常に上から。迎撃戦闘機“陣雷”
1942年晩秋。帝都の片隅に設けられた、窓の少ない地下会議室には、異様な緊張が満ちていた。壁には航路図と高高度風向図、そして幾度も貼り替えられた爆撃被害写真。薄暗い室内に並ぶのは、陸軍航空本部と海軍航空技術廠の将校たち、そして三菱・中島・川西・川崎の主任技師たちである。
この会議が開かれた理由は一つ。B-17、B-24――敵重爆撃機の来襲であった。
「従来の戦闘機では、追いつけん」
重い沈黙を破ったのは、海軍の中佐だった。手元の資料を机に叩きつける。
「高高度、高速、銃座多数。あの空飛ぶ要塞を真正面から相手にすれば、こちらが削り殺される」
陸軍側の少佐が静かに頷く。
「だからこそ、迎撃“専用”機が必要だ。護衛戦闘ではない。邀撃――敵爆撃機を叩き落とすためだけの機体を」
空気が変わった。
それは単なる新型機の話ではない。陸海軍の思想の違いを超える、前代未聞の共同計画を意味していた。
三菱の技師が口を開く。
「発動機は二系統で開発します。中島、三菱、それぞれ1800馬力級以上を前提に。信頼性と高空性能を最優先で」
「機体は共同設計としましょう」
川西の設計主任が続いた。
「急降下に耐え、過給器を強化し、主翼は剛性重視。速く登り、上を取ることに特化した機体……それ以外は削り落とす」
その言葉に、川崎の技師が静かに頷く。
「狙いは一撃離脱。――常に上から」
その一言に、部屋の空気が氷のように張り詰めた。
「敵の進路上空に待機し、急降下で突入。30ミリ砲による一撃。その後は反転上昇して再攻撃」
海軍の技官が呟くように言う。
「この思想を机上の構想で終わらせてはならない。名称を――必要だろう」
しばしの沈黙ののち、陸軍側の一人が静かに言った。
「仮称を……“陣雷”としましょう」
陣を守る雷。
空を裂いて落ちる雷光。
誰ともなく、同じ言葉を繰り返す。
「――常に上から」
それは戦術ではなく、誓いだった。
この日、歴史の表舞台に名を残さぬ一機の戦闘機が、静かに産声を上げた。
1943年初頭。北関東の寒風吹きすさぶ飛行場に、ひときわ異質な機影が佇んでいた。
細長い機首、大きく張り出した主翼付け根。機首下部には黒い覆いがかけられ、その奥に秘めた武装はまだ誰の目にも晒されていない。
正式な名は、まだない。入間の設計陣はただ黙って、それを呼んだ。
「陣雷、だ」
滑走路の端で、三菱の整備兵が手を擦り合わせながら呟く。
「本当にあれで……B-17を落とせるんですかね」
隣にいた中島の技術士官が、小さく笑った。
「落とすために作ったんだ。それしか、あの機体には役目がない」
発動機の試運転。
唸り声のような爆音が、冬の空気を切り裂く。1800馬力級の新型空冷エンジンは、未だ荒削りだったが、確かな力を秘めていた。
試験搭乗員――陸軍航空隊大尉、柊木は、搭乗前に静かに呟く。
「上から、殴りつけるだけだな」
海軍から派遣された観測士官が頷く。
「そのための視界。そのための機首形状です」
キャノピーは高く、前方下方視界を極限まで広げていた。敵爆撃機編隊の上方を取るため、高空視界はやや犠牲にされている。
滑走開始。
機体は重武装ゆえに鈍く、だが確実に動き出す。やがて速度が乗り、主翼が空気を掴んだ。
陣雷は――浮いた。
「脚、上げます」
格納脚が胴体へと吸い込まれる。機体は一気に角度を取り、急上昇へ。
高空。
気温は氷点下。過給器が悲鳴のような音を上げる。
「……重いな」
柊木は操縦桿を引きながら呟く。だがそれは失望ではない。
「……だが、速い」
高度六千、七千……。
速度計の針が想定値を越え始める。
地上の観測班がざわめく。
「計算より……上昇が速い……!」
だが突然、機体がわずかに震えた。
「振動が出始めています!」
空技廠の技官が声を張り上げる。
「急降下に備えた剛性は十分か?」
柊木はその報告を聞きながら、操縦桿を前に押した。
「――降ろすぞ」
機首が沈み、空が一気に視界に流れ込む。
回転数、風切り音、機体の唸り。
速度は、みるみる上がっていく。
試されるのは、設計思想そのもの。
「……耐えろよ、陣雷」
白い雲を突き抜け、地上が迫ってくる。
誰もが、息を止めていた。
