3 私は恋を手放した(後)
心地よい温もりに包まれていた私は、すうっと目が覚めた。そして、すぐさま叫び声を上げなかった自分を褒めてあげたい。近い近い近い!目を開けたら至近距離にイケメンの顔とか何の罰だ。顔に吐息のかかる距離とか冗談じゃないですよ。
あったかいなーとか思ってた、目を開ける前の半寝ぼけ状態の自分を殴りたい。膝抱っことか何それ。しかも私の身体を囲うようにしっかりホールドされてますが。色々おかしいよ。
そんな状態でのぞき込まれるようにされてたら、そりゃ顔も近いさ。赤くなるやら青くなるやらで、私の顔色は忙しい。冷や汗も出ているような気がする。硬直した私に構わず、イケメンこと婚約者は軽いリップ音とともに私の額に口付けた。
ひいいいい、勘弁して下さい。
締め落とされて、気付いたら膝抱っこでキスとか。わけがわからないよ!ていうか、この人、色気駄々漏れなんだけど!血の気が失せて冷たくなった私の指先に、上目遣いでキスするとかどこの物語の王子様だ。……乙女ゲームの攻略キャラ様でしたね。すみません。
絶賛混乱中の私を余所に、彼は私の結い上げていない髪の毛を一房すくい、それにも口づけを落とす。誰かこのキス魔を止めてくれ。ゲームでの彼はこんな色気キャラではなかったはずなんだけどなあ。
しかも私を抱き込んでいたはずの片方の手が、何やら妖しい動きに変わってきている。腰のラインをなぞったり、お腹を撫でたり。うわぁい、空気がピンクを通り越して紫になってる気がしてならないってばよ。十八禁な展開はごめんです。
「あ、の……」
硬直から立ち直り、居心地の悪い膝の上でもぞもぞと動きながらやっとのことで出した声は、途中で途切れ、自分でも吃驚するくらいにか細く小さかった。
……だからさ、何でそんなに力いっぱい抱き締めるかな。さっきもそのせいで息ができなくて気を失ったんだけど。もしやこの人、私の事が嫌いで締め殺しにきてるの?
いい加減怒っていいよね?全力アッパーキメてもいいよね?動けないから無理だしどうせ出来はしないけど、想像するくらいは私の自由だ。
しかしそろそろ膝の上から下ろしていただきたい。どれくらい気絶していたのかは知らないけれど、身体が強張っているような気がする。
「駄目だ。無理だ。嫌だ」
開口一番。低く告げられた声に思考が止まる。ええっと、何が?単語でなく文章で話して下さい。何の事だかさっぱりですよ。順を追って話してもらわないと、結論だけ言われても困る。
「婚約は解消しない」
「……はあ”っ?」
強い口調で断言された。つまりは、婚約破棄は自分にとっても醜聞になるからしないし、私をキープしときながら聖女を口説く、と宣言されたわけか?元々この婚約話は政略的なものが大部分だったとはいえ、これはない。最低。
眉間に皺が寄るのを止められない。睨みつけるように彼を見上げると、そこにあったのは予想外の表情。
嬉しい嬉しいと、大好きな飼い主に構ってもらってご機嫌な犬の様、といえば解りやすいだろうか。ピンと立った犬耳と、わっさわっさと忙しなく振られる尻尾の幻影が見えたような気がした。あら、可愛い……とか思ってないよ。思ってないったら。
「俺が貴女との婚約を解消するなんてありえない。貴女を手放すなんて出来るはずがない」
これは、もしかしなくてもさっきの考えは違うってこと、か。でも実際に彼が聖女と抱き合っていたのを見たし、噂だってあった。噂は噂だけど、火のない所には煙だって立ちはしない。
「聖女には協力してもらっていただけで、何の関係も感情もない。貴女の本音を知りたかったから、悪いとは思いながらも試した。どうしても不安で、我慢出来なくて。……その結果、婚約破棄の話が出るなんてね。己の浅はかさに後悔はしたよ。貴女の心を試すような事をしたから、罰が当たったのかもしれないって。だからといってそこで自分が悪かったんだと諦められるほど、俺の貴女へ対する想いは軽くないんだ」
こんな男が婚約者でごめんね、と言いながらも愛おし気に私の頬をゆっくりと撫でる彼の手の平は温かく、眩いものを見るように細められた瞳は確かな熱情を孕んでいる。
や、思いっきり居心地が悪いんですけどー!超・至近距離でイケメン様にされるには破壊力がパネェことこの上なし。恥ずかしいが限界突破しそうです。誰かマジでこのイケメン様をどうにかしてくれ!
助けを求めて室内にいるはずの侍女達を探そうと視線を彷徨わせるも、それすら許さないとばかりに、顔を固定されて目を合わせられる。
今までこんなにあからさまな態度を取られた事などなかったのに、いきなり何でさ!言ってはなんだが、お互いビジネスライクな関係じゃなかったか?まるで別人のような変貌っぷりについていけなくて、今まで被っていた淑女の猫がログアウトしそうなんですけども。
全身で私への想いを伝えてくる彼は、蕩けそうな微笑みとともに決定的な一言を紡ぐ。
「俺は貴女だけを愛しているんだ」
そしてまた顔中にキスの雨を降らせる。これは……私の完敗である。潔く負けを認めるしかないじゃない。厳重に封じたはずの小さな想いは、いともあっさりこじ開けられてしまった。他でもない彼によって。
幼い頃に芽生えた思いに蓋をしたのは私の意思だ。だって怖かった。それを認めてしまったら、ゲームのプログラムには逆らえないような気がしたから。逆らえない先に待っているのは死亡フラグのみ。死にたくないのなら、必死に抗うに決まっているだろう。
だから私は別の道を探した。恋に生きるには私の精神は軟弱で、臆病で、諦めが良かったから。
だから私は接触を避けた。少しでも彼にかかわる事で自分の決心が揺らがないように。
だから私は貴族である事に殊更こだわった。気安い聖女と違えば違うほど彼の心には留まらないと思ったから。
だから私はこのままいけば厄介に育つ思いに蓋をした。好きな人には笑顔でいて欲しいという私の願いのために。
だから私は、恋を手放したのだ。
「貴女が、俺の唯一」
けれど……そんな私が手に入れたのは、蕩けるような愛だった。
「本当は、ね。俺以外の誰も貴女のその瞳には映したくないし、声だって聞かせたくないし、同じ空気を吸わせたくもない。誰の目にも触れさせないで、俺だけを見て、俺だけを感じて、俺だけを頼って、俺だけに縋って、俺のことしか考えないようにしたいけれど。そんな事をしたら、貴女は貴女じゃなくなるだろう?俺の愛した貴女じゃなくなるのは何が理由であろうと許せない。だから貴女は貴女のままでいて」
そう言って微笑む彼に私は何と言えただろう。予想外にも程がある。私は口元の引きつった笑みを返すので精一杯だった。
私のヤンデレフラグは折った。それは間違いない、が。まさか、そんな、私じゃなくて……。
あるぇ?