03
「怪我は?」
キリ-が尋ねたのはあきらの部屋から出て来たイヴだった。
「怪我は無いし、犯られても無い。」
端的に答えたイヴにキリ-とエラ-は何とも嫌な顔をしたが、僅かに安堵して息を吐いた。
「精神状態は?」
精神科医のディランからすれば身体の傷より当然懸念事項なのだろう。
「だいぶ落ち着いた。エラ-にお礼を云いたいと云ってたけど明日で良いと云っといた。ただ、Dr佐和が今夜は女だけで話をしたいから男性陣は引き取って欲しいって。キリ-はうちに行ってエラ-と酒でも飲んでて。勿論ディランもアリスもいくら飲んでも構わないから。」
体よく追い払われることになったが男達は文句ひとつ言わずに立ち上がった。こんな時は逆らうべきでは無い。
こんな事件の後で満足できるまで飲める量が無いとしても。
男達が出て行くとキッドが現われキッチンの戸棚からウィスキーとワインの瓶を取り出しグラスを用意した。
簡単なつまみを並べる頃にDr佐和とあきらが話しながら出て来る。
「油断は仕方が無いわよ、あんな馬鹿警戒する方がおかしいんだもの。」
「負ける相手だとは思わなかったから余計腹が立つ。」
あきらの答えにイヴが振り返って笑った。
「負けた訳じゃ無いだろ、真面な勝負をした訳じゃ無い。」
黙ったままのキッドにあきらは眼を向けた。
「母ちゃん、怒ってるだろ。それでもホセを殺すなよ。」
「・・・・半殺しなら良いか?」
「自分でケリぐらい付けられるぞ。」
しばらく考え込んでキッドは眼を上げた。
「私も昔レイプされそうになった。あれは怖い物だ。」
初めて聞く事実にあきらが黙るとイヴがなんだか懐かしそうに微笑んだ。
「そうそう、それでキリ-の出番になったんだよね。」
「あらぁ、あの時の話はそんな発端だったの?」
「おい、止めれ。子供の前で・・・」
止めかけたキッドをイヴが諌めた。
「子供だからこそ男の馬鹿さと良さを聞いて置いた方が良い。耳で知って置いただけでも違うもんだ。」
それにDr佐和が乗っかった。
「一理あるわね。それじゃみんなの初体験の話でもしましょうか。」
イヴの十八の頃、同級生の不慣れな相手との興味本位なだけで痛いだけの初体験や、Dr佐和の初めてだと云えないまま相手も気付かず終わってしまった話にあきらは眼を丸くしてキッドに向けた。
「やれやれだな。いいか、父ちゃんには云うなよ、これはガールズトークだからな。」
九龍島での任務からレイプされかけ助けられはしても怖かった話はあきらも納得がいったが、経験しておいた方が良いからとキリ-に頼んだ事態に至っては笑うしかなかった。
「母ちゃんも母ちゃんだけど・・・・父ちゃんも・・・」
笑い過ぎて涙を拭きながらイヴが応えた。
「キリ-とキッドがお互いを好きなのは多分当事者以外は全員知ってたんだよ。私としてはキリ-に同情するね。次の機会はフェニックスで再会するまで無かったんだから。」
「まさか・・・だって、毎朝朝食を一緒に食べていたんでしょう。」
Dr佐和に応えたのはキッドだった。
「男の生理を知らなかったからね、経験したってガキだった。私的には同じ時間を過ごせれば満足だったし。それと・・・次はフェニックスじゃない、私が南米に出る最後の晩コオが事後ピルを持たせてキリ-を部屋に蹴り込んで来たんだ。『ここで見張ってるからな。』ってキリ-に云ったらしい。」
爆笑の中でDr佐和が苦しそうに尋ねる。
「本当に見張っていたのかしら。」
「いいや、キリ-は真に受けてたけど次の日にコオに聞いたら『そんな暇な事をして居られるか、この阿呆!』って怒鳴られたんだって。」
テーブルに突っ伏して笑う三人を見てキッドが懐かしげに呟いた。
「周り中に心配かけていたし、見守られていたんだな。今思えば有難いだけだ。」
笑い収めてふっとイヴが真顔になった。
「私もだ。ジ-ンとウルフには感謝するしかない。ずっとエラ-を好きだったけどこんな形を作ってくれたのはあの二人だった。諦めていたからね、エラ-は私なんか興味無さそうだったし。」
「そうかぁ、珀龍のプロポーズ事件でエラ-は魂抜けたようになってたって聞いたよ。キリ-はこれ程困った事は無かったって。Dr佐和がジ-ンに『キリ-が連れて来た裸のイヴの下着を持ってこい。』って云ったから。」
「あら嫌だ。そんな騒ぎになってたの?」
「コオがキリ-に『お前は前科があるからな。』って云ったって。」
「それは私か。」
「他に無いでしょ。キリ-がジ-ンにタコ殴りされた時ウルフなんか困り返っていたんだから。」
吹き出したイヴがDr佐和に眼を向けた。
「ディランは良く生きる気になったね。ジ-ンはかなり心配してた。」