1943年夏。南方から届いた電文が、陸海軍共同技術本部の空気を一変させた。
『敵重爆撃機編隊、北方海域に侵入。邀撃可能機を急派されたし』
実戦――それは、いずれ来るとわかっていた瞬間だった。
だが「陣雷」は、まだ制式採用前。
試験機扱いのまま、整備兵たちは一瞬だけ互いの顔を見た。
「……行かせますか?」
川崎の技師が呟いた。
答えたのは、海軍の大佐だった。
「行かせる。落とせるかどうか……それを証明しなければ、次はない」
薄暗い格納庫。機体番号「試一号機」の機首が朝焼けに染まる。
搭乗員は、あの男だった。
「柊木、大尉」
整備兵が敬礼する。
「帰ってこい――とは言いません」
柊木は苦笑した。
「雷は……落ちるもんだろ」
発動機始動。
いつもより荒々しい咆哮が、空気を震わせる。
「滑走路、進入許可」
「了解」
離陸。
陣雷は重たい翼を引きずるように加速し、それでも短い滑走で宙へと舞い上がる。
無線。
『高度八千。敵編隊、針路確認』
雲の上へ。
爆撃機編隊のシルエットが、黒い影となって見えた。
「……B-24か」
銃座の閃光が瞬く。
だが、柊木は焦らない。
「――常に、上から」
雲海を蹴り、陣雷はさらに高度を奪う。
太陽を背に、編隊の真上へ。
息を整え、機首を沈める。
「来い……!」
急降下。
機体が唸りを上げ、速度計の針が跳ね上がる。
900、850……空気が悲鳴を上げる。
照準線に、一機のB-24が入った。
「……撃て!」
30ミリ機関砲、咆哮。
空気が裂ける音が、機内に響く。
弾道は一直線。
翼付け根に火球。
次の瞬間、B-24の片翼が、まるで紙のように折れた。
黒煙。
爆発。
『一機、撃墜……!?』
無線が騒然とする。
だが、敵も反応する。
機銃曳光弾が、赤い雨となって迫る。
「――離脱!」
操縦桿を引き、急旋回。
重い機体が悲鳴を上げるが、主翼は耐えた。
背後でさらに一機が火を噴く。
追撃しようとする護衛機の影。
「来るか……」
だが燃料は少ない、弾薬も少ない。
「……欲張るな」
雲へ逃げ込む。
急降下、超過給。
速度は機体限界に迫る。
「……耐えろ……!」
振動。
不安。
だが、翼は折れなかった。
帰投。
傷だらけの陣雷が滑走路に腹をすり、止まる。
静まり返る飛行場。
やがて、誰かが呟いた。
「……落としたのか?」
柊木は、操縦席から静かに顔を出した。
「一機、確実に。……だが」
空を見上げる。
「――まだ、足りない」
“陣雷”は、雷では終わらない。
真の意味で、空を支配する存在になる必要があった。
1943年秋。
試験機の域を出なかった「陣雷」は、ついに正式採用の時を迎えていた。
会議室に掲げられた布――そこには、墨文字で大きく書かれていた。
『陸海軍共同迎撃戦闘機
制式名称:迎撃戦闘機 陣雷』
誰も拍手はしなかった。歓声もない。
あるのは、深い息と、静かな覚悟だけだった。
「これより訓練課程に“迎撃課程”を追加する」
海軍の将官が告げる。
「上昇、待機、急降下、一撃離脱……全て思想教育と結びつける。“常に上から”は標語ではない。操縦、そのものだ」
陸軍側の教官が続ける。
「陣雷の搭乗員は、撃墜数ではなく、編隊の被害を減らすことを誇りとする」
格納庫。
新造機が、静かに並ぶ。
灰色と深緑の混色迷彩。
細く長い機首。
翼付け根に収まる、太い砲身。
それは、ただの兵器ではなかった。
思想だった。
基地の片隅。
柊木は、新しく配属された若い搭乗員に言った。
「覚えておけ」
「……はい」
「敵と同じ高さに立つな」
風が、吹き抜ける。
「必ず、上に立て。陽を背にしろ。雲を味方にしろ」
若者は、黙って頷いた。
やがて、その言葉は部隊の中で短い合言葉になった。
「――常に上から」
1944年。
本土上空。
敵の銀色の大編隊が、雲海を裂くように進む。
そのさらに上。
見えない高さで、待っている影がある。
誰にも気づかれぬように、音もなく。
そして――落ちる。
雷のように。
その名は、陣雷。
この機体がすべてを変えることはない。戦争の流れを変えることもない。
だが――空を諦めなかった者たちの意志として。
陣雷は、今日も上空に在った。
常に、上から。




