序章
この物語は、世界の遥か東方に位置する、周囲を海に囲まれた「日出ずる国」と呼ばれる島国が、再び国中を巻き込んだ大乱へと向かった時代の物語である。
時は天声九年の初めの頃であった。
先の帝の座をめぐる争いに端を発した国内の騒乱にようやく終止符が打たれ、人々の心にもようやく安堵が齎されるようになっていた。
その日は、昨夜まで数日続いた嵐が嘘のように治まり、心地良い程の風が流れ、夜空に薄くかかった雲の間を月が見え隠れしていた。
「ええぃ、まだか・・・」一人の白装束を纏ったやや細身の男が何やら徐に立ち上がると、苛々とした様子で、正殿の二階にある控えの間の中をうろうろと歩き廻り始めた。
「太政大臣殿、まぁそう焦っても仕方ありませぬぞ」やはり白装束に身を包んだもう一人の小太りな男が、その様子を見かねて声をかける。
「左大臣はよくもそんなに落ち着いて居られるものじゃ・・・」その声掛けに目も合わせず廊下に出ると、松明に照らし出されたここ正殿の隣の館を落ち着かぬ様子で眺め始めると、「左大臣、吾等の運命がかかっているのですぞ!」やや語気を強めて返した。
その視線の先には、赤い武官の装束を纏った多くの男達が、館の周囲をぐるりと取り囲んでいるのが見える。
「※投射(※とうしゃ・和弓に似た武器)を鳴らせ!」館の入り口に立つ男の号令を合図に、館の周囲に配置されていた武官達が手にしている投射の弦を天に向かって一斉に鳴らし始めた。
「いよいよじゃ・・・」太政大臣の額には、薄らと汗が滲んでいる。
魔よけの鳴弦がビンビンと鳴り響く中、館正面の庭の中心では、祈祷が始まろうとしていた。
庭の中心に北向きに築かれた祭壇の最上段には、大きな円形の鏡が一つ置かれ、白々と月影を反射させている。
弐の段には、沢山の海の幸、山の幸が盛られた大きな白い皿が供物として並び、周囲の松明と蠟燭の炎にてらてらと闇の中に明るく照らし出されていた。
その祭壇の前には、大きな護摩壇が築かれ、焚かれた炎は、天へと届かんばかりの激しさで立ち昇っている。
護摩壇の前には、恭しく額づく一人黒衣の男の姿が護摩壇の炎に赤々と照らされており、それらの四方を囲う形で一辺に十人ずつ印を結んだ白装束の男達がぐるりと配されている。
やがて、黒衣の男はゆっくりとその面を上げてゆく。
すっと通った鼻筋に涼やかな目、真一文字に静かに結ばれた口元。
黒衣に対比して、女のように白く透き通った肌が、赤々と護摩壇の炎を反射させ、怪しいまでの美しさを放っていた。
正面の台に置かれた祭文を恭しく取り上げると、胸の高さでそれを開いてゆく。
「天の社に神留り坐ります・・・」男は、低音でゆっくりと祝詞の奏上を始めた。
それから暫くして、祈祷が終盤に差し掛かった頃であった。
今までそよそよと心地よく吹いていた風がピタリと止まり、耳鳴りが起こる程の圧迫感が辺りを支配したかと思うと、北東の空の隅に小さな黒雲が生じ、それがスルスルと急激に拡がり夜空を覆いつくした。
「あっ、あの黒雲は何じゃっ!何と不吉な・・・」太政大臣は手にしていた扇で口元を覆い隠した。
すと、その雲が拡がり始めた方角より、何とも言えぬ重く強い風が急激にゴウゴウと音を響かせながら吹き付けた。
正殿全体がピカリと強烈に輝きその風を一瞬遮ったものの、正殿を包む光の衣は直ぐに消え去った。
「あなや!」廊下でその様子を見つめていた太政大臣は、一言大声を上げると、急激に吹き込んだ風に煽られ、仰向けのまま勢いよく吹き飛ばされ倒れ込んだ。
それと同時に、正殿の戸の殆どがバリバリと音を立てながら破れ吹き飛んでゆく。
「おお、誰ぞ、誰ぞあるっ!」戸が破れ飛ぶ音と左大臣の声に、直ぐさま数名の武官達が駆け寄り、太政大臣を助け起こすと、控えの間の左大臣の傍へと素早く運び、周囲を取り囲んだ。
「結界が破られたぞっ!博士だけは命に代えてお護りせよ!」庭の白装束の男達の一人が叫んだ瞬間、祭壇の鏡が黒衣の男の頬を掠めて凄まじい勢いで吹き飛び、祭壇も護摩壇もガラガラと音を立てて崩れ去った。
それらの破片や炎が凄まじい勢いで白装束の男達に次々と襲い掛かる。
四方を取り囲んでいた白装束の男達は次々と倒れてゆく。
鏡が掠めた男の頬には一筋の線が走り、やがてその線から血が滲み始めるが、男は全く動じる事無く印を結んだまま微動だにしない。
動く事が出来る数人の白装束の男達が、必死に印を結び続けながら黒衣の男の周囲を取り囲んだ。
「館は無事かっ!」取り囲んだ男の一人が叫んだ時であった。
巨大な雷鳴が、大気をビリビリと振るわせながら響き渡ると、目が眩むほど眩い閃光が夜空を引き裂き、正殿の隣の館へ巨大な雷光となって直撃した。
刹那、館全体が青白く輝き、雷光は轟音だけを残して消滅していた。
その後、一瞬の静寂が訪れ豪雨となった。
豪雨となった頃、館の奥の間に控える女官達の動きが俄に慌しくなった。
「お后様、もう少しにございまする!」女官長の声色が一層緊張を増す。
「ぎゃぁぁー!」后の絶叫が館内に響き渡ったかと思うと、大きな産声が上がった。
「あぁ、何と・・・」
「こ、これは・・・」女官達の口から次々と声が漏れた。
「如何した!して、どちらじゃ?!」女官達の声を聞きつけ、控えの間の天文博士が、襖の外から聞き返す。
「み、皇子様にござりまする。そっ、それが・・・」女官達の声が震えている。
「開けますぞ!」天文博士は声を掛けると急ぎ襖を開け奥の間へと入った。
「何と・・・」博士は、后の血で染まった白衣の女官が抱きかかえている赤子の姿が目に飛び込んだ瞬間絶句した。
女官達の後ろに見える布団の上に后は薬で眠らされている。
「お后様の命に別状はございませぬ・・・」視線に気付いた女官が答えた。
「この事は他言無用であるぞ!もし、他の者に知れた場合、お前達の命が無いものと思え。」天文博士は低い声で女官達にきつく口止めをした。
「不吉な・・・。如何すべきか・・・。」天文博士は表情を曇らせ、控えの間で一人思案を巡らせていた。
それから十八年の歳月が流れた・・・
下書き