そうねぇ、と呟いてDr佐和の眼が細められた。
「イヴは知ってるけど私はそれこそディランと一緒に生きるか、もしくは死ぬ心算でいたのよ。」
Dr佐和がG倶楽部のジ-ンに奇襲を掛けたのは戦争後期、戦局がかなり厳しくなった時期だった。
欧州にも戦火が及び始めたと聞いたその日にDr佐和はG倶楽部に前触れも無く乗り込んだ。
『ジ-ン、ディランの居場所を教えて。』
男は綺麗な緑灰色の瞳でDr佐和を見つめて、
『G倶楽部員の所在は極秘事項だ。例えDrでも教えることは出来ない。』
大概の者なら迫力負けするはずだが、Dr佐和は椅子に踏ん反り返ったジ-ンの胸ぐらを華奢な手で掴みあげ、唸るような声で囁いた。
『G倶楽部なんてクソ喰らえだわ、私は惚れた男の処に行くのよ。邪魔はさせないわ、例え貴方でもね。』
どれほど真剣でもこんな脅しに屈するような男では無い。
そんなことは百も承知。
だがジ-ンは片眉を僅かに上げると細いDr佐和の手首をそっと左手で掴み、右手で胸ポケットから一枚の紙片を出すとその手に押し付けた。
ベルリンの住所がただ一つ記載された紙片は既に用意されていたのだ。
『覚悟が有るなら行け。だが奴は簡単に墜ちないぞ。』
何処か笑いを含んだ声に返された言葉は、
『墜せなきゃ一緒に死ぬだけよ。自分の命は好きに使うわ。』
『頑張れよ。』
頑張れと云われた言葉一つ持ってまずはプラハに飛んだ。ベルリンの飛行場は封鎖されていたから。
そこから車を使って辿り着いたDr佐和を迎えたのは爆撃で破壊された市街だった。
読み取れないほど破壊された住所をたどって爆音の響く街中をうろつくDr佐和を見つけたのはナイトだった。
『ディランは死ぬ気だった。俺をフェニックスに追い出して一人で・・・バードもハクもシュリも死んで居たしジ-ン達が生き残る訳も無いと知って居たから。』
俺達若手が知らない任務が残っていたようだとナイトはそう言ったが生還したディランに聞く事は無かった。
これ以上ディランを苦しめる事は無い、生き残った人間は死んだ人間の分まで精一杯生きれば良いだけだとキリ-は言って居たから。
Dr佐和を見つけたナイトの大声でディランは外に飛び出し担ぐようにしてDrを半壊した基地局に連れ込んだ。
ナイトはこれ幸いにいそいそと必要な荷造りに励み、その間ディランは呆れ果てた様に黙り込んでいた。
『此処をどうして知った?』
やっと出された第一声は日頃愚かしい他人の言動を嗤う男とも思えない言葉。
「それを聞いて解かったのよ。男はどいつも可愛い馬鹿野郎だって。」
イヴとキッドが頷いた。
ジ-ンに聞いたと云うとディランは酷く狼狽え何度も馬鹿なと繰り返したと云う。だから言ったのよ、とDr佐和がニヤリと笑った。
『私は自分が惚れた男を追いかけて来ただけ、貴方は気にしなくて良いの。好きにすればいいのよ、私の事など放って置きなさい。』
据わって居た椅子から立ったり座ったりを繰り返しているディランにDr佐和はそれ以上何も言わず久しぶりの顔を見つめ続けた。やっぱり惚れてるんだわ、こんなお馬鹿さんでも。
だから一緒に死んでも良いと思った。と、初めて真顔になる。
「本当は死なせてやりたかったのよ。G倶楽部は仲間意識が強いでしょ、華の九期生とそれに準じた十期生は特別だった。ディランが本気で死にたいのなら私も止める気は無かったの。」
「死なせてやるのは・・・・良い事なのか?」
躊躇うようなあきらの問いにDr佐和は首を傾げた。
「解からないわね。女にはお馬鹿さんな男の身勝手な理屈は理解できないもの。」
将来の希望を失った男は死に急ぐ。だが女は次の希望を見出すものだと、イヴが呟いてその眼をあきらに向けた。
「モクも死を望んでいた。女なら根性出して戦う処でも男はやけに引き際に拘る、拘り過ぎるんだ。
エラ-とキリ-、ディランは私達お荷物を理由に生きてくれたけどモクには居なかったし・・・ちびはモクを本気で好きなのか?」
実にイヴらしい直球にあきらは頷いた。
「モクが可哀想だった。一つしかない眼は何時も苦しそうに見えたし、壊れそうで護ってあげたかった。」
でもそれだけじゃないと、ゆっくり思い出す様にあきらは話し出した。
「初めて会ったのは母ちゃんの病室だった。」
キッドに眼を向けて、
「名前を聞かれただろ。思い出せなくて・・・みんながちびと呼んでるからそれが名前の様に思ってて。」
ふふっと笑う表情はやけに大人びている。
「やっと思い出してあきらだと云うと、良い名前だと云ってくれたんだ。」
「おい、褒められたからか。」
呆れた様なイヴの問いにあきらは首を横に振った。
