鼓動
僕は死の上に立っている。
過去、現在、未来の遍く時間の中でその場所に死は存在している。
生き物は生まれ、必ず死ぬ。それは逃れることの出来ない事象。必然の現象。
だから、生まれたことを祝福し、死を悼むのだろう。
死を目前にした人は何を思うのだろうか?
その答えは千差万別だろう。結局同じ答えなど出ない。
耳を澄ます。
僕の鼓動が聞こえてくる。
僕が生きている証明。
あとどれ程の間、この音を聞いていられるのだろうか?
1分?1時間?1日?1年?
死はいつか訪れるだろう。それは突然にやってくるものだ。
今日笑っていた人は、明日死ぬかもしれない。
明日笑っていた人は、明後日死ぬかもしれない。
来ないかもしれない明日を望むよりも今日を楽しまなくてはならない。
僕は振り返る。
そこにはたくさんの人が僕を見守っていた。
泣いている人、笑っている人、怒っている人。
様々な表情で僕を見ている。
僕はそれを見て胸から響く鼓動を強く意識する。
僕を見ていた人たちはそれを見て頷いた。
僕の視界が滲む。
それを合図に一人、また一人と立ち去って行く。方々へと歩き出す。
やがて、姿は滲んでなにもなくなった。
そして一人を残して皆立ち去った。
「私、もう行かないと」
「行かないでくれ…」
僕は泣いて訴える。まるで駄々をこねる子供のように。
「無理よ、時間だもの」
「嫌だ…!嫌だぁ…」
泣き続ける僕を母親のようにあやしてくれる。僕を抱いている腕は暖かった。耳に届く鼓動は心地良かった。
「自分でも分かっているんでしょう?死はいつかやってくるもの。それは唐突に訪れるもの。逃れられない定め。なら今日を楽しまなきゃ勿体ないじゃない?いつまでも昨日に囚われているのはダメよ」
そう言って僕を話すとドンッ、と強く突き放した。
僕は尻もちをついていしまう。
「じゃあね、いつかまた会えるからその時に…ね」
そして僕に背を向けると立ち去った他の人々と同様に歩き出す。その背中を見つめ続ける。
光の粒子になって、滲んでいく間も僕は見逃すものかと見つめ続けた。
僕以外に誰も居なくなった。
僕は膝を抱えて座り込む。
「行かなくていいのですか?」
僕に語りかける声がある。
「ここには何もありませんよ?」
僕は耳を塞ぐ。
「あなたはまだ来るべき人ではありませんよ?」
僕は首を振る。
「まあ、いいんですけどね」
声の主は溜め息をついたようだった。
僕の隣に座りこむ。両手で黒い傘を持って上品に座っている。
「生きとし生けるものはいずれ死にます。それは悲しいことですが、同時に喜びでもあるのですよ。生命の死は他の生命の糧となります。それは食物連鎖だけの話ではなく、精神の成長をも促します」
声の主は滔々と語る。
「それは人に限った話ではないのですよ?遍く生き物は経験を積みます。同胞の死が危機を教え、種の生存を助けるように。むしろ現在の人よりも遥かに死を尊重しているのではないでしょうか?人は死を悲しみすぎるあまりに重りとしてしまいます。そして自分を壊してしまうほどに。そう、今の貴方のように」
僕の方を見た気配がする。視線が僕の横顔に突き刺さる。
「死者は何を望んでいるのでしょうか?自分の死を嘆いて欲しい?自分を忘れないでほしい?そんなことを考えている者はいませんよ。死者はそんなことを望んでいませんから。望むことは一つなんですよ。分かります?」
僕は首を振る。声の主は溜め息をつく。呆れた、とでも言わんばかりだ。
「生者に今日を生きて欲しいだけですよ」
本当は分かっているんだ。
「ならお行きなさい。貴方を待っている人もいるはずです」
声の主が柏手をうつと僕の周りは淡い光に包まれる。最初から強制的に返すことも出来たのに付き合ってくれたようだ。光は徐々に光度を増していき、目を開けていられなくなる。
続いて浮遊感が僕を襲う。感覚が朧になり僕という存在が滲んでいくようなイメージ。
「時が来ればいずれ会うこともあるでしょうね」
薄れ行く意識の中、その声だけが耳に強く残った。
浮遊感が治まり、僕と言う存在を強く感じられるようになる。
僕は目を開けるとそこには見慣れぬ天井があった。
「ここは…」
顔を左右に動かすとどうやらここが病院だと分かる。
なにか夢を見ていた気がする。悲しくて、冷たくて、暖かくて、優しい夢だったような気がする。
日付つきデジタル時計を確認するとどうやらあれから2日経過してたようだ。
その時、廊下を通った看護師と目があった。
「…!先生!202号室の患者さんが目を覚ましましたよ…!!」
バタバタと走り去っていく。廊下を走るなと言う張り紙を貼った側が率先して守らないのに僕はおかしくて笑った。
僕は窓から空を見る。空は青くて眩しいほどだった。
僕の鼓動が聞こえる。これは彼女の鼓動でもある。それが愛おしく、そしてたまらなく悲しかった。
『いつか、また会えるからその時に…ね』
彼女の声が聞こえたような気がした。僕は振り返る。そこには何もなかった。
僕は死の上に立っている。
それは悲しいことだけれども、当たり前のことで、そこに彼女も居るのだと思うと寂しくはなかった。
いずれ、また会う時がくるだろう。
その時はいつかはわからない。明日かもしれないし、明後日かもしれない。それは今かもしれない。
ならその時まで楽しまなければ勿体ないだろう。
僕は死の上に立っている。でも死は誰にでも平等に訪れる、唯一の優しさなのかもしれない。