・・。」ぽつりと信虎が言うや否や「御免っ!」房春は、隼人の鳩尾に猛烈な一打を放つ。
「ぐぅっ・・・ち、父上・・・」全く予想もしていなかった攻撃に隼人は気を失いその場に倒れ込んだ。
「房春、必ずや若をお守り致します!殿も奥方様もご無事で・・・。」隼人を肩に担ぎ上げると急ぎ部屋を後にした。
「晴幸の言っていた通りであるな・・・さぁ、参るか。」晴幸とは、天下三知将の筆頭と謳われた甲斐家軍師、元名晴幸である。しかし、晴幸は戦の終わりから二年後、その終焉を見届けるように病没していた。
「はい、晴幸の言葉を信じましょう・・・」
「朝子よ、何か昔を思い出すな・・・。お前には迷惑ばかり掛けた・・・」
「いいえ、殿と出会えて実に楽しい人生にございました。この先は隼人と残った者達に任せましょう・・・」やはり、朝子も何時に無くにこやかな表情であった。
その頃、虎盛は城門に一番近い集落の付近で未だ死闘を繰り広げていた。
雨はいつの間にか収まりつつあった。
暗闇の中、集落の家々からも次々と火の手が上がり、さながら地獄絵図の様相を呈している。
「どうした大分疲れている様だな・・・」
強いとは言え、既に虎盛も老人であり、大きく肩で息をし始めていた。
雨と泥に塗れた身体には幾筋かの切創が刻まれ、そこから滴る血が炎を反射させテラテラと鈍い光を放っている。
「死ね・・・」男は言葉と共に無数の斬撃を繰り出しす。
「まだまだじゃ!」男の最初の一撃を体を半分捻ってかわした時、虎盛の瞳に、泥に足を滑らせながらも敵兵から必死に逃げ惑う子供の姿が映った。
「はっ!」虎盛は、鋭い斬撃を繰り出す。
「老い耄れめ、何処を狙っている」虎盛の放った衝撃波は、男の脇を通り過ぎて行き、子供を追いかけていた敵兵が、背中から二つに裂け倒れた。
「他人の心配などしている暇は無かろう・・・」その一瞬の隙を見逃さず、男の剣は虎盛の左脇腹を切り裂いた。
「ぐうっ!」虎盛は、苦悶の表情と共に左から男の胴を薙ぐように一撃を繰り出す。
男は斬撃を剣で防いだものの、その衝撃は胴へ傷を付けるに十分なものであった。
ワーっ!
丁度その時、城門の辺りで、為信の兵士達が大きな叫び声を上げるのが聞こえた。
虎盛は視線を送る。
突然に城門が開かれ、城内から味方の兵士達が討って出たのが見える。
その先頭には、白装束を身に纏い白馬に跨った信虎と朝子の姿があった。
為信の兵は、信虎らの勢いに圧倒され、次々と蹴散らされてゆく。
「御館様っ!」虎盛の目に再び気力が漲り、男へ強打を浴びせる。
「役立たず共めが!」男も怒りを顕にしながら次々と攻撃を繰り出す。
虎盛は、男の攻撃を躱しながら何とか信虎へ近づこうとするが、男の攻撃も激しさを増しそれを許さない。
「しまっ・・・」虎盛が男の剣撃を受け止めた時、泥に足を滑らせ後ろへ倒れた。
「死ねっ!」それを見逃さず、男の剣が虎盛の頸を刎ねようとした瞬間であった。
「虎盛っ!」鋭い叫び声と共に男の剣が、ギンっと鈍い音を立て衝撃波で弾き返された。
「待たせたな!虎盛!」信虎は馬から降り虎盛を庇うように男の前に立ちはだかった。
「ふっ・・・お前の頸も頂くとしよう・・・」男は二人から素早く距離を取ると、静かに信虎へ視線を向けた。
「久しく顔を合わせぬうちに醜悪になったな・・・」信虎も鋭い視線を返す。
「虎盛、一撃で仕留めるぞ。」信虎は、全身傷だらけの虎盛が真横に立ち上がったのを見ながら声を掛ける。
「わしも老いたものじゃ、そろそろ決着を付けねばいかんのぉ」虎盛は剣を鞘に納めると全身に力を込め始める。
力が入るのに合わせて脇腹からの出血が止まり、同時に周囲から気が収斂されてゆく。
信虎も剣を鞘に納め静かに目を閉じた。
「フッ、この一撃で纏めて仕止めてやる、苦しまずに逝け・・・」男も剣を目の前に翳すように構えると、全身に気を込め始める。
すると、刀身がそれと呼応し冷気を帯びたように青白く輝きだした。
双方の周囲には、風を弾き返すほどの気が充満してゆく。
やがて、空気も時間でさえも止んだような刹那が現れた。
次の瞬間、二人の抜刀と共にゴオゥっという轟音が走り、凄まじい衝撃波が男へ向かってゆく。
同時に男が剣を横に薙ぐと、それが真空波を生み、衝撃波の源へ疾風と共に無数の斬撃が向かっていった。
その二つがぶつかり合った瞬間、激しい土煙が立ち上り小さな嵐が生まれ、双方の姿はそれに飲み込まれて見えなくなった。
そして、一瞬の静寂が訪れた。
暫くして、薄くなった土煙の中に双方立ち尽くした姿が現れた。
ズルリと男の右腕がずり落ちてゆく。
男には、既に頸が無かった。
数秒の後、男であったモノがその場にどっと倒れた。
虎盛はガクリと両膝を落とし、地面に突き立てた剣で体を支えている。
その時であった。
「双虎咆哮、未だ健在か・・・」冷たい声が辺りに響と同時に、前方に迫る黒ずくめの大集団が二人の目に入った。
「道長・・・」信虎がぽつりと呟いた。
道長が、高々と上げた右腕を振り下ろすと同時に二人に向けられた数百丁の雷火が一斉に火を吹いた。
下書き