「ずうっと名前で呼んでくれた。自分でも思い出せない名前で呼ばれると・・・自分が誰だかやっと解かったようだった。多分、私の記憶の原点なんだろうな。」
大人三人は驚いたように顔を見合わせた。
「それとモクは駄目だとは一度も云わなかった。
父ちゃんが基地に帰って初めて二人でご飯を食べた時云われたのは『作ってくれた人に失礼だから手掴みで喰うな、音を立てるな。』だった。フォークを使ったけど卵の黄身が飛び散って床や服も汚したんだ。でも怒らないで拭き取って服も変えて呉れて。
その後母ちゃんの病院に行く時も私がいろいろ引っかかっても何も言わずに見ていた。
ああ、通りすがりの犬がいきなり吠えて来たから棒で追い払ったら飼い主のおばさんが怒って。
でもその時モクが云ったんだ。『これは申し訳ない。マダム、この子供の躾は貴方の犬と同程度の様だ。』。
おばさんが怒ってぶりぶりしながら消えると私が見て無いと思ったのかこっそりニヤッと笑ったんだ。
何だか可愛い顔だった。」
「思い出した。」
キッドとイヴが声を揃えて、顔を見合わせる。
「モクはいつも笑ってたんだ。細身の葉巻を咥えたままで。」
「そうそう、少しシニカルな笑顔を絶やさなかった。大人に見えて最初は近づき難かったな。」
「でも真顔になると引き締まった表情でカッコ良かった。」
「滅多に見せなかったから余計に良く見えたんだ。」
まるで小娘の様に騒ぐ二人をDr佐和が笑う。
「G倶楽部は良い男ばっかりだったわね。軒並み馬鹿だったけど。」
「偏ってはいたな、こんな仕事じゃ仕方が無いか。」
「馬鹿野郎に惚れた私達だってとことん馬鹿だしな。」
「モクも馬鹿なのかな。」
自分の乏しい記憶の中でモクはいつだって冷静で強いくせに悲しそうに見えていたが記憶違いだったのだろうか。本当はとんでもない馬鹿野郎だったのかも知れない。
でも、とあきらは続けた。
「みんなは私に対して完全に子供を扱う形を取っていたけどモクは違ったんだ。
何の為にこうする必要が有ると判り易く教えてくれた。手で掴んだ方が食べやすいのは自分だけど、作ってくれた人には失礼だとか。病院は病気の人や怪我をした人がいる処だから汚い姿で入ってはいけないとか。しなきゃいけない我慢としちゃいけない我慢が有るとか。
モクが帰国する時も説明してくれて、これはしなきゃいけない我慢だと解かった。
悲しかったけどそれは私の問題だ。十歳になればモクの役に立つ、モクを護れる。そう思っていたんだけどね。」
「四歳児で其処までの自我が有るのか。自慢じゃ無いが私には記憶さえ無いぞ。」
呆れた様なイヴの言葉にキッドも頷いた。
「それは・・・私からすれば四歳はつい最近だからな。母ちゃんやイヴはかなり昔の話だろ。」
嫌そうな顔を平然と見渡してにやっと笑った。
「確かに擦り込みだろうとは思うし、恋とか愛とかかは判らない。単に一緒に居たいんだ。モクがどう思ってるのか見当もつかないけど約束をしたから・・・忘れてなきゃ良いなぁ。」
あきらの心許ない表情を三人は優しく見守る。
「ディランから聞いたわ。モクがスナイパーになったのは時のG倶楽部総帥神藤中佐の独断だと。怜悧冷静冷徹、そして優しいからこそ敵とは言え無駄に苦しませる事無く一撃で倒す努力の出来る男だと。でもディランから見ればローワンもモクも若くて気の毒だったと云っていたわ。」
「モクは優しい男だよ。G倶楽部では一番真面だったし、だからこそ未だに尾を引いてるんだ。」
「陸短には伊達曹長が引き込んだらしいね。どうでも立川連隊は嫌みたいだ。」
イヴの言葉にDr佐和が頷いた。
「思い出が多すぎるのよ。ジ-ンとウルフが死んだ場所だし辛いのは判るわ。」
「ナイトとルウから聞いたけど陸短では軍事史を教えているそうだ。あれほどの腕だから男連中は惜しんでるけど、未だに銃は触りもしないらしい。」
「日本陸軍最精鋭、G倶楽部の第一狙撃手だからな。」
「でも利き眼を失くしたら無理でしょう?」
「確かに利き眼は右だけどモクはどちらでも大丈夫だった。
同じように練習してたし、当時は二つの銃を使って私との連携も左右で撃ち分けていたんだ。
最大戦速でも楽勝だったし気持ち良く走れたな。
ちび、お前が陸短に行くことを反対はしないがモクに無理は云うなよ。心も身体も傷を負って癒えないままのモクをこれ以上苦しめる事は私だけじゃ無くG倶楽部が許さない。」
あきらは酷く真剣な表情を見せた。
「私が行くのはモクを苛める為じゃないし、困らせる為でも無い。身勝手な言い分だけど好きだから傍に居たい。」
帰れと云われたら悲しいなぁと、呟くあきらを女たちは笑って見ていた。