大いなる遅刻
ただ遅刻しそうになる男の話
その朝、佐藤は「沈黙」によって目覚めた。
いつもならば、午前7時30分きっかりに鳴り響くはずの運命の鐘が、鳴らなかったのだ。戦士の朝を告げるはずのファンファーレは、ない。
静寂。それは、希望の不在を意味した。
佐藤がまぶたをこじ開け、運命盤(壁の時計)に視線を投じた時、針は無慈悲にも「8時40分」を指し示していた。
絶望。 始業という名の「絶対時間」まで、残された猶予は、わずか20分。
「……ッ!」
言葉にならない呻きを上げ、佐藤は惰眠の温床からその肉体を跳ね起こした。マットレスの反動が、彼を戦場へと射出する。
彼は聖域(洗面所)へと突進した。 鏡に映る己の姿は、まさしく敗残兵のそれであった。だが、まだ戦いは終わっていない。
清めの泉(蛇口)を捻り、覚醒の水(冷水)を顔面に叩きつける。これは禊である。 次に、彼は牙(歯)を研いだ。チューブから絞り出された聖油(歯磨き粉)をまとわせ、上下左右に、来たるべき「折衝」に備え、入念に、しかし神速で研ぎ澄ます。
猶予はない。 彼は補給所へと駆け込み、最後の聖餐――それは昨夜の残りであり、硬く、冷え切っていた――を強引に掴み取ると、それを口腔にねじ込んだ。
第一章【儀式】、完了。 残り、17分。
ゲート(玄関)を蹴破るように開放し、佐藤は外界(アパートの廊下)へと躍り出た。 第二章【疾走】の幕開けである。
彼は大地を蹴った。アスファルトが、彼の軍靴(革靴)の底で悲鳴を上げる。 目指すは、800メートル先にある「駅」。
だが、道程は平坦ではない。 最初の「神の妨害(赤信号)」が彼の行く手を阻む。舌打ち呪詛とともに迂回路を選択。路地を駆け抜ける。
「危ないよ!」 避け得ぬ障害――道に飛び出してきた幼子を、紙一重で回避する。その母親からの非難の視線が背中に突き刺さるが、構うものか。
心臓が「警鐘」を鳴らしている。肺が酸素を求め、悲鳴を上げている。
(まだだ、まだ間に合う……!) 彼は、自らを鼓舞し続けた。
駅の入り口が見えた。 残り、10分。
階段を二段飛ばしで駆け上がり、彼は関門(改札)を通行証(ICカード)で突破する。 戦場(駅のホーム)の端、そこには「鋼鉄の獣(満員電車)」が、まさにその顎を閉じようとしている瞬間であった。
「待て!」
声なき叫びと共に、佐藤は最後の跳躍を敢行した。
第三章【鋼鉄の獣】。 冥府の門(閉まりかけのドア)が、彼の背嚢をわずかに噛み、そして閉じた。 ケモノの腹(車内)は、地獄であった。
同じく「試練」に挑み、辛くも乗り込んだ同志たちで、圧殺されんばかりの空間。誰もが一言も発しない。だが、そこには確かな「共鳴」があった。我々は皆、この「朝」という名の戦いを生きる戦士なのだ。
揺れに耐え、息を殺し、ただ時が過ぎるのを待つ。 3分。いや、永遠とも思える時間が過ぎ、獣は目的地(オフィス最寄り駅)で再びその顎を開いた。
人々が一斉に吐き出される。 残り、4分。
城塞(会社)までは、あと300メートル。 彼は再び大地を蹴った。
ビル風が頬を打ち、軍旗が首を絞める。 だが、彼は止まらない。 城門(自動ドア)をすり抜け、本丸を横切る。
見える。 あそこだ。 彼の戦いのすべてを記録し、そして審判を下す「勝利の証」。
佐藤は、最後の力を振り絞り、その右腕を伸ばした。
ガチャン。
乾いた、しかし世界で最も美しい打刻音ファンファーレが響き渡った。 佐藤は、ゆっくりとカードを抜き、その刻印しるしを見る。
【 8:59:58 】
佐藤は、勝ったのだ。 彼は、ネクタイを締め直し、何事もなかったかのようにポーカーフェイスを取り繕うと、ゆっくりと玉座(自席)へと歩き出した。
――――あ、今日リモートワークの日だった。




