第十三話『楓の任務』+α
「蓮、起きてー! 朝だよー!」
元気いっぱいの楓の声が、部屋に響き渡った。
「ん……もう朝か」
蓮は大きくあくびをしながら、重い瞼を持ち上げて起き上がった。まだ頭が少しぼんやりとしている。
「早速だけど昨日の森へ出発だよ!」
そう言うと、楓は朝食代わりだと言って、蓮と、いつの間にか影から現れていた六音の二人に、バナナを一本ずつ手渡した。
家を出てすぐ、蓮はふと疑問に思って尋ねた。
「ねえ楓、今日もまた空を飛んでいくの?」
「もちろん! 飛べばたった数時間で着くんだから、これが一番速いんだって!」
すると、昨日からずっと静かだった六音が、初めてその凛とした声を発した。
「……数時間? 人間の飛行魔法とは、それほどまでに鈍足なのか。それではあまりに遠すぎる。私であれば、もっと早く主をお連れできるぞ」
楓が目を丸くして振り返る。
「え? どうやるのよ」
「私は音の間を移動できる。音速の理を跨ぐのだ。無論、私一人ではなく、触れている者も同行させられる。……行き先の方角と距離を教えろ」
「え、あ、えっと……ここから南南東に、およそ五十キロくらいだけど……」
「把握した」
六音は満足そうに小さく頷くと、蓮と楓に向き直った。
「私に掴まれ。主も、どうか私にしっかりと掴まってください。決して、離してはなりませんよ?」
「う、うん……」
言われるがまま、蓮と楓は六音の両腕にそれぞれしがみついた。
その瞬間、六音の口元が、ほんのわずかに、嬉しそうに緩んだ。
(……ふふ、主が私に抱きついている。これ、もの凄く良いな。普段なら絶対にあり得ないことだ)
そんな内心の役得を噛み締めながら、六音は瞬時に表情を引き締める。
「――行きますよ」
ドンッ!!!
直後、鼓膜を激しく震わせるソニックブームが響いた。
次の瞬間には、周囲の景色が線となって一瞬で後ろへと流れ去っていく。凄まじい速度。なのに不思議と、風圧も、激しい揺れも、身体にかかるGも一切存在しなかった。まるで、世界そのものを追い抜いているかのような感覚だ。
そして――。
「着きましたよ。この森ですね」
一瞬にして視界が停止した。
目の前には、鬱蒼と生い茂る巨大な原始の森が広がっている。
「すごーい……っ!」楓が目を輝かせて驚嘆の声を上げる。「私だけだったら、どうしてもここに到着するまで数時間はかかっちゃうのに! 本当に一瞬じゃん!」
「……本当に。揺れも全くなかったし、スピードの割に全然苦しくない」
蓮は周りを見て言った。
「前は、人面カマキリに襲われたんだよな……」
「主、大丈夫です」六音は蓮の前に立ちはだかり、笑みを浮かべた。「何が来ようと、この私がお守りしますから」
三人は警戒しながら、暗い森の奥へと足を踏み入れた。
「今回の依頼はねー、この森に居着いた巨大な怪物を討伐してほしいっていう内容なんだ!」楓が懐から依頼書を取り出しながら、嬉しそうに言った。「結構、報酬の額が美味しいのだよ、ハッハッハ!」
「巨大な怪物って、具体的にどんなやつなの?」
「うーん、目撃情報によると、なんか大きな犬みたいな姿をしてるらしいよ?」
「犬……? そんなのが怪異なのか?」
「そう、犬! この前探したときは見つからなかったんだけどねぇ」
六音が冷ややかに付け足す。
「怪異とはそもそも、そう簡単に人間の前に姿を晒すものではない。基本的には――」
六音の言葉が終わるより早く、ズシン……と大地が激しく鳴動した。
「待って、さっそく来たかも!」楓が身構える。
「運が良いのか悪いのか……主、私の後ろへ」
「う、うん……!」
蓮が六音の背中に隠れた瞬間、前方の巨大な巨木たちが、紙切れのようにへし折られて倒れていった。そして闇の奥から、巨大な影が姿を現す。
(……確かに、犬だ)
現れたのは、全身を泥に汚れた茶色の剛毛で覆われた、家一軒ほどもある巨大な魔犬だった。獰猛な三つの目が蓮たちを捉え、裂けた口からボタボタと強酸の涎を垂らしている。ただそこにいるだけで、生理的な恐怖が這い上がってくる。
グルゥゥゥ……ガァァァッ!!!
