第一話「読経の止む時」
人は、自分が見ているものを「現実」と呼ぶ。
だが、その“見ている”という行為自体が、
すでに世界を歪めているとしたらどうだろうか。
この物語は、ある山で起きた奇妙な出来事を通して、
ひとつの問いを投げかける。
「存在とは何か」
「認識とはどこまでが真実なのか」
祈りの言葉が人を救うのか、
それとも壊すのか。
そして――
“空”とは、悟りなのか、それとも消失なのか。
答えは書かれていない。
ただ、あなたが読み終えたとき、
世界の見え方がほんの少し変わっていれば、それでいい。
高野山は、音が深い。
風が木々を撫でる音も、砂利を踏む足音も、どこか底へ沈んでいく。
まるで、この山そのものが巨大な仏の腹の中であるかのようだった。
浮浪雲晴明は、バスを降りた瞬間にそう思った。
酒の残り香を喉の奥に感じながら、軽く首を回す。
昨夜は京都で飲みすぎた。だが、頭は冴えている。いや、冴えすぎている。
「……嫌な感じやな」
白い息が、空気に溶けた。
⸻
最初に立ち寄ったのは、中央食堂さんぼう。
胡麻豆腐と湯葉、静かな味噌汁。
どれも淡いのに、妙に記憶に残る味だった。
「……人間の味やないな」
そう呟きながら、箸は止まらない。
⸻
事件現場は、金剛峯寺。
案内された部屋には、まだ読経の気配が残っていた。
「ここで、です」
若い僧侶が声を潜める。
浮浪雲は答えず、畳に触れる。
――何もない。
血も、争いも、痕跡すら。
「検視は?」
「心不全と……」
「そらそうやろな」
乾いた声。
「“死ぬ理由”がない死は、成立してへんのと同じや」
その夜。
古びた宿で、浮浪雲は一冊のノートを開く。
虚空蔵求聞持法。
記憶を極限まで引き上げる修法。
だが、その中に“異物”があった。
「……なんや、これ」
裏の真言。
人を殺すために最適化された言葉。
そのとき。
チリン、と鈴が鳴る。
窓の外 誰もいない。
ただ。
片足の足跡だけが残っていた。
翌朝。
若い僧侶が、死んだ。