魔犬が咆哮した。凄まじい音圧に、周囲の空気がビリビリと爆ぜるように震える。
「よし、いっくよー!」
だが、楓は怯むことなく空中へと高く飛び上がった。その手のひらに、爆発的な魔力が集束していく。
「――“炎祭”!!」
唱えると同時に、天空から巨大な炎の渦が放たれ、魔犬の頭部を完全に包み込んだ。激しい炎が怪物の肉を焼く。
「やったか!?」
蓮が声を上げた、その時だった。炎の中から、巨大な影が恐るべき速度で突進してきた。
「えっ――」
避ける間もなく、楓の小さな身体に犬の体当たりが直撃する。
「キャッ!?」
楓は派手に吹っ飛ばされ、何本もの木々をなぎ倒して視界から消えた。
「楓!!」
蓮が青ざめて叫んだが、次の瞬間には、楓は衣服を少し汚しただけの平然とした顔で、空中を浮遊して戻ってきた。
「大丈夫、これくらいかすり傷だよ! ――これで、終わり!」
楓は空中で両手を突き出す。昨日、カマキリを一撃で仕留めたあの技だ。
「――“雫光”!!」
放たれた光線は、寸分の狂いもなく魔犬の分厚い胴体を完璧に貫いた。巨大な風穴が開き、怪物は断末魔の悲鳴を上げる力さえ失って、ドサリと地面に崩れ落ちる。
「ふぅ、やっぱりこの技だけは完成度高いなー、私!」
楓が自慢げに胸を張る。
「すごい……意外とあっけなかったね」
蓮がホッと胸を撫でおろすと、倒れた魔犬の肉体は、昨日の怪異と同じようにサラサラとした灰の粒になって、風に溶けるように消えていった。
しかし、隣の六音の表情は険しいままだ。
「主、気を抜かないでください」
「え? でも、もう倒したんじゃ――」
シュッ――!!!
言葉の途中で、何かが猛スピードで飛来した。――標的は、蓮の眉間だ。
蓮の反応速度では、避けるどころか視認することすらできなかった。だが、間一髪、六音が蓮の襟首を強引に引っ張り、その身体を地面へと転がす。
直後、蓮がさっきまでいた場所の地面に、何かが深く突き刺さった。
(……矢だ。もし、当たってたら……っ)
突き刺さっていたのは、禍々しい紫のオーラを纏った一本の矢。もし六音が動いていなければ、蓮の頭部は今頃跡形もなく消し飛んでいただろう。蓮は恐怖のあまり、全身を震わせた。
暗闇の奥から、乾いた拍手の音が聞こえてくる。
「……ほう。よく反応したな、小娘」
「誰!?」楓が即座に杖を構えて叫ぶ。
「主、あそこにいます」
六音が指差す樹上を見上げ、蓮は息を呑んだ。
そこにいたのは、深いフードを被った男だった。しかし、その姿は明らかに人間ではない。フードの布を突き破るようにして、頭部から二本の角が生えているのだ。
「何者だ、お前は」六音の声から、温度が完全に消え失せる。
角の男は木々を軽々と飛び移り、蓮たちの目の前の地上へと静かに着陸した。
「俺の名前はログ。なに、ただの狩人さ」
楓の顔が引きつった。
「悪魔……!」
(嘘でしょ……矢の軌道も速度も、全然反応できなかった。これまでの経験則でわかる。私じゃ勝てない。どうすれば……!)
冷や汗を流す楓を余所に、ログは歪んだ笑みを浮かべて弓を引き絞った。
「私の猟犬を殺したのはお前たちだな? まぁいい、最近は生きのいい獲物に会えなくて退屈していたところだ。――ここで、残さず狩らせてもらうよ」
その言葉が終わる前に、六音が静かに蓮たちの前に進み出た。
「主、楓。ここは私に任せてください。一歩下がって」
「で、でも、よくわからないけど、ここは一度逃げた方が――」
蓮の言葉を聞き、ログは嘲笑うように肩を揺らす。
「その通りだ、ガキ。逃げた方がいいぞ? ――まぁ、俺の矢から逃げ切れるかは知らんがな」
「何一つ、問題ありません」六音は冷酷にログを見据え、その瞳に光を宿した。「この程度の、ただの雑魚相手であればな」
「雑魚……か。面白い、威勢が良いものだな」
ログの目が殺気で満ちる。
「――“帝穿”」
ログが弦を放した。凄まじい光の波動を纏った矢が、大気を引き裂きながら、絶対の必殺の速度で六音の胸へと肉薄する。
しかし、六音は避ける動作すら見せず、ただ冷たく一言、その唇を動かした。
「――落ちろ」
その瞬間、世界の法則が書き換えられたかのように、迫り来る矢の推進力と魔力が完全に消失した。光を失ったただの木切れとなった矢は、六音の爪先のわずか数センチ手前の地面へ、力なく垂直にポトリと落下した。
「なっ……!? そんな、馬鹿な……っ! 俺の攻撃を無効化しただと!?」
初めてログの顔に驚愕と動揺が走る。
六音はフンと鼻を鳴らし、その袖口から、古風な小さな太鼓を取り出した。
「私に、そして我が主に喧嘩を売ったこと……その魂の髄まで後悔させてやる」
「――“爆災波”」
六音がその太鼓を、白く細い指先で強く叩いた。
ドンッ!!!
刹那、鼓膜を破壊せんばかりの凄まじい爆音と同時に、目に見えるほどの半透明な衝撃波が前方へと放たれた。直撃を受けたログの身体は、まるで紙切れのようにあっけなく吹き飛び、背後にある数抱えもある巨木を何本も、何十本も豪快に叩き割りながら、遙か奥へと消し飛んでいった。
(すごい……! あんな凄まじい威力なのに、後ろにいる僕たちには風すら届いてない……!)
蓮は六音の、神の如き力に圧倒されていた。
木々が倒れた奥へと、六音は音もなく瞬進した。
吹き飛んだ先で、ログは次の矢を番えようとしていた。だが、六音はそれよりも早く、冷酷に右手を突き出す。
「――“神言・£動くな€”」
六音の口から、、ノイズ混じりの不可思議な呪言が放たれた。
その瞬間、ログの身体は彫像のように完全に硬直した。指一本、視線一つ動かすことすら許されない絶対の拘束。
「が、あ……お前は……一体、何者、だ……っ!」
ログはかろうじてそれだけを口にする。
「名乗る義務はない。我が主の敵は、例外なく消滅あるのみだ」
六音が、パチンと綺麗に指を鳴らした。
直後、その指パッチンの衝撃波がログの肉体を内側から粉砕し、彼の身体は霧のようにサラサラと消滅していった。
「……ログ、聞いたこともない三流の悪魔だな。まあいい、さっさと主の元へ戻ろう」
六音は太鼓を仕舞うと、何事もなかったかのように踵を返した。
「六音、大丈夫かな……」
「どうだろ、相手は本物の悪魔だったし……」
前方で響いた凄まじい破壊音に、蓮と楓が不安に身を寄せ合っていると、森の奥から、平然とした顔の六音が歩いて戻ってきた。
「六音、大丈夫だったの!?」
「問題ありません。片付けました」
「よかった〜!!」楓が安堵のため息をつく。「とりあえず、これで依頼は完全に達成だね! 帰って美味しいもの食べよ!」
「そうだね、行こう」
蓮が微笑み、三人が森の出口へと向かって歩き出した、その時だった。
「――チッ、またか!!」
六音の顔が、今日一番の緊迫感に跳ね上がった。
蓮が声を上げるより早く、天空から、禍々しい光を放つ巨大な槍が、超音速で突き降ろされた。
六音は瞬時に蓮と楓の二人を左右の腕で抱え込み、全魔力を爆発させてその場から跳躍して避ける。
ズゥゥゥゥゥンッ!!!!
直後、彼らがいた場所を中心に、半径数百メートルに及ぶ大爆発が巻き起こった。大地が爆ぜ、猛烈な衝撃波が三人の身体を容赦なく打ちのめす。
(くっ……! さっきの悪魔とは比較にならん。威力が格段に高い上に、速度が常軌を逸している……!)
もうもうと立ち込める爆煙の向こう側。
そこには、深いフードを被った男が、静かに佇んでいた。その男から放たれる圧倒的な絶望のオーラはあまりにも強い。
(チッ……これほどのオーラを持つ存在が、なぜこんな場所にいる。……不味いな。今の私単体の出力では、この状況で奴に勝つのは不可能だ。何より、主の安全を第一にせねば――)
六音は腕の中を見た。先ほどの規格外の衝撃波の余波により、戦闘能力を持たない蓮と、若い楓の二人は、完全に意識を失ってぐったりとしていた。
六音はフードの男を鋭く睨みつけ、冷たく言い放つ。
「……また会う時があれば、殺りあおうじゃないか」
フードの男は何も答えず、ただ静かに、片手を天へと掲げた。
その手のひらが異様な輝きを放ち、再び、先ほどと同じ槍が瞬時に生成されていく。
「逃げますよ……っ!」
六音は二人を抱えたまま、爆発的な速度で大空へと飛び上がった。
しかし、男の手から放たれた光の槍は、まるで追尾機能を持っているかのように、空中を逃げる六音の後を猛スピードで追いかけてくる。
(クソッ……! どこまでも追ってくる気か。相殺するしかない……!)
六音は飛行速度を維持したまま、空中で強引に術式を展開した。
「――“崩落の零”!!」
視覚的な変化は何も起きない。しかし、迫り来る光の槍の軌道が、激しくブレ始めた。
(耐えられた……!? 奴の術式、どれだけ強固なのだ。だが――内側は確実に壊した。少しの外部衝撃を与えれば、きっと崩せる!)
六音は光の槍の直前で、渾身の力を込めて指を鳴らした。
パチン――!!!
空間の振動が伝わった瞬間、限界を迎えていた光の槍は、ガラスが砕け散るような音を立てて形を失い、霧霧となって大空へと霧散していった。
「……危なかったな。さっさとここを離れなければ」
六音は冷や汗を拭い、男の追撃が届かない安全な場所を目指し、京都の街へと向かって再び音速の壁を越えていった。
……森の跡地。
クレーターの中心に立つフードの男の横に、いつの間にか、もう一人の人影が音もなく姿を現していた。
「あまり暴れないでください」
呆れたような、けれど底知れない声が響く。
フードの男は何も答えず、そっちの方を向いた。
第二章[失われた記憶] おわり
……同時刻。
重苦しい沈黙が流れる部屋のなかで、丸山環は数人の幹部たちと対峙していた。
「単刀直入に言う。――私が管理していた黒魔結晶が、消失した」
環の言葉に、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
「……消失しただと? どういうことか、詳しく説明しろ、環」一人が声を荒げる。
「昨日、私の病院に運ばれてきた記憶喪失の少年がいる。……そいつが、結晶を内側から取り込み、完全に同化させた。……弁解の余地はない、これは私の監視不足による失態だ」
「 その少年をどうするつもりだ。責任はどう取る、環!」
「責任は、すべて俺が取る」
「どう取るというのだ!」
別の幹部が手を挙げ、環を制した。「待て、感情的になるな。まず、その取り込んだとはどういう状況かを詳しく説明して欲しい」
「俺にもよくわからない」環は腕を組み、不敵な笑みを浮かべた。「だがな、もしかすると……使えるかもしれないぞ。……私の勘だが、そんな予感がしている」
「しかし、危険すぎる……! 結晶を体内に秘匿しているのなら、即座に身柄を拘束し、魔力摘出の監禁処分に」
「彼の身の回りのことは、俺が責任を持って監視する」
「……言っておくが、無闇に彼を殺そうとしたり、監禁しようとしたりするなよ? ――もしそんな真似をすれば、お前ら全員、自分が入るための棺桶が必要になるからな。私ですら底が知れないやつが側近にいる」
環から放たれた言葉に、誰もが言葉を失った。
やがて、一番奥の重鎮が、深くため息をついて首を振る。
「……環、お前がそこまで言うのであれば、ひとまずは君の勘を信用しよう」
「団長!本当によろしいのですか」
「ああ、もしかすると。いや何でもない」
環が言った。
「まぁ任せておけよ」




